RSS | ATOM | SEARCH
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(4)グランジの”受難”〜”届くべき人たち”でさえ厳しかった
どうも。


では「平成ガラパゴス洋楽史」、グランジの受難の後編に行きましょう。


前半では、グランジ/オルタナが日本のメタル業界から受けた攻撃について書きましたが、ただ、僕の印象ではグランジが被った日本での逆風はそれだけでは決してなかったです。


まず、グランジに対して誰が冷たかったか。それは。


全米チャートのファン


この方たちの場合はメタル・ファンの方たちのような攻撃的な物言いこそはしなかったものの、グランジとヒップホップをやり玉にして「だからチャートがつまらなくなった」「80年代はあんなに良かったのに」と静かに批判して、やがて洋楽そのものから離れて行く人も少なくありませんでした。


なんかですね、「80sミュージックに強い思い入れがある」という人にグランジやオルタナは本当にショックがあったようです。その理由は様々だと思います。「暗い」とか「重い」とか「自分にわからない」とか、そういう感じなのでしょうね。


でも、そう主張する人たちは大事なことに気がつき損ねていました。それは


80sのポップ・ミュージックが、エッジのあるところを取り除いたところで構成されていたことを。

実はアメリカでは80sの時点でインディ・レーベルの動きは盛んになってました。ローカル・レベルではありましたが、それなりに小さくないシーンも盛り上がっていました。この当時でも、ローリング・ストーンなどの音楽誌を見れば、その一端はそこまで大きくはなかったにせよ確認できます。


ただ、当時はインディを大きくするだけの受け皿はありませんでした。規模の大きなラジオ局ではまずかからなかったし、インディでの人気バンドもメジャーに行かないとヒットが出ないどころか、メジャーに移籍しても押してもらえず、低調なセールスのままで終わっていたのがほとんどでした。


そして、ビルボードのアルバムの集計法なんていい加減なものだったのです。集計はレコード店主の手作業報告。つまり、実際に売れててもそれを店主が知らないからチャートで上位に行かなかった、という話も実際にあったのです。
それで、1991年からバーコードによる機械集計に変わったんですが、その途端、ヒップホップ、カントリー、インディ発のロックの売り上げが急に上がりました。何をかいわんや、ですよね。


つまり、グランジ/オルタナとはアメリカのヒットチャートが公正になったとたんに生まれた傾向でもあったのです。ということは、多くの音楽家にとってより平等なチャンスが与えられる、あるべき変化だったのです。


しかし!


それが日本人の80sファンにとっては「不都合な変化」でしかなかった。


「いろんなものが加わって多様になる」ことよりも、これまでの習慣が保たれた方がいい。それがあの当時のたくさんいたはずの洋楽リスナーの答であったことは否めません。まあ、それは、MTVのブームや70年代後半のベイ・シティ・ローラーズとかクイーンのブームで洋楽聴きはじめたような人が既に社会人になっていたという年齢的なものもあっただろうし、本来新しいサウンドのファンになるべき次の若い層がJポップやJロックに取られていたことなどもあったんでしょうけどね。加えてちょうどこのときに洋楽のレンタル発売1年禁止の令なんかもありましたしね。


それプラス、アメリカの音楽業界で、日本人には事情のわかりにくいことも起こってしまった。それは、パール・ジャムあたりが顕著だったんですけど、それまでロックの商売法として一般化していた、アルバムの中からのシングル曲リリースをやめてしまったんですね。そうすることで、無理にヒット期間を伸ばそうとする戦略が商業的すぎる、という判断だったんでしょう。そのやり方はアメリカのロック界全体に広がりました。で、当時、ビルボードはシングル盤としての発売がない曲はチャートの対象にしない、というのが決まりだったので、当然チャートには入って来ない。でも、ロックの人気者はラジオではしっかりかかりまくっていた・・。


さすがに


ここまでの事情は日本に伝わるのは難しく、日本の業界側も「ロックは弱くなった」と勘違いを起こしてしまった。


あと、日本の放送業界ももうひとつ誤解を起こしました。それは、その当時のオルタナティヴ・ロック系のCDに「Parental Advisory」のシールがたくさん貼られていたことです。たしかあれは90年くらいにはじまって、アメリカの政府がポップ・ミュージックの歌詞のモラル低下を過剰に心配しすぎて、とにかく今よりも頻繁になんでも貼りまくっていた時代です。グランジ/オルタナのものにも、そりゃたしかに「fxxk」だの「sxxt」などは普通にあったものですが、それを「これは危険で過激な音楽なんだ」と過度に誤解してしまって、怖がってかけなかったんですね。


それプラス、91〜92年当時のアメリカと日本の社会の違いがあった。これが最終的には決定的だったのかな、と思います。グランジが生まれた背景には、アメリカの経済がにっちもさっちもいかなくなって若年失業率が高まり、暴力、ドラッグ、家庭崩壊、人種差別、そうした社会問題が山積し、遂にはグランジ/オルタナがブームになった直後の92年の年末には、ブッシュ共和党政権からクリントン民主党政権への大統領の政権交代まで起こってしまった。それくらいの社会の動乱期だったんですね。それとは全く対照的に、本はバブルの真っただ中だった。社会全体が金を大量消費することにしか頭になく、ファッションにしてもちょっとでも華やかで表面的なキレイさ・華やかさばかりがやたらと重宝されたイカれた時代でしたからね。そうした暗くてネガティヴなカルチャーを受け入れる余地は全く残されていなかった。これがトドメだったんだと思います。



「でも、流行に敏感な人だったら、受け止めたんじゃないか?」。そういう疑問を抱かれる方もいらっしゃると思います。でも、グランジが92〜93年当時、日本のオシャレな人たちに受けいられたとはとても言えなかった。なぜなら、この当時の日本でヒップなものを追いかけてる人たちの間ではマッドチェスターやレイヴ、シューゲイザーが熱烈にもてはやされていたから。このコラムの(2)で書いたように、「BEAT UK」などもあったおかげで、UKのインディ・ロックはすごくもてはやされていました。それは渋谷系にもすぐに反映されました。フリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」なんてモロだったし、あれもあったためにUKロックと日本のシーンの先端がリンクしやすかった状況があったこともまた事実で、日本でのUKロック拡大の理由のひとつになった。


ただ残念なことに、グランジでそういうことは起こらなかったんですよねえ。その理由はいくつか考えられます。ひとつはグランジのファッションが当時の日本のファッションの先端的にも受け入れにくかった。とにかく何でもソフィスティケイトされたものが好きでしたからね、バブル時代は。そしてもうひとつは、当時の日本のUKロック・ファンにハードロック的な下地がものすごく薄かった。ここ痛かったですね。この当時の日本のUKロック・ファンって、コード・ストロークで鳴らした骨太なギターの音を避けて育ってきたところがありましたからね。実際に「ネオアコ」と呼ばれるアズテック・カメラみたいな音楽のジャンルが日本で極地的に盛り上がってもいたように、繊細な細いギターの音が好まれてもいたわけで、「ハードロック的なギターのリフ」という本来もっともロック的なはずのものさえ嫌って育っていたところがあった。
だから、「グランジ」と「メタル」の区別すらよく判別ができなかった、という事情があったんですね。


だから、「ニルヴァーナは認めるけど、他のバンドはメタルみたいだからダメだ」という、意味をなしていない非常に的外れなことを言う人も多かったし、それは今もいます。たしかにニルヴァーナのルーツにはヴァセリンズのようなギターポップ的な部分があるし、それがメロディの部分の影響として出ているのは事実です。ただ、多くの人が正当化しようとするほど「他のものよりパンクだ」ということに関しては正直疑問(”反逆児”という意味でのパンクさはニルヴァーナには一番あったものの、サウンドガーデンの軌道の安定しないグニャグニャした演奏の方が音楽的にパンクロック的に僕には聴こえるし、パール・ジャムのストイックさだってクラッシュに通じるものだと僕は思っている)だし、影響源になった70sのハードロックの部分ではニルヴァーナも他のバンドも大して変わるものではありません。僕には、「グランジには興味ないけど”カート・コベイン”というキャラクターは好き」という人がとってつけて考えたその場凌ぎのでっちあげにしか申し訳ないけど聞こえないです。


(3)でも述べたように、「メタルから不必要な装飾的部分を取り除いて、緊迫感のあるエッジの部分だけを残したものが本来のグランジ」だったのに、その区別が出来なかったんですね。多少、このテのハードなロックに免疫があれば、比較的容易にわかったことなのに。彼らにはその体験値が少なかったものだからそれがわからなかった。80年代後半から日本で洋楽のチャート番組がなくなって「ジャンルに特化した聴き方」が主流になっていたんですけど、その弊害がここに出た感じですね。


たしかに、当時のそうしたUKロック側の人には、ニルヴァーナのちょっと前にメジャーに進出していたソニック・ユースとかダイナソーJrの方がハードロック的な要素が希薄だった分、受け入れやすかったことは事実です。ソニック・ユースにはファッショナブルなアート感もありましたしね。実際問題、1993年までの時点ではオリコンのチャートでソニック・ユースやダイナソーJrの方がパール・ジャム、サウンドガーデン、アリス・イン・チェインズより結果が良かったことも事実です。そういう現象が起こってる国もあんまりないんですけどね。やっぱ、この2つのバンドって、欧米圏では今もってカルトに熱烈に愛されているバンドのままで一般人気は相変わらずあるとは言えないですからね。



ただ、こういうUSインディのバンドのファンからもグランジが歓迎されたわけでもなかったんですよね、日本では。「ニルヴァーナがギリギリでオッケー」ぐらいだったかな。やっぱ、「ハードロックうんぬん」の話で。で、これが僕、言われると一番嫌だったんですけど「売れたからダメだ」とか「インディにいて自分の音楽を貫くべきだったんだ」みたいな「余計なことしやがって」みたいなことを言う人もいましたね。たしかに、このテの聴く人数の絶対数の少ない音楽には「自分にとっての秘密のバンド」を愛し、それ以外のものには極端に興味を示さないタイプの人も多いのも事実なんですけどね。でも、たとえば、自分が好きなアーティストで、どう考えてもいい音楽をやってるんだけど、「世間の理解が少なく生活にも苦労している」なんてことがずっと続いて果たして良い物か。「いい音楽だから世間にもっと知られてしかるべきだ」という風には考えられないのか。そこは同じような音楽が好きでもいつも出会ってしまう、僕にとってはもどかしいタイプの人たちですね。これもグランジの流行った当初、結構多かったタイプでもありました。


・・と、まあ、こんな風に、92〜93年当時のグランジというのは、日本では四方八方塞がった理解しかされていなかった音楽でした。ただ、困ったことにその音楽から世界のロック音楽基準が変わってしまった。これに関しては本当に皮肉でしたね。



・・と、(3)(4)と書いて来たことは、実は僕の中でも長いこと水に流して忘れていたことではありました。しかし、ここ数年、ブラジルに居住することによって、まざまざと思い出して来たことでもありました。ここブラジルでは、グランジって音楽はまあ〜、ことのほか人気があるんだ、これが!!パール・ジャムが単独公演で来たら7万人の会場がすぐにソールドアウトになるし、サウンドガーデン(クリス・コーネル)、アリス・イン・チェインズ、アリス・イン・チェインズといったバンドは「フェスに加えておけば動員が堅い」と見込まれている、日本でいうところのプライマル・スクリームみたいな扱いさえ受けています。ロック系のラジオでも、全盛時当時の曲も現在の活動の曲も本当によくかかります。「ロックの歴史を変えた一員」として、ものすごくリスペクトされています。「ところ変われば、こうも違うのか」と思うものです。そう思うと、あの当時の日本も「もっと素直に受容しておけば良かったんじゃないの?」とは、最近改めてまた思っています。


author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 01:07
comments(0), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(3)グランジの”受難”(前)〜メタル界による”弾圧”

どうも。


今回と次回にやるところは、もっともエモーショナルになるところです。なぜなら


この音楽に対する誤解を起こしたことが、以降20年の日本での洋楽の浸透サイクルをずっと送らせたままにする決定的な原因を作った、と言っても決して過言ではないから。


それがと何かと言いますと、もちろんコレです。


グランジ!


これはすごく重要なポイントなので、2回に分けてお送りすることにします。今回は、まずわかりやすく、これを読んでいらっしゃる皆さんもご存知の方も多いかと思われる”メタルとの確執と対立”、こっちの論から先に語って行こうかと思います。


僕がニルヴァーナのことを知ったのは、91年の秋頃のことでした。「ネヴァーマインド」のリリース自体は91年の9月のことでしたが、アメリカでの初登場順位は100位以下。最初から知ることなんてなかったです。ただ、アルバム・チャートを猛烈な勢いで上がっていたことで注目はされはじめてました。


そして僕は「Smells Like Teen Spirit」のミュージック・ヴィデオを、伊藤政則さんのTV神奈川の番組ではじめてみました。この当時のメタルというのは”マニアが聴く”というものの域はとうに超えていて、全世界的に”ロック一般”としてかなり広く聴かれていたものです。僕の友人にも聴いてる友達が本当に多かった(高校のときの一番の親友がかなりのマニアだった)し、僕自身も受容できる部分で接することができたのと、友人の影響もあって聴ける範囲もそこそこはありました。ただ、自分のことを「メタル・ファン」だと思ったことは今日に至るまで1度もないんですが。


で、この曲のヴィデオを見たとき「何でこの番組でこれがかかっているんだろう」という不思議な気になりました。風貌自体がまずメタルとは全く違うし、ギターの音はたしかにハードではあるんだけれど、陰鬱なメロディそのものは80年代後半のUKのニュー・ウェイヴのバンドみたいだし、むしろそっちの色の方が強いなと感じました。「つまりは、その異なる2つをミックスしたバンドなのか?」というのが最初の印象だし、それはそれで面白い、という第一印象でした。


ただ、このニルヴァーナが出て来る前から、この91年という年が何か特別な変化の年になるような予感はなんとなくありました。今だと調べるとすぐわかるんですが、この年の8月にメタリカの「ブラック・アルバム」とパール・ジャムの「テン」、9月に「ネヴァーマインド」とレッチリの「ブラック・シュガー・セックス・マジック」がリリースされています。あの当時、メタリカのあのヘヴィなリフのアルバム聴いたときもビックリしたのを覚えてるし、レッチリに関しては「母乳」の頃から一部で気にされていたバンドでメジャー移籍が僕らの友人間でも結構話題でした。でも、この前の年の終わりぐらいだったかな。僕はチャートを上がっていたジェーンズ・アディクションの「リチュアル・デ・ロ・ハビチュアル」を「なんか気になるな」と思って貸CD屋に借りに行ったことがあったし、91年2月に人生で初の海外旅行を1ヶ月やったときにもREMの「Losing My Religion」が巷でやたらかかっててました。「シリアスで、ちょっと変わり種の音楽がなにか流行りつつある」。その時代の流れ上、ニルヴァーナがスッポリはまることは容易に理解出来ました。


すると!


事態は「何か変わりそう」くらいな控えめなレベルでなしに、まるで雪崩でも起こったようにガタガタッと変わって行くことになりました。翌92年1月には「ネヴァーマインド」はマイケル・ジャクソンの「デンジャラス」を蹴落として全米1位になってしまいました。それだけでも十分ビックリだったのに、そこから何か堰を切ったように全米チャートが嘘のように変わって行ったのです。パール・ジャム、テンプル・オブ・ザ・ドッグ、レッチリ、アリス・イン・チェインズ、ナイン・インチ・ネールズ・・。こういうバンドたちが続々と全米アルバム・チャートのトップ10に入って行き、これまで圧倒的な人気を誇っていたメタルのバンドが次々と勢いを落として行ったのでした。


これは僕にはものすごく衝撃でした。そして僕はそのときにはじめて「あっ、これが本で読んで伝聞で聞いてきたところの所謂”パンク”ってヤツなのか」と思ってすごく嬉しくなってしまったのです。新しい若い勢力が、「そこにあって当たり前」と思われていた勢力を倒していく、まるで革命みたいな瞬間。80年代育ちの世代って、それまで上の世代から”キミたちの世代は飽食で商業第一の時代に生きてるから本当のロックなんて生まれない”みたいなことをさんざん言われてきてたんですけど、ハッキリ言って「そんなの嘘じゃん!」と思いました。これまでは曲さえ聴いてたらそれで満足できてたんですけど、ロックがはじめて「生きる意味」を持って僕に迫ってきた、これが人生で最初の瞬間だったんですよね。それがしかも、僕が就職シーズンを迎えようとしているそのタイミングで来るなんて!僕の人生がその後安定しない方向に行ってしまったのは、間違いなくこの瞬間があったせいでした(笑)。


で、”グランジ”と呼ばれることとなるこのロックですが、僕にとってすごく条件的に好都合でもあったこともたしかだったんです。なぜならそれはハードロックから、僕が好きじゃなかった部分を取り除いて構成されたような音楽だったから。僕には70年代後半にティーンだった7つ年の離れた姉がいたんですね。その影響もあってクイーンとかチープ・トリックとか聴ける環境が小学生のときにして既にあったんですが、そういうこともあって、エアロスミスとかAC/DCとかが大好きだったんですね。いわゆるリフ主体のソリッドで尺も気持ち短めのロックンロールですね。そういうタイプが一番好きだったんです。


そして、やたら長いバロック音楽みたいなギター・ソロとか、オペラ歌手みたいな高音とかいわゆる”様式美”と呼ばれる。ものは苦手だったし、エディ・ヴァン・ヘイレンみたいなチョーキングとかを多用するトリッキーなタイプも同じくらいダメだった。そしてモトリー・クルーとかホワイトスネイクのミュージック・ヴィデオに出て来るような「PLAYBOY」みたいなアメリカンDQNなライフスタイルには全く憧れを抱いていなかったし。あと、パワー・バラードをウリにするタイプのバンドにありがちだった、妙にギターの音をハイファイにクリアにした感じも、最初はそこまで嫌じゃなかったけど、だんだんそれが過剰に聞こえるようにもなってきたし・・。


「要はこれ、ハードロックから装飾の部分を引いた”芯の部分”への原点回帰みたいなものなんだろうな」。そういうことは幸いにも僕はスンナリ理解できました。これは僕自身のハードロック体験のおかげというか、姉が当のグランジのバンドたちが子供時代に聴いてたのと同じようなハードロックが聴ける環境に僕を誘ってくれたことが大きかったのかな、と思います。ただ、これ、「日本人のメタル・ファンの体勢には音楽的に理解するのはちょっとキツいかもな」とも思ってました。なぜなら日本人のメタル・ファンは、その「装飾」の部分こそをこよなく愛するタイプの人が圧倒的に多かったから。だいたい、それまでにもAC/DCだとか、オジー時代のブラック・サバスなどが「日本での人気がイマイチ」だと言われてきた国です。それだとさすがに接点のようなものがないですからね。


「そこで、有名になってしまったBURRN誌によるグランジ糾弾が起こってしまった」。おそらく、あの当時に洋楽ロックを聴いていた方ならそんな風にピンと来るかもしれません。まあ、これに関しては「結果的にそう」という感じですね。ただ、少なくとも92年いっぱいくらいまでは実はそうじゃなかったことも僕は覚えてます。なぜなら、上述したように僕がニルヴァーナを知ったのは伊藤政則さんの番組であり、「ネヴァーマインド」のライナーを書いたのも当時BURRNに籍のあった平野和祥さんですからね。実はその後、そのことで平野さんに興味を抱き、自分を売りこんで原稿書かせてもらったり、このブログの前身のメルマガでの定期対談の相手などもやっていただいたりしてたりするので、中にはあの方のようにグランジ/オルタナに理解のある方もいらっしゃったのも知ってます。


というか、ケラング!とか他の国のメタル誌では結構グランジは好意的に紹介されてましたからね。加えて、当のメタル・シーンの寵児で人気あったアーティストの中でも「シーン自体が飽和し、時代もシリアスに暗い時代になってたわけだから、あれは起こるべきだったと思う」と語るバンドも結構少なくなかった。そういう状況もあったので、少なくとも92年いっぱいくらいまでは、そんなにBURRNが叩いてた印象、僕はないんですけどね。むしろ、読者の側から「あんなものを擁護するのか。それでいいのか?」と詰め寄られていた印象があります。それは僕の大学のサークルに実際にそういうことを言っていたメンバーが何人かいたのでよく覚えてます。


で、93年くらいからだと思います。その有名な「グランジ・バッシング」がはじまったのは。まあ、でもそれがはじまったらはじまったで、口調はかなりキツかったんですけどね、実際(苦笑)。まあ、元々の好みの系統のメタルの路線から考えると、方向性としては間違ってはなかったとは思います。


ただ!


ひとつ痛かったのは、あの当時の日本でのメタル人口がものすごく大きかったこと。そして、BURRNの影響力がことのほか大きかったこと。ここはもしかして、想像してたより大きかったんじゃなかったのかな。僕の友人であの時代に読者も結構多かったものですが、レヴューで使われた用語を反芻するような人も結構いたりしましたからね。「どんだけ影響力デカいんだよ」と僕自身もあっけにとられていたほどでしたから。それが潜在的に何10万人かいたと仮定してみてください。そりゃ、影響力として小さいわけ、ないですよね。


そして93年秋。起こってほしくないことが起こってしまいました。それはニルヴァーナが2ndアルバム「イン・ユーテロ」を出したときです。前作がロックの流れを決定的に変えた作品でもあるわけだから当たり前のように全世界的に大ヒットを記録している最中、オリコンでの最高位は13位で、しかもMr.ビッグの「Bump Ahead」が同じ週に6位でした!この結果を、僕はNHKの音楽資料室に常設してあるオリコンをパラパラめくって知ったのですが、今日に至るまで、ヒットチャートを見てあそこまで怒った瞬間はなかったです。


さらに、その数週間後に発売され、当時アメリカで発売1週目の売り上げの新記録を作ったパール・ジャムの「Vs」は42位。僕の中で、「日本と海外とのギャップを埋めなきゃ」という、今日に至るまでのジャーナリストとしてのアイデンティティが生まれたのはまさにこの時期でした。


ただ、BURRNだけがそうした「グランジ迫害」みたいな空気を作ってたという風には僕は思っていません。それはあの時期の楽器関連のメディアやお店もそうだったし、専門学校で教えてるような髪の長めのオッチャン連中もそうだったし、HR/HMに接点のある音楽を展開しようとしていた(V系も含まれます)J-Rockのバンドやメディア連中も同様でしたね。そういう人たちがまとめて束になってかかって来た印象の方が僕にはむしろ強かったですね。


そうした事情もあり、日本では97年くらいまで、メタル系の人気バンドがオリコンのトップ10に入り続けるという、世界でも稀な現象が出来上がってしまい、それが日本で流行る音楽のサイクルを欧米に比べて数年遅れにする原因のひとつにもなってしまいました。


それはよく言えば「自分たちの好きな音楽を守る」という純粋な行為だったのかもしれません。ただ、グランジ/オルタナが世界的に「新しい潮流」として受け入れられ、それがロックを「それ以前」と「それ以後」に分かれるほどの影響力を持つように至ったか。そこはもうちょっと尊重して考えても良かったのではないのかな。そこには間違いなく、そうなるべくしてそうなった理由があったわけなので。そこで「常識」が共有されなかった時点で、日本と欧米でのロックとの認識のズレはなかなか是正されないものとなってしまいました。


・・と、このグランジの回、


これで終わりではありません。


日本で理解が得られなかったのはメタル側の人だけでは決してありません。実は、本来支持されてしかるべきだったインディ側の人や、流行りもののチャート・ファンからも得られたものではなかったのだから。


という訳で、後半に続いて行きます。



author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 12:48
comments(0), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(2)かつてUKインディ・ロックが怖がられていた時代があった(そしてそれからの幸せな脱出)
どうも。


ここで語るところは、後半はかなりポジティヴな内容ですが、前半部に問題があったこと。これは特筆しておきたいところです。



では、それが何かの説明をしましょう。


この連載の一番最初の<そのゼロ・昭和篇>の最後で、僕は「80sの日本の洋楽がおかしたほとんど唯一に近い過ちが、平成ガラパゴス洋楽の初期の支障になった」と言ったようなことを書いたと思います。


何か。それはズバリ。


UKインディ・ロック!


もしかしたら、この20年以内にUKロックを聴きはじめた方には「何を言ってるんだ」と思われる人もいらっしゃるかもしれません。たしかに現在の日本における洋楽ロックで最も聴かれているもののひとつにUKインディ・ロックがあること。それはたしかです。


しかし!


それがこと80年代になると、話が全く違うことを覚えておいた方がいいでしょう。


80年代半ば、MTVでのデュラン・デュランとかカルチャー・クラブの第2次ブリティッシュ・インヴェージョンのブームが終わると、日本の洋楽系のラジオからUKロックがほとんどかからなくなってしまいます。おそらく「流行りが終わってしまった」と判断されたのでしょう。ただ、それでUKロックが死んだわけではありませんでした。いや、見方を変えるとむしろ「本格的な才能がある者が残って、泡沫のアイドルっぽいバンドの方が淘汰された」とも見ることが出来、むしろポジティヴに評価することも出来ました。そこで淘汰で生き残ったバンドというのはザ・スミスとか、キュアー、デペッシュ・モード、ニュー・オーダーといったところです。



「なんだレジェンドになってるそうそうたるメンツじゃないか」と思われるかもしれません。ええ、たしかにその通りです。ただ、このあたりが80年代後半当時の日本のラジオから聴かれるということはほとんどありませんでした。その当時、そのテの音楽を押してるメディアなら日本にもありました。あの当時のロッキン・オンは特にそうで既に買ってる人はかなり多かったものだし、これは個人的には後で知ったことではありますがV系雑誌になる前のFOOL'S MATEもそういう雑誌でした(これは古本屋さんなどで見つけることができます)。


ただ、巷でとにかく聴かなかったものです。今の若いUKとかインディのリスナーの人にとって、たとえばザ・スミスの「This Charming Man」やキュアーの「Inbetween Days」といった曲が日本の一般的な80sリスナーに浸透度がない、と言ったら意外に聞こえるかもしれませんが、あの当時のリアルタイム・リスナーでその辺りが好きという人は、よほどイギリスに思い入れがある人くらいなもので、一般的にはほとんど知らない、と思った方がいいと思います。実際、後から出された80sのコンピでも、そのあたりの曲が入ってることって確率としても低いしね。それくらい当時は「全米トップ10」くらいのものの方が影響力強かったのです。


で、平成での初期のチャートということで見ても、その当時、そうした日本のUKインディ・ロック・ファンに一番人気があったと思われたモリッシーでさえオリコンでの90年前後のアルバム最高位は58位にすぎません。メタル系のバンドがボン・ジョヴィ、ガンズ、メタリカとオリコンでさえ1位が夢じゃない人気があって、多少人気があるバンドでも30位以内に入ることが珍しくなかった状況で、UKロック・ファン界隈で一番人気のあるアーティストがそういう順位だったわけですよ。


その他、デペッシュ・モードが、90年にアルバムが全米トップ5に入るヒットになったにもかかわらず、そのアルバム「ヴァイオレーター」がオリコンだと最高46位、「Lovesong」が全米シングル2位になったタイミングでのザ・キュアーに至っては94位ですよ!さらに、詳しくは後述しますがニュー・オーダーなんてランクに入ってさえもいなかったし、ジーザス&メリー・チェインなんてもってのほかです!


ただひとつ例外があったとしたらスタイル・カウンシルで88年にアルバムが11位まで行っています。ただこれは「カフェバー・ブーム」という日本特有のオシャレ音楽ブームの一環に組み入れられた結果で、それこそ僕が前回の記事で批判した「都会の演出BGM」としてのニュアンスが強いものです。そういう使われ方、当のポール・ウェラーはどうだったんだろうな。


ただ、


この当時、僕がこういう状況にいら立っていたわけでは、残念ながらなかったです。ゴメンナサイ!


かと言って、嫌ってたとかではもっとないです。それくらい、限られたメディアに注視しないと、UKインディ・ロックの情報って得にくかったんです。


僕の場合、元来が「なんでも聴きたい」派の人なので、ひとつのメディアだけに限定、もしくは集中して聴くって作業がどうしても苦手だったんですよね。なので、当時でいうところのロッキンオンなり、クロスビートなりに手を伸ばす聴き方って、当時としてはやっぱどこか偏って見えてたんですよね。もちろん、20歳前後の僕の音楽の許容量の狭さというか当時のリスナーとしての限界も同時に露呈してたことはもちろん認めますが。


あと、上記であげたアーティストって、実は同時代にアルバムならどれも全英トップ10入ってたんですよね。


今でなら「イギリスでアルバムがトップ10に入った」と言ったら、それがイギリスのバンドはもちろん、アメリカのインディ・バンドでもかなりウリになる売り文句です。ただ、当時はそれが通用しなかった。なぜなら


全英チャートをどこで手にし、耳にするかがやっかいだった。


もちろん、これ、当時から調べようと思えば出来ないことはなかったです。ただ、80sには「全英トップ40」という番組があったんですけどこれが終わり、輸入書店に行ってもあるとは限らない&そこまでの労力まではなかなか思いつかない状況だとそれは簡単じゃなかったです。なので、世間一般に「イギリスで流行った」と言ってもそこまで影響力が今ほど強くなかったんですね。


だから当時、「ザ・スミスとかキュアーが好きなんだ」という人は僕の入ってた洋楽サークルでも決して少なくはなかったんですが、僕が1、2年くらいのときまでは「なんかオメエ、暗いマイナーくさいの聴いてるな」みたいな扱い受けてましたね。まあ、たしかに音楽傾向としてはあのときの流行りって暗かったのはたしかですけど(笑)。ジザメリからニュー・オーダーまで一切がっさい全英トップ10入りだったわけだから、そこまでマイナーでもなかったのにね。それに追い打ちをかけるようにラジオでも本っ当にかかんなかったですからね。


ただ!


ものすごく幸運なことに、この当時の日本でのUKロック・ファンって、少数派の存在であったんですけど、かなり熱狂的だったのも事実だったんですよね。ファンの濃度がとにかく高かった。それがあったからこそ、89年10月の時点でストーン・ローゼズが来日公演を行って話題にもなりました!


これ、世界規模で見てもかなり早い方の部類に入る反応の早さだったんですよね。言っても当時、ローゼズのあの伝説の1stアルバムはオリコンで最高90位台。でも、一部メディアとファンで「これがロックの未来になる!」と信じる力は本当に強かったと思います。僕も友人の熱狂ぶり見ててそう思ってました。


そして!


そういう状況を変える出来事が、1990年に起こります。それが


「BEAT UK」のスタートでした!


これは間違いなく、日本でのUKロックに関して言えば「ゲームチェンジャー」になるべき瞬間でしたね。いくら深夜の深い時間のテレビ番組でも、あのフジテレビの番組、ということで、この番組はメジャー感を持つことが可能になりました。


まだ、この当時のイギリスってギリギリまだサッチャー政権で、景気は戻っては来てたけど、まだそこまで国の勢いとして盛り返してる印象まではなかったんですよね。そして、この番組の開始自体、結構偶然の産物だったような気も今にしてみて思います。そもそもは、当時日本に進出したばかりのCDショップ、ヴァージン・メガストアの売り出しのために作られたような番組でもあったわけだから。


実を言うと、僕、この番組が最初好きじゃなかったりします。それはユーロビートとハウスが本っ当に苦手だったから(苦笑)。これに関しては今聴いてもマジでダメですね。そのあと20数年、今日に至るまでいろんなクラブ・ミュージックやエレクトロが流行りましたけど、今もって、あれほど忌み嫌ったダンス・ビートは出て来てないですね。サウンド的にも曲のクオリティ的にもちょっとなあ・・。実は当時のイギリスの音楽に僕が乗れなかった最大の理由がこれでした。この印象は当時の一般的な洋楽のリアルタイム・リスナーはあったんじゃないかな。それくらい、すごく流行ってたものでもありましたから。


で、BEAT UKでも最初はその色合い強かったんですけど、ただ、時が経過するにつれ、マッドチェスターとかシューゲイザーものがだんだん目立つようになって来たんですよね。91年にはジーザス・ジョーンズやEMFが英米で両方でヒット出したことも手伝ってオリコンでも80〜90位台ではあったけれど結構話題になったし、プライマル・スクリームの「スクリーマデリカ」に至ってはその当時でも50位台まで上がってましたね。


そして92年にはライドのアルバムが50位台まであがり、93年にはマニック・ストリート・プリーチャーズや鳴りもの入りでデビューしたスエードが30位台まで上がってきました。そして「リグレット」が放送関係でウケたことで、ようやく日本でニュー・オーダーがメジャー感もって受け入れられました(オリコン52位)!こうして、UKインディ・ロックは徐々に徐々にメジャー感を上げて行き、そのさらに数年後に大爆発を迎えるわけでもありました。


・・と言う風に見ていただくとわかると思うんですが、UKインディ・ロックの存在は平成において

「欧米格差の最も大きなもの」から「もっともアップ・トゥ・デイトされたもの」へ日本の洋楽界で逆転で育っていくわけにもなりました。


UKロックにおけるこの状況は、この当時の日本の洋楽界における数少ないポジティヴな一面でしたね。だって、こうやってちゃんと若いところからバンドと、そのファンの育成がしっかりとなされたんだから。


そう考えるとやっぱり


ファンの熱意とある程度のインフラの存在ってやっぱ重要なんですよ!


ズバリこのことは、ガラパゴスがひどくなってる今の日本の洋楽界にとってもひとつのヒントになりうるような気も僕はしてますけどね。


ただ、その、新しい若いファンの熱意と「BEAT UK」の存在があってさえも、ニュー・オーダー以外の80s後半のUKインディ・ロックのカリスマの日本での人気は救えなかったことは、ちょっと残念ではあるんですけどねえ〜。


author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 13:45
comments(1), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(1)「バブル」という名の”架空”の「異国情緒都市風景」
どうも。


では、こないだの昭和の「前史」に続いて、「平成ガラパゴス洋楽史」の本編に行ってみようかと思います。


実は僕が大学に入って上京(住所は正確には横浜でしたが)をしたのが平成元年の4月でした。そういうこともあり、この年のことはよく覚えています。


「大学に入ったら、地方で聴けなかったような放送もたくさん聴けるし、ライブにもたくさん行ける」。そんな風に思って来ていました。


しかし!


僕はそこで「えっ、状況は前より悪いじゃないか」と思うことになってしまいます。


それまで僕は福岡にいて、毎週、ビルボードのシングルとアルバムのトップ20を紹介してくれる番組を聴いてたんですね。なので、そういうことはほぼ前提として当たり前で、さらに掘り下げてくれるようなコアな洋楽番組を期待してたんですね。


で、この前の年に、東京で2つめとなるFM局が開局されたのも知って、「洋楽志向」だと聞いていたので楽しみにしていたわけです。


ところが!


そこで鳴らされていたのは、たしかに洋楽と言えば洋楽だったのですが「これ、一体どこで流行ってるの?」と思うようなものでした。


これは以前、僕が「僕が日本人の洋楽離れを感じた瞬間(1)」というコラムで書いたことの繰り返しになるんですが、この当時の日本というのはバブル経済の真っただ中で、円安傾向になっていたこともありアメリカとの経済関係もすごく日本が有利になっていたわけです。そんなこともあり、これまで「アメリカに追いつき、追い越せ」みたいにして頑張っていた日本社会が急に自信を持ってしまって「アメリカなんて怖くないぜ」みたいな感じになってしまった。



そのこと自体は別に悪いことではなかったと思います。でも、だからと言って、欧米で大して流行っていない曲を使って「世界の誇る大都市東京」の都会的演出をする、という考え方はどうしても理解できませんでした。しかも番組のDJはバリバリに英語をしゃべってるのに、紹介してる曲は「へ?」というもので、そのギャップがどうにも気になって仕方がありませんでした。


まあ、おそらくは、これまでの日本になかった「アーバン・ステーション」を作ってみたかった、というのはわかるんですけどね。もしかしたら、「東京発で、世界に先駆けるヒットを作りたい」という、70年代の日本の洋楽界がやったことをアーバン・ミュージックで行ないたい、という野望があったりしたのかもしれません。


「で、なんなの、その、海外で大して売れてないのに流れていた洋楽というのは?」と思っている方もいらっしゃると思うので、ここではじめて具体的な名前を出してしまうとそれは、英米でコケてしまったスウィング・アウト・シスターの2ndアルバムとか、アメリカのジャズ・シーンでウケていた(けどアルバムの最高位は20位止まり)バーシアの「ロンドン、ワルシャワ、ニューヨーク」とか、そのバーシアが所属していたことで知られるマット・ビアンコとか。そういったところでしょうか。


このあたりの曲は当時どうしても好きになれなかったですね。それはやっぱり「オシャレ」という「機能性」のために利用されたBGMみたいな感じがどうしてもしてしまって、「アーティスト」そのものが語りかけてくるものが感じられないと思ったから。「おい待てよ。洋楽って”雰囲気”なのかよ?冗談じゃない!もっと、アーティストや音楽シーンそのものと向かい合いたいぜ」。そう思っていたから、なおさら嫌でしたね。「そんな、実態のないもの伝えるくらいなら、本場で流行ってるもの、もっと教えてよ」と思って、じれったい思いをしていました。このことに関しては、僕が当時所属していた、大学の洋楽サークルの大半の人たちが同じように怒ってました。


でも、悲しいかな、そういう「都市の空間演出型FM」は、ひとつ成功例が出てしまったら、全国的に右に習えで拡大してしまいました


一方、そうじゃない従来型のFMの方はそっちはそっちでJ-Pop、J-Rockが当たってしまったことで、そこで売れっ子になったアーティストの半ばプロモーションがメインのパーソナリティ番組がほとんどになってしまった。いわば「オールナイト・ニッポン」がFM全体に拡大してしまった、みたいなものですね。


そうなってしまうと、これまでにあったようなオーソドックスな洋楽紹介番組が立場を失ってしまったわけです。


いみじくも、この頃に「ベストヒットUSA」も終わり、「全米トップ40」もオリジナルのラジオ関東で終わり、あとはいろんな曲を流浪して存在感なく終わってしまった。あとは稀にロックとかR&Bに強い、音楽に愛のある喋り手の番組に稀に出会うこともありましたが、僕が80年代にそうしたようには、ラジオをはじめとした放送媒体に洋楽の情報源はもはや求めなくなってしまいました・・。


ちなみにこのスウィング・アウト・シスターやバーシア、マット・ビアンコといったアーティストですが、実はバブル期よりも、ポスト・バブル期、つまり1994年以降の方がオリコンでの最高位記録は実は良かったりします。これは思うに、90年前後のバブル真っただ中の頃のオリコンの輸入盤の集計が上手くなかったことで起こったか、もしくは、そうした東京の雰囲気が全国規模になるのに時間がかかったか、のどちらかでしょうね。そうした「都会的な空気の演出」というのは、バブルは終わったものの1992〜93年くらいに流行ったアシッド・ジャズのブームで延命され、それもあったからなのか、上記したアーティストは不思議と長らえたものです。


スウィング・アウト・シスターは世界のどこにもチャート・インしなくなった段階でオリコンTop20アーティストになり、1996年にTVドラマの主題歌になったことで、遂にはオリコンのシングルでトップ10に入るようになりました。バーシアの1994年のアルバムも、世界でほぼ唯一と言っていい、アルバム・チャートのトップ10入り(6位)を日本で果たしました。マット・ビアンコも、本国イギリスでは88年以降チャートから姿を消しているアーティストにもかかわらず、日本で自己最高順位を出したのは1997年(23位)だったりもします。


それらに比べると、まだアシッド・ジャズの方がイギリスのシーンで実際に起こった動きに連動はしてたし、ジャミロクワイみたいな長きに渡って人気を勝ち得たアイコンも出たし、渋谷系に象徴されるようなシーンも日本で実際に生まれたから意味はあったと思うし、発展的な生かし方も出来たと思います。そこはさすがにバブルもはじけて、うわついた雰囲気もなくなっていたからだったりするのかもしれません。その意味では良くなったと思いますが、でも、こっちも海外よりはちょっと大げさに騒ぎ過ぎて、長引かせてしまってる印象はあるかもしれません。



その後となってしまってはJ-Waveも、「洋楽かかるだけまだいいじゃん」と思える瞬間も出て来たので、今ではそこまで嫌な存在でも決してないんですが、しかし、あのバブルの時代に生まれてしまった放送傾向が「ラジオで洋楽情報を得る」という時代を終わらせてしまい、「国際都市」という名のイメージのもと、「謎の外国籍ヒット」を必要以上に生んでしまったことは否めないのかな、とは今にしてみても思います。
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 13:20
comments(1), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(0)前史〜「昭和のビッグ・イン・ジャパン」はなぜ許せるのか
どうも。


今日から、ちょっと更新はとびとびになりますが、短期連載に行こうかと思います。


それは題して


平成ガラパゴス洋楽史


まあ、タイトルからして、何のことかおわかりになる人も少なくないとは思いますが、ここでは、平成時代(1989年〜)になってから、いかに日本における洋楽の認識が欧米のソレと大きくズレるようになり、それが問題となって来ているのか。その点について書こうと思います。


これを書くキッカケになったのには2つの出来事がありました。1つは、10月に出るHard To Explain の次号を作成中にスタッフから「日本での洋楽インディのガラパゴス事情について書いてほしい」と言われたんですね。これ正直ビックリだったんですね。なぜなら、僕じゃなくてスタッフの方からその件に関して書いてほしいと言ってきたのだから。


「海外の音楽シーンで当たり前になってることが、なんで日本の洋楽で浸透するのがこんなに遅いんだ!」という問題意識は、僕が2001年にこのブログの前身となるメルマガをはじめたときからありました。HTEを2004年にはじめた動機もまさにそれです。ただ、2010年に僕がブラジルに行くにあたって編集長も交代した時点で、そういう路線は正直考えていませんでした。僕自身の今の考え方としては、もちろん「海外との格差」というのは音楽に限らず、映画の公開やドラマの放送開始まで含めて意識はしてますが、正直今の日本での海外エンタメの受容状況というのはハッキリとはわからないので、ブラジルで生活してて得られる状況から極力客観的な立場から伝えようとしてるんですね。だから「ガラパゴス云々」ということは「日本に住んでるときのようにはいらだちを感じようにも感じられない」というのが本音でした。


それが今回、それまでそこまで強くそういうことを主張したのをあまり聞いたことがなかったスタッフの方から提案があったので「えっ」という感じだったんですね。「ということは彼ら(彼女たち、の方が人数的にはかなり多めですが)も日本での洋楽インディの受容状況にかなり危機感を覚えているんだな、と感じた次第です。


そして、もうひとつが、その「ガラパゴス」の記事をHTEで書くにあたり「資料的なことを調べたい」と思った際、僕はオリコンのサイトに行ったんですね。「あそこってたしか、結構前からのオリコンのチャートの記録が調べられるんじゃなかったっけ?」と思ったからです。そしたら「ちょっと前」どころの話ではありませんでした。1988年分から調べられました!


そこで僕はピンと来たわけです。つまり


ならば、平成以降の日本の洋楽での情報ガラパゴスになってるものを系統立てて書いてみるのがいいんじゃないか。


そこで今回思い立ってこれを書くに至ったわけです。これをちゃんとしたものにできれば、ただ単に「洋楽」というものに限定したものでなく、日本社会のもっと広いところも見えて来るのでは。そんな風にも考えたからです。


そこで、いきなり「平成」から行くことも考えたのですが、「僕がなぜ”ビッグ・イン・ジャパン”なアーティストにあまりいい顔をしなくなったか」だとか「なぜ、欧米シーンの状況が日本で遅れることに憤りを覚えるようになったか」の対比をつけるために、あえて「昭和」の状況を前史としてつけて語りたいと思います。


では、(そのゼロ)にあたる昭和の話から・・。


まずはじめに断っておきますが、僕が洋楽を聴きはじめたのは1980年の10月のことです。ですから、「昭和の洋楽」に関しては、8年と少ししか実感のあることは語れず、あとは後追いで知ったり調べたりしたこと、ということになります。


ただ、それにもかかわらず、60年代や70年代における日本の洋楽が「ガラパゴス」だったとは正直思えないです。そこにはもしかしたら、自分の生きている時代を卑下して、生きてなかった時代を美化する自分の姿というものがもしかしたらゼロではないかもしれません。


でも、むしろ、60〜70年代の方が状況としては「ガラパゴス」にはなりやすかったし、なっても仕方がない状況があったと思うんです。そりゃ、そうでしょう。その当時はインターネットやロック・フェスなんてないどころか、輸入レコード屋さえあって都内くらいのものだし、FM局だって東名阪くらいのものです。本来なら洋楽を届けるインフラとしては今よりはかなり弱い(はずだ)し、そこで「日本なりの洋楽」というのを、海外を自分勝手に思い浮かべるシーンが出来てたって決しておかしくはなかったと思うんですよね。


しかし!


それこそ「データ的」には、その頃の日本で「洋楽が極端に流行ってなかった」とか「日本でしか売れてない曲が続発した」という話はありません。僕が自分の手元持っている、昭和時代の洋楽アーティストのオリコン・チャートの結果が資料として乗っている本(「洋楽inジャパン」1995学陽書房)や、その昔にNHKの資料室にあって読んで覚えているオリコン全記録の本で覚えている知識などによりますと、たとえばこういうことがありました。


「ビージーズは1968年にオリコンのシングルで1位になっている」
「サイモン&ガーファンクルは1970年のオリコン・アルバム・チャートで10週以上1位を独占した」
「クイーンやKISS、ベイ・シティ・ローラーズ、チープ・トリックは、アルバムだけじゃなく、シングルでもオリコン100位以内に多くの曲を送り込んでいた」


そういう話を聞くと、「海外から遅れてる」どころか「もしかして今より洋楽に関してもっと進歩的だったのでは」とさえ思えませんか?あくまで「チャートの結果」であり、日本の洋楽や音楽の状況全体をさすものではありませんが、現在の日本の洋楽状況ではとても起こりえない記録ばかりです。


で、これらの記録からあまり「日本だけに特別」な感じがしないでしょ?そこがポイントなのです!


では、この当時の洋楽リスナーはどうやって海外からの情報を得ていたのか。それについて書くことにしましょう。いわゆる「全米チャート」として知られているビルボードのチャートを日本のラジオでもチェックできるようになったのは1970年のことです。これがラジオ関東の「全米トップ40」で、これは1988年くらいまで続く長寿番組となります。ただ、1970年代当時だとアメリカのトップ40は、ロックの楽曲(たとえばレッド・ツェッペリンやピンク・フロイド)は長尺でラジオのフォーマットに合わないということでかけられなかったのでこれだけでは不完全です。なのでロック関係の情報は「ミュージック・ライフ」や「ニュー・ミュージック・マガジン(今のミュージック・マガジンの前身)」で伝えられていました。僕が後追いで読んだイメージだと、前者がイギリス、後者がアメリカのロック寄りな雰囲気がありますね。アメリカン・ロックに関しては、男性ファッション誌が「アメカジ」のブームで推奨していたみたいな話もよく聞くものです。



でも、この当時、洋楽を聴くのには必ずしも上記したようなものだけに頼る必要もなかったのも事実です。各地方のAM局には洋楽のカウントダウン番組が存在して、そこでいろんなものをおさえることが可能だったのです。Tレックスやカーペンターズもこういうところからしっかり聴かれていたわけです。


で、僕がこの60〜70年代の洋楽で「伝わり損なっていたもの」というのは、あるにはあります。それはたとえばザ・フーやキンクス、ヴァン・モリソンといったところですが、「絶望的なまでの格差の大きさ」があったのはせいぜいザ・フーぐらいじゃないのかな。それが彼らの夢にまで見た最初の来日公演が2004年までずれこんでしまった原因にもなっていましたが。


ただ、この時代には「ビッグ・イン・ジャパン」の存在はかなりありました。それはたとえば、1960年代にはウォーカー・ブラザーズやビージーズ、1970年代にはクイーンやチープ・トリック、ランナウェイズなどが代表的なところでしょうか。


ウォーカー・ブラザーズやビージーズが60年代の日本で大きな人気を得たのは、「エレキギターは不潔で嫌だけど、メロディとハーモニーが美しいものは良いのでは」という、この当時の安全志向の賜物ではないのでは、と思います。前者は「明治ルックチョコレート」のCMに当時出演し、後者は「マサチューセッツ」という曲でオリコン1位になり、その頃にGSアイドルのタイガースのロンドン・ロケの映画で共演までしています。


でも、このビッグ・イン・ジャパンに悪い印象は正直ありません。なぜなら双方とも、後に海外では重要な存在になったのだから。ビージーズはご存知のように70sのディスコ全盛時の巨大アイコンになったわけだし、ウォーカー・ブラザーズのスコット・ウォーカーはソロ時代の作品がイギリスでマニアックな評価を受け、カルト・アーティストとして今でも尊敬されてますからね。


70年代のクイーンとチープ・トリックに関しては日本から先に売り出しを仕掛けたバンドです。両者ともに英米でそこまで大きかったわけではなかったのに、日本で成功したことが逆にハクになって母国まで届いてそこで注目度が高くなった。これは日本に「先見の明」があった証拠ですね。このパターンは後にも80sのボン・ジョヴィとか、00sのMUSEにまで一応、応用はされているとは思います。



もっとすごいのはランナウェイズでしょうか。この人たちに関して言えば、アメリカでの評価なんて「女の子だけでバンドをつくったキワモノ」みたいな扱いだったのに、日本ではそれがおもしろがられてバカウケし、デビュー曲の「チェリー・ボンブ(当時の表記をそのまま使っています)」はオリコンのシングルでトップ10に入ってます。結局、ランナウェイズは成功することなく解散しましたが、日本でのヒットから5年後の1982年にメンバーのジョーン・ジェットが「I Love Rockn Roll」で全米1位の特大ヒットを記録しました。いや、それだけじゃありません。今やランナウェイズは「女性パンク・バンドのパイオニア」として、きわめてリスペクトされる存在にまでなっています。


こうした話をすると、「日本人っていいセンスしてるんだな」と思わせるかもしれませんが、僕もそう思います(笑)。他の国より先にビッグになる存在を予見できていたのだから。これなら、どんなに最初期には「日本でしか人気がなかった」ものであっても、将来的にはそれがチャラになるどころか、むしろそのことで日本が誇れるもににもなるわけで。その状況でどうして「ビッグ・イン・ジャパン」を非難することができようか。それは僕もそう思います。


ただ、悲しいかな、「平成時代のビッグ・イン・ジャパン」は昭和のようにはポジティヴではありません。なぜか。それは、持っている意味が全く逆のものだからです。つまり


流行っていたときは世界も同様だったのに、最期には「日本でしか」あたらなくなっていたタイプのビッグ・イン・ジャパンだから。


そうです!ここの意味を取り違えてはなりません。そこを取り違えている人が実際に多いから「クイーンだって昔はそうだったのに、どうして”日本でだけ人気がある”のが悪いんだ!」と言い張る人が少なくない理由を生み出してしまうのです。


この2タイプのビッグ・イン・ジャパンは一見似ているようで、全く意味が違います。つまり、60〜70年代の「ビッグ・イン・ジャパン」は例えて言うなら「若いときに日本のリーグで活躍して何かを得た選手が、本国のリーグで大化けしてMVP級のスーパースターになった」みたいなものです。それに対し、90s以降のビッグ・イン・ジャパンは「かつてメジャーで活躍していた選手がショボくなって来日して日本のホームラン王や得点王になった」みたいな感じです。


そして、この90s型の「昔の名前で出ています」系のビッグ・イン・ジャパン・アーティストが長くはびこりすぎるがために結局何が起きてしまったか。それについては本編でしっかり触れようと思います。


そして、それが80年代になると、70年代の状況がさらに強化されたものになります。この頃になると、政令指定都市クラスになるとFM局は存在したし、そこで洋楽が押されるようになります。AMの方でも、70sに存在したという、ベイ・シティ・ローラーズの人気を頂点とした「洋楽アイドル・ベスト10」みたいな番組こそなくなったものの、それでもまだ地方レベルでも独自の洋楽チャート番組は存在しました。かくいう僕も、福岡県のAM局のチャート番組こそが洋楽の入り口でした。


そこに加えて、「海外直輸入感覚」がより強くなりました。それはたとえば1981年に「ベストヒットUSA」がはじまったり、84年にテレビ朝日でMTVの放送がはじまったり。これにより、「海外の音楽を聴く」という行為自体がちょっとした流行りになっていたんですね。実際、久米宏がやってた報道番組「ニュースステーション」の金曜版でも、毎週その週の全米トップ5がフラッシュで流れてたくらいでしたからね。それだけじゃなく、各民放クラスでも深夜に週1回洋楽のヴィデオ・クリップを流す番組は存在したものでした。


で、このときの全米チャートはロックにも都合良かったんですよ。アルバム売るために、シングル・カットを3〜4曲するのが普通になっていた時代で。最初は70sからのアメリカでの人気アーティストでそれがはじまって、やがてそれがニュー・ウェイヴも加わって、80s後半にはメタル系のものまでも入ってきて。その効果でこの時代、ロックの世間認知がかなり上がったのもまた事実でした。


そういう状況があったからでしょうね。あの当時、今から振り返ると考えられないようなアーティストも日本で人気があったものです。あの当時じゃなかったら、たとえばヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなんて間違っても日本じゃ売れなかったでしょうね。「どのシーンにも入らない、オッサン臭い風貌の、アメリカ色の強いロック」なんてどう考えても、日本で当たるタイプの音楽にあてはまらないものだったしね、実際。それがオリコンのトップ10アルバム出せてたくらいなんだから。


あと、この当時も「ビッグ・イン・ジャパン」はありましたね。一番有名なのはおそらく「サイキック・マジック」とかで知られるGIオレンジかな。あれなんて、「イギリス本国でもまともにデビュー出来てない」という話がしっかりネタにされてましたけど、でも、そんなに気にならなかったですね。あの当時、アメリカのトップ40と、「日本の洋楽チャート」の両方を聴いてましたけど、トップ40自体を聴いている人も多かったから、「日本の洋楽チャートでアメリカの流行りものが流行らない」ということがそこまで気にならなかったし、逆にそういうGIオレンジみたいなアーティストに関しては、ひとつの「オマケ」というか「ネタ」として楽しめたものです。あと、チャーリー・セクストンは日本で仕掛けて、日本の方が実際に売れてましたけど、カッコ良かったし、ファッション的にJロックにも影響を与えてましたね。今、彼はアメリカン・ルーツ・ロック系のプロデューサーみたいな感じで活躍してるので、これも上述した70s型の理想的なビッグ・イン・ジャパンの系譜に入るかと思います。



ただ、そんな、こと洋楽に関してはベストな状態とさえ言えた80sでも、実は「日本で拾えていない洋楽」というものは、今と比べると随分少ないものではありましたが、存在していたのです。それは一体何なのか?これは「平成ガラパゴス洋楽史」を語る際の最初の重要なトピックになりうるので、本編で話すことにしましょう。
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 08:47
comments(0), trackbacks(0), - -