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2(-)Pray For The Wicked/Panic At The Disco

3(2)Staying At Tamara's/George Ezra

4(9)?/XXXTentacion

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6(-)Cruising With/Jane McDonald

7(8)Beerbongs&Bentleys/Post Malone

8(4)The Beach Boys With Royal/Beach Boys

9(10)Speak Your Mind/Anne-Marie

10(5)Everything Is Love/Carters

 

 

 

author:沢田太陽, category:全英チャート, 13:27
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第5回 1980-1984

どうも。

 

では、今日も「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、いきましょう。5回目の今回はこんな感じです。

 

 

 

今回は80年代に突入。1980年から84年の作品についてです。時代的にはパンク/ニュー・ウェイヴの時代になっていますが、それは非英語圏の国でも同様なようです。では、いきましょう。

 

 

We’re Only In It For The Drugs/Ebba Gron(1979 Sweden)

 

 

まず最初に紹介するのはエヴァ・グレン。スウェーデンにおけるパンクのオリジネーターです。

 

 イタリアやドイツをはじめ、自国の音楽ルーツに黒人音楽的なもののないヨーロッパの国々にとって、クラシックを一要素にもつプログレはバンドを始めるのに都合が良かった、という話をしましたが、パンク・ロックはそれ以上に、世界規模で人々の「バンドを組もう」というモチベーションを高めます。自分の持っている音楽的ルーツなどに関係なく、「日常の不満を歌いたい」という気持ちさえ強ければとりあえずバンドを組んで、ギターの3コードに情熱をぶつける。もう、これでオッケーになってしまったわけですから。

 

 ただ、パンクでシーンそのものが即座に転覆状態になったのが77年頃のイギリスだけで、当初アメリカでは一部のアンダーグラウンドなシーンへの浸透に止まったのに過ぎなかったように、他の国でもパンク・ムーヴメント自体が始まったのは英米のリアルタイムよりももう少し後になり80年代近くになります。このエヴァ・グレンのデビュー作もリリース自体は79年11月。クラッシュで言えば「ロンドン・コーリング」を出す頃です。

 

 そうしたタイムラグがあったが故に、このバンドのデビュー作も、「オリジナル・パンク」というよりは、もう少し過激にハードコアの影響がすでに感じられる荒削りな感じになっています。そして、より自分たちの歌いたいことをストレートに歌いたかったからなのか、歌詞が全編スウェーデン語で歌われています。その分、言葉がわからない外国人にはちょっと入りにくい感じにはなってはいますが、この母国語のアプローチ故に国内ではパンクが広がりやすい状況になったかと思われます。

 

 彼らはこの後、よりメロディックな成長を遂げ、82年のサード・アルバムの時に本国でアルバム・チャートのナンバーワンになりますが、これで活動を終えます。ただ、彼らの存在はスウェーデンでは伝説になり、その後も未発表ライブやベスト盤が出れば必ずチャートの上位に入る影響を見せつけています。そしてフロントマンだったヨアキン・タストレンはソロになり、本国では今でもアルバムをリリースすれば必ず1位を取るカリスマになっています。エヴァ・グレンは2014年、スウェーデンの音楽殿堂に第1回の選出の時点で、ABBAらとともに堂々と選ばれています。

 

Nacha Pop/Nacha Pop(1980 Spain)

 

 

 続いてはスペインに行きましょう。ナチャ・ポップというバンドです。

 

 スペインでは、割にロンドンやニューヨークに近い時期にパンクのシーンが起こっていますが、それには社会的背景との因果関係が存在しました。それは1939年から独裁政権を築いていたフランシスコ・フランコ総統が1975年11月に死去。国に民主政治が戻ってきたためです。

 

 より自由を叫びやすくなったスペインでは文化的なムーヴメントが起こりやすくなったわけですが、その中でも首都マドリッドの動きはとりわけ大きなもので、それは「ラ・モヴィダ・マドリレーニャ」と呼ばれる映画や文学を含んだものになりました。その動きの中からは、かの鬼才映画監督のペドロ・アルモドヴァルも生まれていますが、音楽でもパンク/ニュー・ウェイヴが強く、様々なバンドが出ています。

 

 ナチャ・ポップはそうしたシーンの中において、カリスマ女性シンガーのアラスカや、ニュー・ウェイヴ・バンドのラジオ・フートゥーラと並んでシーンを牽引したバンドとして知られています。このアルバムはデビュー作にあたりまして1980年にリリースされています。彼らの場合、パンクというよりは、どちらかというとパワー・ポップに近い作風ですが、その聴きやすさが故に共感を集められた感じでしょうか。

 

 スペインでは80年代前半から国内でのバンドブームが隆盛を見せ、半ばから後半になると、スペインのみならず、メキシコやアルゼンチンなど中南米のスペインの国々でも積極的にツアーを行い、ロックの話をスペイン語圏に広げていきましたが、ナチャ・ポップもその頃にはかなり大物になってこうしたツアーでも成功を収めます。

 

 彼らは80年代いっぱいで活動を終えますが、その後の2000年にアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画「アモーレス・ペロス」に曲が使われたりしています。バンドは2007年に再結成しますが、2009年にフロントマンのアントニオ・ヴェガを肺がんで失っています。

 

Ideal/Ideal(1981 Germany)

 

 

 続いてはドイツ行きましょう。アイデアルというバンド。

 

 60年代には他の国に大きく遅れをとっていたドイツでしたが、クラウト・ロックを手始めに、シンセ・ポップのクラフトワーク、ヘヴィ・メタルのスコーピオンズと共に、逆に音楽カルチャーをリードする国になりました。さらに、クラフトワークのおかげでシンセサイザーを使うのが得意になったこの国ではニュー・ウェイヴが盛んになりまして、「ノイエ・ドイッチェ・ヴェレ」(ジャーマン・ニュー・ウェイヴ)と呼ばれるムーヴメントが起きています。

 

 アイデアルはそのシーンにおける初期の人気バンドですね。このムーヴメントには派手なゴスメイクで知られるニナ・ハーゲンや、イギリスで「Da Da Da」をヒットさせているバンド、トリオなどがいますけどね。彼らは紅一点のフロント・ウーマン、アネット・フンペを中心とした4人組で、サウンドはディーヴォや日本のプラスティックスを思わせる、アナログ・シンセの、その当時ふうに言うなら”ピコピコ”した感覚をパンクロックに生かした軽妙さと痛快さを売りにしたバンドで、82年に解散するまで、同国ではトップクラスの人気バンドでした。

 

 このノイエ・ドイッチェ・ヴェレのブームはアンダーグラウンドでDAFやアインシュトルゼンデ・ノイバウテンなど、エレクトロ・ノイズ・ロックのカリスマを生み、さらにポップ方面ではピーター・シリングやネーナなどMTVのミュージック・ヴィデオ経由で世界的にヒットするアクトを出すなど、両極の方面で発展していきました。

 

 なお、アネット・ヘンペですが、アイデアル解散から20年以上たった2000年代の後半、ふたまわりほど年の離れた黒人男性シンガーと「イッヒ&イッヒ」というユニットを組み、なんとアイデアルに匹敵するくらいの商業的成功を収めカムバックし話題を呼んでいます。ここでは彼女はキーボード・プレイヤーとして年下の男性シンガーをサウンドで支える渋い役割を果たしています。

 

 

La Voce Del Padrone/Franco Battiato(1981 Italy)

 

 

 続いてはイタリアに行きましょう。フランコ・バティアットです。

 

 男性ソロ・シンガーが尊ばれるイタリアにおいて彼は、ここでも紹介済みのファヴリツィオ・デ・アンドレ、ルチオ・バティスティと並ぶ3大アーティストとして現在でも多大なリスペクトを集めています。彼の後くらいから、ヴァスコ・ロッシ、ズッケロ、ジョヴァノッティなど国際的にも有名なビッグな男性ソロの時代になりますが、ポップすぎてコアな音楽ファンからの人気がガクンと落ちますからね。

 

 このバティアットが評価されているのは、その実験性ですね。彼はもともとプログレ・バンドのキーボーディストとしてキャリアを始めていることもあり、こと、シンセの可能性を試したような音作りを行っています。70s初期の作品なんて、ほとんどプログレに分類できますからね。それがエイティーズに差しかかった頃には今度はニュー・ウェイヴの時代になりますが、ここで彼はシンセ・ポップに方向を転換。ここで絶妙にメロディックなシンセに乗って、この時代なりの新しいポップ・ソングでイタリアのファンを魅了。これと前後して、イタリアでは本格的にエレクトロ人気に火がついていくことになります。

 

 事実、つい先日、日本でも公開されて話題になった青春LGBT映画「君の名前で僕を呼んで」でも、バティアットの曲、実は流れているんですよ。舞台が1983年のイタリアなので「さもありなん」と言った感じですが、時代考証的にかなり正確ですね、この次のアルバムからの第1弾シングルだった曲が流れています。

 

 また、日本人にはわかりにくいことではありますが、彼の歌詞は非常に政治的かつ宗教的でイタリア人にとっては非常にディープなものなのだそうです。そのことでも今日に至るまで(現在も活動中)高いリスペクトを受ける理由にもなっています。

 

 

Paket Aranzman/Various Artists(1981 Yugoslavia.Serbia)

 

 

 続いては、とりわけマニアックかもしれません。旧ユーゴスラヴィア、その中でも今の国で言えばセルビアですね。

 

 ユーゴは東欧の中では南方にあたり、イタリアの東隣くらいの位置です。ここからクロアチア、セルビア、ボスニアなどに分かれるわけですが、ユーゴとしては1929年から2003年まで存在しました。

 

 このユーゴは他の東欧国と違って、第二次大戦後にソ連の影響で社会主義国になったわけではなく、それ以前から社会主義国で、さらに戦後に時のチトー大統領がスターリンと対立していたためにソ連とは関係のない社会主義路線を歩んでいました。それもあって、若者文化には早くから寛容で、ロックもビートルズの時代に自国のシーンが存在し、70sにはハードロックもプログレのシーンも存在しています。

 

 ただ、この国のロックに関しての情報を得るに、最も熱かったのは80sのパンク/ニュー・ウェイヴの時代だったと聞きます。そのことを象徴するのが、このコンピレーション・アルバムですね。これは、ユーゴのロックシーンを牽引したレーベル、ユーゴトンの気鋭の新人バンドを集めたオムニバスで、同国のロック名盤選のランキングで必ずトップ争いをする作品です。

 

ここにはエレクトリチュニ・オルガズム、イドーリ、サリオ・アクロバタの3バンドの曲が収録されていますが、これが世界的に見てもかなり先端を走っているポストパンク・サウンドなんですよね。たとえて言うならギャング・オブ・フォーとかワイアーみたいな、ガリガリと軋むギター・リフを主体とした鋭角的なロックバンドばかりで。仮に1981年にこうしたバンドのオムニバスがイギリスから出ていたとしてもかなりカッコいいものだったのに、それが東欧圏の国からなんのタイム感のズレもなく難なく現れているところが驚きです。

 

 このアルバムは、この国のシーンを形成するのにももちろん貢献したわけですが、同時にポーランドにツアーに渡って、同国のパンク/ニュー・ウェイヴ・シーンにも強い影響を与えています。その成果が2001年にポーランドで発売されたトリビュート・アルバム「ユーゴトン」で、ポーランドの人気アーティストたちが、ユーゴトンに所属していたユーゴのアーティストたち、イドーリやエレクトリチュニ・オルガズムをはじめとしたバンドの曲をカバー。これはポーランドではチャートの1位になるほど成功しています。 

 

Maanam/Maanam(1981 Poland)

 

 

 続いても東欧です。ポーランドに行きましょう。

 

 ソ連に反抗していたために、若者文化としてロックが盛んだった国としてハンガリー、チェコ、ポーランドの名をこれまでもあげてきていますが、80s以降の東欧でロックのシーンが最も盛んになったのはポーランドですね。この国では80年代初頭、労働組合「連帯」が政府による独裁政治に激しく対抗し、それが東欧そのものの民主化に進ませる道筋を作りましたが、そういう社会情勢にロックも歩調を合わせてか、80sになりバンドのシーンが活性化します。

 

 中でも「4大バンド」と称されたバンドが人気で、それがパーフェクト、レプブリカ、レディ・パンク(名前はレディですが、男性4人組です)、そしてこのマーナムでした。

 

 これらのバンドはいずれもパンク/ニュー・ウェイヴからの強い影響を感じさせる、いかにもこの時代らしいバンドでしたが、マーナムの場合はフロント・ウーマン、オルガ・ヤコウスキ、通称”コラ”のカリスマ性が売りのバンドでした。その存在はさしずめ「ポーランドのデボラ・ハリー」とも呼べるもので、サウンドの質感もブロンディのパンクっぽい時期のそれに似たものがあります。

 

 彼らは人気が長く持続したバンドで、90sにも、解散する2000sにも、そしてそれ以降にコラがソロになっても、アルバムがトップ5内に常に入り続ける人気バンドで、コラ自体も年齢を追うごとに声に凄みを増して、ちょっと怖いくらいまでになっていますね。

 

 あと、コラの場合、いろんな時期を見てもルックスがコロコロ変わってる人なんですが、このジャケ写でもそれっぽいんですが、坊主にもしてます。その影響かなんか知らないんですが、この国の女性の人気ロッカー、なぜか代々、頭を丸める例が多いという、不思議な現象も起きてたりしています。

 

 

Dure Limite/Telephone(1982 France)

 

 

 

 続いては久しぶりになるフランスです。テレフォンというバンド。

 

 60sにカルチャー的には映画も音楽もすごくカッコよかったフランスですが70sは今ひとつ決手がない感じでした。ただ、次のシーンのための種は蒔かれていたのかなと思えるのは、この国で最初の本格的なロックンロール・バンドであるテレフォンが生まれたことですね。

 

 テレフォンがデビュー・アルバムを出したのは1976年のこと。76年に出てきたというとどうしても「パンクに触発された?」みたいなことが想起されがちですが、ちょっと違います。彼らはシンプルでストレートなロックンロールを信条としていましたが、それはストーンズやザ・フーの60年代におけるソレ。同じ時代ならむしろパブ・ロックであったり、あるいはこれがもう少しハードだったらAC/DCにも近い線だったとも思います。ちょっとルー・リードも入ってるかな。

 

 そんな彼らは、レザー・ジャケットに痩身で無骨なフロントマン、ジャン・リュック・オーベールを中心に、甘いマスクのリード・ギタリスト、ルイ・ベルティニャックに紅一点ベーシストのコリーヌ・マリエノーという、華のある3人が絡みあうシンプルながら力強いロックンロール・アンサンブルを披露していきますが、1980年代が近づくにつれフランスを代表するバンドにのし上がって行き、1982年にこのアルバムが出る頃にはフランスのチャートでロックバンドとしては初の1位。50万枚を売るほどのバンドに成長します。この頃になると、アルバムのタイトル曲こそはザ・フーの「Won't Get Fooled Again」みたいではあるんですが、ニュー・ウェイヴの感覚も同時代的に取り入れ始め、言い意味で軽快さと小気味よさがうまれていますね。

 

 彼らは1984年にもう1枚アルバムを出し、人気絶頂のまま86年に解散します。その後もオウベールはソロとして成功しますがテレフォンほどのインパクトはなく、絶えず再結成が望まれ、現在も秘蔵ライブの類やベスト盤が出るたびにチャートの上位に登り続けています。

 

Radio Africa/Aquarium(1983 Russia)

 

 

 

続いては、とうとうこの国が出ましたね。現在のロシア、この当時なら旧ソ連です。

 

 なぜ、この国がこれまで出ていなかったのか。それはやっぱり、取り締まりが厳しかったからでしょう。東欧の他の国には若者文化に関して寛容だった国もあたわけですが、ソ連と言うのはそうしたものを国の外から干渉して取り締まる立場にありましたからね。どこよりも厳しかったわけです。

 

 そのような国だと、さすがに表立っておおっぴらにロックしようと思っても、見つかれば処罰もされかねません。ただ、それでもロックそのものを聞く者は存在し、演奏活動をする人たちも地下レベルで存在しました。演奏活動そのものは70年代後半にはかなりの規模になっていたというし、音源の流通もカセットテープでの音源発表で行われていたと言います。

 

 ボリス・グレヴェンシコフ率いるバンド、アクアリウムはそんなタイミングで登注目されているバンドです。ボブ・ディランやビートルズに影響を受けたボリスのバンド、アクアリウムは結成自体は大学生だった1972年くらいの話ですが、1980年3月、この国で最初のロック・フェスティバル、トゥビリシ・ロック・フェスに出演し、同性愛を表すアクションなど政府を挑発する行為を連発して注目を集めたようです。

 

 これはそんな彼らが1983年に発表したアルバムです。これまで、彼らもそうだし、他の多くのバンドも、ライブの模様を録音した作品を発表していたのですが、それはスタジオを借りて行った最初のオリジナル・アルバムでした。これで注目度が上がった彼らですが、同じ時期に他のソ連国内のバンドたちの注目度が上がり、バンドブームの様相が高まっていきます。そして86年、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカにより、ロックバンドの活動の許容が広がったことでソ連でのロック人気はさらに高まることになりました。

 

 この後、1988年、ボリスはソロでインターナショナルにレコード会社と契約。ソロ・シングル「レディオ・サイレンス」はユーリズミックスのデイヴ・スチュワートのプロデュースで世界中に紹介されました。日本でも当時、ラジオで結構かかってましたよ。

 

 このアクアリウム自体は、基本は80sのフォークロック、とりわけダイア・ストレイツっぽい感じがありながらも、メロディはロシア民謡的な独特な暗さがあって、なかなか摩訶不思議ですよ。

 

 

Musa Ukungilandela/Juluka(1984 South Africa.Zulu)

 

 

そして、この特集、初めての地域にいきます。アフリカ。それも南の端、南アフリカ共和国に行きましょう。

 

 今回の特集で僕が「しまった!」と思ったのは、「非英語圏」としてしまったことにあります。なぜなら、アフリカで音楽が盛んなところといえば、概して「公用語が英語」という国が多いから。アフリカで最もGDPの高いナイジェリアがそうだし、ケニアも、ガーナもそう。そして、今回選んだ南アフリカもそうです。

 

 では、それにもかかわらず、どうして今回これを選んだのかというと、この場合は、英語ではなく、原住民が代々使っているズールー語で歌った作品だったから。そして、そのことに強い社会的な意義があるからです。

 

 今回のこのアルバムのアーティスト、ジュルーカのリーダー、ジョニー・クレッグはイギリスからの移民白人です。彼は大学で人類学を学び、アフリカの部族の言葉にも長けていました。これを自らのルーツ音楽であるロックと融合した音楽活動を展開するべく、70年代からバンド、ジュルーカを結成します。

 

 このバンドでは黒人との混合バンドを組みますが、そのことにまず大きな意味がありました。それは当時、この国がアパルトヘイトにあったため。わずか人口15%の白人がその他の黒人に対し人種差別を行う世の中でそれは国際的にも大問題となっていましたが、そんな中、彼は意欲的に人種的融和を目指していたわけです。

 

 最初は英語で歌われていたジュルーカの歌ですが、七枚目にあたるこのアルバムで全編にわたって黒人原住民の言語であるズールー語で全編にわたって歌われ話題となりました。また、サウンドの方もシンセザイザーを導入。このアプローチも、当時のアフリカン・ポップの先端として紹介されました。

 

 ジュルーカはこのアルバムを持って解散。クレッグはこの後にサヴーカという新バンドを結成。アフロ・ポップの世界的アーティストとして活動し、世界にアパルトヘイトの撤廃をアピール。そしてそれは1990年に実を結ぶことになります。

 

 

Two Steps From The Move/Hanoi Rocks(1984 Finland)

 

 

 

 そして今回の最後はフィンランド。おなじみの人も多いハノイ・ロックスでシメましょう。

 

 ハノイですが、本国で1981年に登場したロックンロール・バンドで、イギリスを経由して82年の終わりごろには日本にも紹介されましたが、かなり熱狂的に迎え入れられたものです。風貌は「遅れてきたグラム・ロック」という感じなんですが、ニューヨーク・ドールズやジョニー・サンダーズのようなニューヨーク的退廃の美学もあり。サウンドの方はパンク的なんだけど、ハードロック的な骨太さもあって。その、「どのジャンルにもはまらない、オリジナルの魅力」がハノイにはありました。特に日本では「フィンランド」という、全く聞きなれないところからやってきたこともあり、やたらと「白夜の」という形容のされ方をしたものです。

 

 ただ、彼らの存在が世界的に大きなものとなったのは、83年にアメリカに渡ってからですね。彼らのグラマラスなロックンロールは、この当時、アメリカで勃興しつつあった、モトリー・クルーやラットをはじめとしたグラム・メタルのシーンに受け入れられつつありました。実際、84年に発表したこのアルバムもかなり高い注目を浴びたのですが、84年12月、このバンドのドラマー、ラズルが、モトリー・クルーのヴォーカル。ヴィンス・ニールの運転する車に同乗した際、交通事故で事故死。このショックでハノイは解散してしまいます。

 

 ただ、ハノイには極めて大きなファンがついていました。それはガンズ&ローゼズのアクセル・ローズ。彼が何かとハノイへの敬愛を口にしたことで、ヴォーカルのマイケル・モンローのソロ活動などもそれなりの恩恵を受けていたものです。

 

 ただ、逆にそのアメリカのグラム・メタルでの絶大な評価がゆえに、このジャンルが一気に人気を落とした90s以降、ハノイもこのジャンルの中に吸収されてしまって、彼ら本来の境界線のない独自性が見過ごされがちになってしまったのは個人的に残念ですけど。

 

 今日、ハノイの存在は、フィンランドが彼らの登場後に世界を代表するメタル大国の一つになったことでもその後への影響力は伺えます。ただ、やはりどこか、まだ評価のしたりなさを感じたりはしますけど。

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 10:38
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再掲載:祝ザ・キンクス 活動再開記念 全オリジナル・アルバム From ワースト To ベスト (第7回)ザ・キンクス その2 10-1位(2017.5.12掲載)

どうも。

 

 

では、昨日の続き、行きましょう。

 

 

 

From ワーストTo ベスト、第7回のザ・キンクスです。今日はいよいよトップ10の発表です。

 

 

早速、10位から行きましょう。

 

 

10.Lola Vs Powerman Moneygoround Part One(1970 US#35)

 

 10位は、キンクスのパイ・レコード時代の後期の代表作ですね。「ローラ対パワーマン マネーゴーラウンド第1回戦」。どうしても、この邦題で覚えてしまっています。

 

 このアルバムは、タイトルにもあるように「ローラ」の、初期ブリティッシュ・ビート期以来となる久々の世界的ヒット(全英2位、全米9位)に押される形でアルバムも注目されたんですけど、アルバムを通して言えることは、70年代にさしかかるとレイ・デイヴィスのアメリカ本格進出の野望が強くなっていて、ここで聴かれるのも南部を意識したアーシーなサウンドが目立って来ています。そういうサウンドでありながら、イギリスの音楽業界を皮肉ったコンセプト・アルバムというのも面白いし、「ローラ」はおそらくロック史上最初のトランスヴェスタイトについての歌ったヒット曲(ヒットはしてないけどヴェルヴェット・アンダーグラウンドにもあったかな?ゲイ・テーマはあるけど)とも言われていて、そこも注目すべき点ですね。

 

 

9.Low Budget(1979 US#11) 

 

 パンク・ムーヴメントやヴァン・ヘイレンのカバーによる「再発見」の効果を活かして作った、アリスタ・レコード期では最大となるロックンロール・アルバムですね。徹頭徹尾、ほとんどがアップテンポのロックンロールで、「パンクのゴッドファーザーらしいこと、やってくれよ」と願うファンの期待にようやく応えたアルバムとなりましたね。

 

 実際、このときの全米ツアーはかなりウケていて、その模様は「ワン・フォー・ザ・ロード」という、キンクスを代表するライブ・アルバムにもなって、これも全米で12位まで上がる大ヒットになりました。これゆえに、この時期を「アリーナ・ロック・キンクス」と呼ぶ人も少なくないほどです。

 

 全編、パンキッシュでスピーディなロックンロールが目立つアルバムではありますが、タイトル曲にも見られるように、アメリカン・ロック期を通過していないと表現出来ないブルージーなロックンロールが目立っているところがやはり老獪なベテランゆえのことになっていて、その意味でも興味深い1作です。

 

 

8.Something Else By The Kinks(1967 UK#35,US#153)

 

 1967年、世がサイケ期の頃に発表したアルバムで、人気の高い作品ですね。

 

 たしかに名曲多いんです。エンドを飾る、イギリス観光にもピッタリな名バラード「ウォータールー・サンセット」をはじめ、冒頭はザ・ジャムもカバーした「デヴィッド・ワッツ」、そして、このアルバムで頭角を現したレイ・デイヴィスの弟デイヴによる「デス・オブ・ア・クラウン」。デイヴはこのアルバムで3曲で貢献していますが、このときがやっぱ一番冴えてたかな。

 

 これ、キンクスにとっての、ビートルズで言うとことの「ラバー・ソウル」みたいなアルバムですね。いわゆる、得意の3コードのロックンロールというフォーマットから脱皮して、より凝ったアレンジで曲調の幅を広げる時期と言うか。キンクスの場合、スタジオ機材を駆使したエフェクトはこの当時の他のアーティストほどには使ってはいないんですけど、そのかわり、ハープシコードをはじめとした楽器類の使い方でそれを表現してますね。クレジット見ると、ハープシコードを弾いてるのはレイ本人で、彼が他にハープやマラカス、チューバまでを担当していますね。

 

 

7.Give The People What They Want(1981 US#15)

 

 アリスタ期の“復活キンクス”の中のアルバムの中では、これが一番ですね。前作「Low Budget」でのパンク路線を基本的に継承している上に、ここではときおりソフトめな曲で変化をつけ、単調に陥っていないところが良いです。初期のキンクスのアルバムにあった良い部分を、80年代初頭の空気に合わせて蘇らせたような良さがあります。

 

 中でも、自身の代表曲「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」を、今で言うセルフ・サンプリングして新たに作ったロックンロール・ナンバーの「デストロイヤー」と、軽快さは残しながらもさわやかな「ベター・デイズ」の2曲がひときわ光りますね。

 

 ちなみに、僕がキンクスの存在を知ったのもこのアルバムでした。音は聴いてなかったんですけど、ちょうどこのアルバムの日本でのリリースの際にツアーで来日したんですけど、このときにレイがつきあって、このアルバムにも参加しているクリッシー・ハインドのプリテンダーズも一緒に来日してるんですよね。まさにこのアルバムが、プリテンダーズの持つストレートな軽快さと、胸キュンなメロウさを表現したアルバムでもあるので、相乗効果になったのかな。そして、来日公演後に2人は結婚もしますが、すぐに離婚もしてしまったところが、またレイのトホホたるゆえんでもあります。

 

 

6.Maswell Hillbillies(1971 US#100)

 

 これもいろんなところで名盤とされている作品ですね。キンクスが拠点をアメリカに移しRCAに移籍しての第1弾です。

 

 このアルバムでキンクスは本格的にアメリカの南部サウンドに接近しています。ただ、レイドバックした雰囲気も感じさせつつも、肉感的な力強さも同時にあるんですよね。このあたりの感覚は、ザ・バンドの良さをしっかりわかってる感じがするなと思って、聴いてて感心しましたね。この当時、ほかにもイギリスから南部サウンドに接近したものが少なくなかったんですけど、僕の中ではこれとストーンズの「メインストリートのならずもの」が双璧ですね。レイ・デイヴィスって、「きわめてイギリスの庶民っぽい」という言われ方をされる人ですけど、もともとはアメリカの音楽やカルチャーにすごく造詣の深い人で、その良さが出ていると思います。

 

 60年代のキンキー・ビートとはまた違う、ロックンロールの別の側面でのカッコ良さを聴かせている作品なので、実はもう少し上位も考えていたんですけど、ちょうどいい手の打ち方があったのでそれに準じました。

 

 

5.Arthur(Or The Decline Or Fall Of The British Empire)(1969 US#105)

 

 これもキンクスを語る際に外せない作品ですね。「アーサー、もしくは大英帝国の衰退並びに滅亡」。これも、ややこしい邦題ゆえに覚えたタイトルでもあります。

 

 これはキンクスの数あるコンセプト・アルバムのうち、筆頭クラスに大切なものですよね。やっぱ、「イギリス人らしさ」をテーマに据えさせるとレイは強いと言うか。いざ、話を組み立てさせたら、安っぽく終わることも少なくない彼なんですが(笑)、これに関しては、大英帝国黄金期から世界大戦、そして現在と、歴史軸もすっかりしてますしね。第2次大戦後に多く、現地で多くのアーティストも生んでいる英国人のオーストラリア移住の話なんかも「ああ、こういう感じで起こってたのね」と思えたりもして。

 

 もちろんシアトリカルではあるのだけれど、そこで彼ら持ち前のロックンロールが崩れることなく「ヴィクトリア」や「シャングリラ」といった見事なロックンロール・チューンがあるのも良いです。

 

 

4.Everybody's In Show-Biz(1972 US#70)

 

 これも「この世はすべてショー・ビジネス」のタイトルの方がしっくり来ますね。RCA移籍の第2弾で、彼らにとって初の2枚組です。

 

 これが僕、というか多くのキンクス・ファンに必要な理由。その1は「セルロイドの英雄」の存在ですね。レイが子供の頃から描いている、ショウビジネスやアメリカへの憧憬を、この時点でも既に十分美しきノスタルジアに包まれていたグレタ・ガルボなどの1920〜30年代のハリウッド・スターの話を物語ることで語るこの曲はレイのリリックの中でも最高傑作のうちのひとつですね。ライブでも欠かせない定番になっています。

 

 そしてふたつめは、やっぱりディスク2のライヴ盤ですね。すっごく骨太でシャープなライブでの彼らの真骨頂が出たものなんですけど、その中核をなしてる楽曲こそ「Maswell Hillbilies」からの曲なんですよね。こっちでのアレンジの方が良いんです。だから、こっちの方をあえて上位に選んだんですよね。

 

 

3.Face To Face(1966 UK#12 US#135) 

 

 

 ここからはジャケ写つきで行きましょう。僕はシングル・ヒットをイギリス国内で連発させていた60年代半ばのキンクスに目がないのですが、これはその後半の時期に出された重要なアルバムです。

 

 シングルとしては、ちょうど直情的なキンキー・ビートから一歩踏み出して、「A Well Respected Man」とか「Dedicated Follower Of Fashion」とか、ディランに代表されるフォークロックからの影響が感じられる曲が出はじめて、それによってレイのアイロニーたっぷりの詩人ぶりが開花しはじめた時期です。

 

 そんなときに出されたこのアルバムは、「ロック史上最初のコンセプト。アルバム」とも言われている作品ですね。まあ、コンセプトといっても大掛かりな物では決してないんですが、それでも、「ロックスターとしての喧噪」が最初で描かれ、「田舎でのスロー・ライフに憧れる」というくだりは、後のキンクスのキャリアで何度もくり返し出てくるものであり、ここにひとつの大きなアイデンティティの形成が見て取れます。そして、その話のオチが、シングルで全英1位にもなった超名曲「サニー・アフタヌーン」で、「日光浴の日差しまで税金で持って行かれる」と、優雅な暮らしだって世知辛い、というとこまで含めて完璧です。

 

 ここからがキンクスらしくなってくるのに、ここから人気が落ちてしまうのも、またキンクスらしいとこです(笑)。

 

 

2.The Kink Kontoroversy(1965 UK#9 US#95)

 

 

 2位に選んだのは1965年発表のこのサード・アルバムです。

 

 よくこういう企画だと、いわゆる1967年以前の作品って、「いわゆるアルバムの時代の前で、シングルの寄せ集め的な時期だった」として上位に選ばれない傾向があるんですけど、僕はそれに真っ向から反対です。たとえ、アルバムが優先されていなかった時期でも、収録曲が普遍的に物語る力もちゃんとあるわけで、僕はそういうのを無視したくはありません。このことは今後、60年代から活躍するアーティストを語る際にもしっかり適用していくつもりです。

 

 このアルバムは、「ユー・リアリー・ガット・ミー」からのキンキー・ビートがひとつのピークを迎えたときの作品ですね。「Everybody's Gonna Be Happy」「Set Me Free」「See My Friend」と、このアルバムには入らなかったけれど傑作シングルが連発されていた時期のレコーディング作だし、加えて本作にも入っている「Till The End Of The Day」こそ、キンキー・ビートの最高傑作だと僕は思ってます。

 

 それ以外にも、キンクスのアイロニーがキンキー・ビートと一体となった「Where Have All The Good Times Gone」や、スリーピー・ジョン・エステスのブルース・カバーながらも、そのパンキッシュなアレンジで、後にエアロスミスが子のヴァージョンを元にしてカバーした「ミルク・カウ・ブルース」など聴き所満載です。パンクやガレージを愛する人たちにこそ、50年経っても色褪せないプリミティヴなロックンロールを聴いて欲しいものです。

 

 

1.The Kinks Are Village Green Preservation Society(1968)

 

 

 そして1位に選んだのはこれです。「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェーション・ソサイエティ」。

 

 これを1位にしたのは、これほどキンクスらしさが1枚に凝縮された作品はないから。サイケデリック大全盛の時期に「田舎が最高だ!」と叫び、結局,その後、ヒッピー的な多くのアーティストが結果的に追随するというひねくれぶりと先進ぶり。また、そうであれいながらも、ややレイドバックした感じも垣間見せつつも、キンクスらしい豪快なロックンロールは失われていないところといい、コンセプト・メイカーとしてのレイの手腕といい。ここにはみんなひとつになって入っています。

 

 特にミック・エイヴォリーのふりかぶりと手数の多くなったドラムと、シャープなアコギのギター・リフがカッコいいんですよね。「Do You Remember Walter」や「Picture Book」「Johnny Thunder」といった前半部はソレで持って行くし、後半になれば「Starstruck」「Village Green」みたいなメロで聴かせる曲が光ってくる。惜しむらくは、この時期にシングルでリリースされた名バラード「デイズ」を入れてくれれば言うことなかったんですけど、仮にそれがなかったにしても本作はアルバムとして完璧です。

 

 ただ、そんな、キャリア史上最高のアルバム(僕がそういってるだけじゃなく、多くの人がそう指摘している)にもかかわらず、これがチャートインさえされていなかったところがキンクスらしいし、その作品をベースにして壮大な続編的ロックオペラ作ったら、ファンにさえ不評の大失敗作になってしまった、というとこのオチまでキンクスらしいです(笑)。僕が「プリザヴェーション」をワーストに選んだのも、ベストのこの作品との対をなしたいと思ったからでした。

 

 

 ・・といった感じですね。

author:沢田太陽, category:FromワーストTo ベスト, 13:24
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再掲載:祝ザ・キンクス 活動再開記念 全オリジナル・アルバム From ワースト To ベスト (第7回)ザ・キンクス その1 24-11位(2017.5.11掲載)

どうも。

 

 

いや〜、信じられない!

 

 

ザ・キンクス、約25年ぶりに活動再開ですよ!信じられません。

 

キンクスに関しては、ブリティッシュ・ビートの先駆のバンドとして心から尊敬しているし、活動休止直前の渋谷公会堂でのライブも見ていたりするので思い入れがあります。

 

たんに活動w再開するだけでなく、ニュー・アルバムも作っているとのことで、本当に楽しみです。

 

そこで今回は、昨年の5月11日、12日に掲載した、ザ・キンクスの全オリジナル・アルバムのFrom ベストToワースト、これを再掲載したいと思います。僕の場合、キンクスという存在は、「全アルバム・レヴューできるぐらいでないと音楽ジャーナリストは務まらない」くらいに本当に思っていた時期があるので、ひときわ思い入れがあるんですよね。

 

では、その時の掲載を再びあげて改めてキンクスの偉大さを感じていただこうと思います。

 

 

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どうも。

 

 

今日はFrom ワースト To ベスト、行きましょう。なんか、早いペースでいろいろ聴けて自分でも驚いているんですが、早くも7回目。今日のお題はこれです!

 

 

 

 

この企画、初の60年代からのアーティストですね。その記念すべき最初のアーティストはザ・キンクスです。キンクスといえば、つい先日、リーダーのレイ・デイヴィスがサーの称号を得たり、彼の久々の最新ソロ・アルバムがイギリスで15位という、一体何10年ぶりなんだろうという成功を70代にして記録している最中です。そんな再評価モードにある中、「最も過小評価されたロックバンド」と言われ続けて来た彼らの計24枚のアルバムに順位をつけてみました。

 

 

 いや〜、これは長いことやってみたかった企画ですね。僕みたいな職の人間にとって、ビートルズ、ストーンズ、ディラン、ツェッペリンあたりは「全部聴いてて当たり前」みたいなところがあったりするし、日常でもよく耳にするし、名盤選でも若いうちから聴き続けてきたものであるんですけど、キンクスとなると、かなり意識的に注意して聴かないと覚えない物ですからね。僕もフリーのジャーナリストになりたてくらいのときに「キンクスのディスコグラフィを全作レヴューできるくらいが理想」みたいなこと考えたことあったくらいですからね。なので思い入れはあります。

 

では、今回は24位から11位まで。まずは24位から。

 

 

24.Preservation Act 2(1974 US#114)

 

 最下位は、キンクスのロック・オペラ路線の混迷期として語られがちな「プリザベーション」の第2幕です。ただ、これ、一方で「駄盤」、一方で「カルト名作」と言われてもいますが、「名作」という評価はあまりに盲目的なので信用しなくていいです(笑)。僕は愛情を込めて「大いなる大失敗作」として「名誉の最下位」にしましたね。

 

 

 作品の善し悪しで言えば・・良くないですよ(笑)!だって、コンセプトがあんまりにも漫画ちっくで、70年代に入ってレイが入れ込んでいたアメリカ南部接近路線も明らかにレイの飽きが感じられる曲調(大編成が似合わないくらいハードなんだもん)が感じ取れるし。女性コーラスの声のセンスなんてかなり悪趣味です。そしてこれが一番タチ悪いんですけど、2枚組で曲多過ぎだし。さすがにどんな好きなアーティストでも、自己満足の、しかも、曲の印象そのものが強く残らない作品を、2枚組で聴かされたらさすがにツラいですよね。「いや、そこを受け入れてこそのファンだ」という意見はあるのかもしれませんが、僕はそこまで着いて行こうとは思いません(笑)。

 

 でもね、これを全作と2部作、計3枚組のヴォリュームにまでして作り上げようとした、その心意気はいとおしいです。なので、これ、僕は「最低1回は聴くべき作品」だと思っています。これ、ロック好きな人ならやってみてほしいです。2回目以上は一切保証しませんが(笑)。

 

 

23.Think Visual(1986)

 

 「プリザヴェーション」は最下位にしたけど愛着はあるアルバムなんですが、「個人的に本当に嫌い」という意味で実はワーストはこのアルバムです。

 

 これは1986年、キンクスが遅ればせながらもアメリカ再進出に成功していた、アリスタ・レコードとの契約が終わったあと、MCAに移籍して発表した最初のアルバムなんですけど、ここからはチャートにかすらないバンドになったんですよね。ただ、このアルバム、キンクスらしからぬ「ザ・エイティーズ」な大仰なプロデュースが目立つ、すごくガッカリな作品です。加えて、ジャケ写のセンスがひどいんだ、このアルバム!「え〜、なんでこんなの作っちゃったの??」って感じのアルバムです。これと、この次のアルバムだけ、ストリーミング・サービスに入ってないんですけど、オススメはあまりしません。

 

22.Preservation Act 1(US#177)

 

 その「プリザベーション」の第1幕にあたるのがこれです。こっちは1枚組なので、疲れないので順位が上です(笑)。なんでも、この第1幕を作っている最中に、没入し過ぎて他のことが目に入らなくなったレイに愛想を尽かした奥さんが小さな娘を抱えて出て行ったという、なんかいかにもレイらしいトホホな話も裏エピソードにある作品です。人生で賭けたものは大きかったんですが、結果が良かったとは正直思えないですね。

 

 

21.Soap Opera(US#51)

 

 「プリザベーション」のあとに発表した、これもロックオペラ路線。ただ、これは、「架空の村の戦争物語」という、なんだかなあなストーリーから一転、今度は、妻もいるサラリーマンの男が、自分がロックスターだという妄想に陥る、という現実的な現代劇。これは1974年にイギリスの第2の局、ITVで放送された「スターメイカー」というミニ・ドラマが元になってて、レイ自身が主演もつとめていました。ただ、このドラマっていうのが、観覧が可能なテレビ局のスタジオでこじんまりとしたセットを組んで演じているもので、超格安でスケール小さいんですよね。まあ、その安っぽさがキンクスっぽさではあるんですけどね。サウンド的には「プリザベーション」の延長ですけど、「もう、ホーンも女性ヴォーカルもいらなくなるね」という曲調にさらに傾いて行きます。

 

 

20.Percy(1971)

 

 これは1971年、キンクスが60年代の黄金期を過ごした、イギリスのパイ・レコードの最後のアルバムなんですが、「パーシー」というイギリスのコメディ映画のサントラです。インストが多めでヴォーカル曲もすごく尺が短いんですけど、ただ、「ローラVSパワーマン」の直後の雰囲気はあるし、やっぱ古き良きパイを惜しみたい意味もあって、そこまで順位を下げたくもない作品ではあります。

 

 

19.Phobia(1993)

 

 現時点でキンクスとしてのラスト・アルバムです。キンクスは最後の2枚はかなりギターはハードなサウンドになっていたりするのですが、このアルバムに関しては時期がちょうどグランジの時期でしたね。どこまで意識してるかは知りませんが。キンクスの場合、元が「ユー・リアリー・ガット・ミー」のバンドだったりするから、そういう路線はすごく歓迎なんですけど、ただ、このアルバム、1曲あたりの尺が長過ぎです。5、6分の曲がザラで、それが17曲もあるという。ある意味でCD時代の悪いとこが出た作品かな。ただ、レイとしては表現したいことが多かったのかな。アルバムのテーマが、「嫌悪感(フォビア)が社会を悪くしているのではないか」という重いテーマでもありましたしね。

 

 そして、このアルバムを伴ってのツアーの際、僕は彼らのライブを渋谷公会堂で体験しています。このときのライブがすごくエネルギッシュで爽快だったから、まさか、このあとに彼らのライブが見れなくなるとは夢にも思ってなかったんですけどね。

 

 

18.Sleepwalker(1977 US#21)

 

 アメリカ再進出をかけた、アリスタ・レコードへの移籍第1弾ですね。このアルバムから、直前までいたRCAでのロックオペラ路線はやめて、コンセプトなしのロックンロール路線になっていて、アリスタの後押しもあって、在籍期間中はアメリカでかなりの成功も実際に収めていますね。このアルバムも、第1弾にして最高位21位という、かなりのヒットになっていますからね。

 

 ただ、「キンクスで1977年」というから、ややもすると「”パンクの元祖”がパンク・ムーヴメントを利用した」かのように思われがちでもあるんですが、このアルバムの発表は1977年の初頭。この時期だと、まだパンクでアルバムが出てるアーティストっていないんですよね。クラッシュやジャムでさえ数ヶ月後ですから。

 

 そういうこともあって、このアルバム、「ロック」には原則的に戻ってはいるんですけど、「どういうロックをやっていきたいのか」が曖昧模糊として見えにくいアルバムなんですよね。なんか、ブルース・スプリングスティーンみたいな曲調の方がむしろ目立つし。キンクスがパンクや、ヴァン・ヘイレンによる「ユー・リアリー・ガット・ミー」のハードロックのカヴァー・ヴァージョンをもって「パンクやメタルの元祖」として自身を売り込みに走るのはもう少し後になります。

 

 

17.UK Jive(1989)

 

 キンクスの最後から2番目のアルバムですね。「シンク・ヴィジュアル」とこのアルバムがストリーミングで聴けません。

 

 このアルバムですが、前作でのオーヴァー・プロデュースが是正された、ソリッドなロックンロール・アルバムになっていますね。この当時だと、イギリスだとマッドチェスターとかシューゲイザーみたいな、サイケデリックなモードが大流行りな時期で、こういうソリッドでストレートなロックンロールをやっている人があまりいなかったものですが、不思議なことに、この4年くらい後から、UKロックバンドのトラディショナルなロック回帰路線がはじまりブリットポップにつながって行ったりするから不思議です。そういう意味で、やっぱ無意識のうちのカンの良さはあるんですよね、キンクスって。このアルバムは、ブリットポップにはやや重くはあるんですけどね。

 

 

16.Misfits(1978 US#40)

 

 アリスタ移籍後の2枚目のアルバムですね。このくらいから、パンク・ムーヴメントに気がつきはじめたか、シングルのB面でも「プリンス・オブ・ザ・パンクス」という曲を作ったのもこの時期ですけど、よりストレートな3コード・ロックンロールの方に足が向きはじめた、といった感じのアルバムですね。そこまでロックンロールロックンロールはしてないアルバムですけどね。

 

 ただ、そうでありながら、このアルバムの最大の聴かせどころは全米シングル・チャートで30位まであがったバラード「ロックンロール・ファンタジー」の存在ですね。これはこのアルバムのレコーディング中に脱退した2人のメンバーにあてたものであり、レイとデイヴのデイヴィス兄弟の分裂の危機にも触れた曲でもあるんですが、「ロックの幻想の中に生きないで、真人間に戻りたい」という、ちょっとその後のレイの人生を考えるに「こんなことを思っていた時期もあったんだな」と思える曲です。ただ、それだけこの人というのは、すごく庶民的な感情を常に持ち合わせていた人でもあるのかな、と思わされますけどね。

 

 

15.Kinda Kinks(1965 UK#3,US#60 )

 

 1965年の初頭に出た、キンクスのセカンド・アルバムです。これは、「ユー・リアリー・ガット・ミー」「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」のビッグヒットの次を受けたシングル  「タイアード・オブ・ウェイティング・フォー・ユー」とほぼ同時にリリースされたアルバムですね。この3曲が立て続けてヒットしていたときの彼らはブリティッシュ・インヴェージョンの中でも、ストーンズやアニマルズと並んで、「ビートルズにつぐヒットメイカー」の評価を受けてたときで、遅れてデビューし後に比較の対象となるザ・フーよりも全然勢いがあった頃です。

 

 僕はキンクスのパイ時代の60年代のシングルは無類に好きなんですけど、ただ、いい時期に発売されたわりには、このアルバム、ちょっとメロウな曲が多いですよね。やっぱり欲を言えば、「ユー・リアリー〜」みたいな曲をファンとしてはたくさん聴きたいじゃないですか。なのでちょっと順位が抑えめです。

 

 

14.State Of Confusion(1983 US#12)

 

 これは僕に近い世代が思い入れのあるキンクスのアルバムです。というのは、ここからの「カム・ダンシング」という、ちょっとスカというかカリプソというか、ちょっとカリブのビートを入れた陽気な曲が、アリスタ時代のキンクスでの最大のシングル・ヒットになって全米6位まで上がるヒットになりましたから。僕と同世代の人の中には「キンクスといえばカム・ダンシング」という人も少なくありません。その効果もあり、次のバラード「Don't Forget To Dance」も全米29位のヒットになっています。

 

 ただ、これ、アルバム全体として見た場合、この前後の時期のキンクスではちょっと落ちるんだよな、というのが僕の率直な感情です。このアルバムは、パンキッシュなロックンロールと、シングル曲に象徴されるソフトなポップナンバーとの幅で聴かせるタイプのアルバムなんですが、ポップな曲がちょっとオーヴァー・プロデュースなんですよね。シングルになった曲はまだいいんだけど、それ以外の曲でエイティーズの悪いとこが感じられるというか。この直前までの上昇気流がシングル・ヒットとして結実したのはめでたいことなんですけど、それがここで止まってしまうことにもなります。

 

 

13.Schoolboys In Disgrace(1975 US#45)

 

 これがそのRCAの最後のアルバム、ロックオペラ路線の最後のアルバムです。ただ、コンセプトはあるとは言え、もうホーンや女性ヴォーカルはほとんど用がなくなり、アリスタ期につながるロックンロール・アルバムにもうこの時点でなってますね。まだパンクが起こっていた時期ではないんですけど、レイの中でなんとなく虫が知らせたということなのかな。中でも「The Hard Way」はライブの定番にもなる、パンクを先駆けた傑作チューンですね。

 

 ただ、これ、悲しいことジャケ写のセンスが悪いんですよね(苦笑)。AC/DCのアンガスみたいなカッコした少年が叩かれた尻を出してる漫画なんですけど。これ、書いたの、Tレックスのミッキー・フィンだったりするんですけど、しばしば、「ワースト・ジャケ写」の常連作になってますね。

 

 

12.Word Of Mouth(1984 US#57)

 

 アリスタ時代のキンクスの最後のアルバムですね。前作が「カム・ダンシング」の大ヒットが出た作品だったのに、それを受けてのこのアルバムはランクが下がってしまいました。

 

 ただ、「内容が悪かったから」ではなく、単にレーベルからプッシュされなかっただけだったような気がします。実際、このアルバムを聴いてみると、前作でややポップかつオーヴァー・プロデュースになりつつあった部分を修正して、その数作前までにあったような豪快なロックンロール路線に転じています。特に「Do It Again」は、これ以降のキンクスのライブの定番曲にもなります。

 

 あと、しばらく歌ってなかったレイの犬猿の中の弟デイヴが、80年代はじめに出したソロ作の成功の影響もあってか、このアルバムから、ストーンズにおけるキース・リチャーズ枠みたいな感じで、常時歌いはじめるようにもなります。それから、悲しい話題としては、デイヴィス兄弟以外のオリジナル・メンバーだったドラムのミック・エイヴォリーがこのアルバムを最後に脱退してしまいます。

 

 

11.The Kinks(1964 UK#3,UK#29)

 

 記念すべきデビュー作で、全てのロックンロールの原点とでもいうべき「ユー・リアリー・ガット・ミー」が入っていることで価値が永遠に高いアルバムです。

 

 気持ちとしてはトップ10に入れたかったんですけど、ただ、このアルバム、オリジナル曲が少なく、カバー中心なのが残念なんですよねえ。「ユー・リアリー〜」の元ネタになったロックンロールの起源の代表曲、キングスメンの「ルイ・ルイ」のカバーがあったりするんですけど、キンクスの考案したキンキー・ビートの方が勝っているので、そこもあんまり魅力的に響かないと言うか。せめて「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」が収録されていたらもう少し違った気がする(後にCDのボーナス・トラックで収録)んですけどね。60年代という時代は、特にイギリスでですけど、シングル曲をアルバムに入れない習慣があって、それゆえに損してるアルバムが多いんですよね。

 

 

番外編;レイ・デイヴィス・ソロ

 

 90年代半ばからソロになったレイは、それ以降、セルフ・カバーの3枚も含め、6枚(キンクス時代にも1枚)ソロを出しています。デイヴとの確執でキンクスとして活動出来なくなったオリジナル曲の3枚もランクの対象にしようかなとも思いましたが、デイヴを尊重して今回はやめておきました。ただ、その3枚のソロ、「Other People's Lives」(2006)、「Working Man's Cafe」(2007)、そして「Americana」(2017)はいずれも力作で、仮にランクをつけたらトップ10には入らなかったものの、12位くらいの位置にはつけれたような気がしてます。

 

 

author:沢田太陽, category:FromワーストTo ベスト, 13:21
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最新全米チャート

どうも。

 

 

いやあ、まさかのドイツ予選敗退ですねえ。ずっと頭から見てましたが、本当に信じられませんでした。ドイツ戦、3戦ともずっとテレビで見ましたが、最後まで調子上がらずじまいでしたね。「この3試合でミューラーとヴェルナー、どんだけ外してんだよ」「エジル、どこだよ?」とか「なんでサネ、呼ばれなかったんだよ」とか色々考えましたけどね。最後の2点目なんて、もう取られ方も屈辱的でしたしね。

 

 一方のブラジルはというと、「直接対決して倒したかった」・・などという人は基本的にものすごく少なく(笑)、ドイツ敗戦の直後から大喜びでした。「そんなの、またやってやられるより、戦わずして負けてくれた方がいいに決まってる」みたいな感じの人が多かったですね。基本、ビビリなとこある国民性なので、これはこれで良かったのかなと思いますが、ただ、ドイツはもう少し見たかったなあ、やっぱ。

 

では、全米チャート、いきましょう。

 

 

SINGLES

1(52)Sad!/XXXTentacion

2(3)I Like It/Cardi B,Bad Bunny&J Balvin

3(1)Nice For What/Drake

4(6)Lucid Dream/Juice WRLD

5(5)Girls Like You/Maroon 5 feat Cardi B

6(2)Psycho/Post Malone

7(7)Boo'd/Ella Mai

8(4)God's Plan/Drake

9(9)No Tears Left To Cry/Ariana Grande

10(8)The Middle/Zedd feat Marren Morris&Grey

 

1週間前の衝撃の死の影響もあり、XXXテンタシオンの「Sad!」が1位です。

 

彼に関しては、こういうの本当に珍しいと思うんですけど、亡くなってもなおかつ評価が真っ二つな人ですね。半分の人は「偉大な才能が失われた」ということをSNSで書いてあるんですけど、その一方で亡くなっても彼を嫌う人というのはかなり多かったのも事実です。あんなの見たことありません。

 

 まあ、彼の場合、存在そのものが「創り上げられた都市伝説」っぽいところがありましたからね。元カノジェのレイプ疑惑、膀胱傷害罪での逮捕を始め、犯罪履歴がかなり多かった上に、支持派が「真人間に成ろうと努力してるんだ。リアルだろ」というラップが、「えっ、それ、鼻歌?」みたいな、未完成のデモ・テープ聞いてるみたいで、ラップなのか鼻歌なのかもわからない感じでしたからね。この「Sad!」にしても、「同じフレーズ、何回繰り返すの?」みたいな、これもなんかデモ・テープみたいだし。

 

 何か、訴えかける要素はあるんでしょうけど、素直に殺害されたことは本当に気の毒で、とりわけ「子供が生まれる予定だった」などと言われると泣けもするんですが、「今の時代のトゥパックだ」などと言われると、「それ、トゥパック、聴いたことがあっていってる?」とは申し訳ないですけど、いいたくはなります。

 

 まあ、いずれにせよ、今のこの時代が生み出したコントロヴァーシャルな存在であることだけは確かでしょうね。

 

 

では、今日はアルバムにいきましょう。

 

 

ALBUMS

1(-)Youngblood/5 Seconds Of Summer

2(-)Everything Is Love/Carters

3(24)?/XXXTentacion

4(4)beerbongs&bentleys/Post Malone

5(-)Nasir/NAS

6(-)Liberation/Christina Aguilera

7(60)17/XXXTentacion

8(7)Goodbye&Good Riddance/Juice WRLD

9(6)Invasion Of Privacy/Cardi B

10(23)Rearview Town/Jason Aldean

 

こないだ全英のとこで紹介しました5セカンズ・オブ・サマーが1位です。

 

これに負けて2位だったのがニヨンセとジェイズのカーター夫婦。意外ですけどね。ちょっと聞いてみましょう。

 

 

この2人の組み合わせは夢がありますし、この曲は強烈だとは思うんですけど、アルバムそのものはなんか「普通」って感じで、僕にはそこまで刺さんなかったですね。僕は両人のこの前のアルバム「Lemonade」「4;44」はともに大好きで何度も聞いたんですけど、なんかあの2枚が持っていた志の高さから比べると、ここでやってることって、昨今の一般的なR&Bっぽく感じられてなんか刺激なかったんですよね。「Lemonade」での黒人も白人も全く関係ない気鋭プロデューサーたちとの共演も、1人のプロデューサーとだけガッチリとタッグを組んで心の底から洗いざらいラップした「4;44」と比べると、やっぱりねえ。

 

 

5位初登場はNASのカニエ・プロデュース作。これはなんか問題外というか、なんか全くケミストリーが働いてなかったですね。カニエ関連4作連続リリース、随分、当たり外れの差が激しかったように思います。

 

6位初登場はクリスティーナ・アギレラ。聞いてみましょう。

 

 

ここ数作で外していたのと、リリース間隔が開きすぎたために、これまでの彼女からしたらだいぶ低い順位になっていますが、今回の、僕は割と頑張ったんじゃないかな、という気でいます。彼女、やっぱりエレクトロ路線は似合ってなく、こういう歌い上げるR&Bタイプの方があってると思います。方向付けとしては間違ってないと思いますよ。

 

あと、アルバムでもXXXテンタシオンは再浮上が目立っていましたね。

 

author:沢田太陽, category:全米チャート, 08:10
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第4回 1973-1979

どうも。

 

 

では、「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、4回目、行きましょう。こんな感じです。

 

 

 

今日は1973年から79年の間の10枚の紹介をしましょう。英米だと、ちょうどヒッピーのカウンター・カルチャーが終わり、ロックの産業が大きくなり商業化が指摘されるようになる頃ですが、非英語圏ではどうだったのでしょうか。まずはこれから行きましょう。

 

 

Alles Klar Auf Der Andrea Doria/Udo Lindenberg(1973 Germany)

 

 

 

 まずはドイツから行きましょう。ウド・リンデンベルクです。

 

 1946年、第2次大戦が終わった翌年に、まさにドイツのベイビーブーマーとして生まれたウドですが、彼はさしずめ「ドイツのミック・ジャガー」と目されている人です。1970年代の初めから40数年間、一貫してストーンズ、もしくはグラムロック期のデヴィッド・ボウイ風のロックンロールを歌い続けている人です。

 

 この人も当初はクラウト・ロック華やかなりし1960年代の後半のロックシーンから出てきて、当初は理屈っぽい実験色の強い曲を歌っていたのですが、1973年発表のこのアルバムからそういう路線からは離れて、かなりストレートなロックンロール・アルバムとなります。第2回のカンのとこでも言いましたように、ドイツという国は”シュラーゲル”という民謡が強い地域でもあったのでなかななかロックが流行らなかったのですが、英米以外のロックでは、このアルバムくらいから国内アーティストが成功を収めるようになってきて、かなりノーマルなロックも流行るようになってきます。

 

 このアルバムだと、まだ曲によってはニューオーリンズ・ジャズみたいなアレンジの曲やカントリー調などの曲があったりもするんですが、ただ、この次の「Ball Pompos」というアルバムになると、もうストレートな3コード・ロックンロール一色になって、チャートでもトップ5に入るアルバムを連発し始めるようになります。彼は80年代の半ばまではトップ・アーティストで、90年代には一度人気が下がってしまうんですが、2000年代に再評価がありまして人気が再浮上。ついにはチャートのトップになる成功まで収めています。

 

 彼は音楽もさることながら、その独特の風貌のインパクトでも有名です。こけた頬に尖った顎にギョロ目、というのは昔からの目を引く特徴だったんですが、近年では必ず、サングラス、そしてロン毛の上に目深に帽子をかけ、別名「帽子の男」と呼ばれ、それがトレードマーク化して、ネタにされつつも非常に愛される人になっています。

 

 

Gita/Raul Seixas(1974 Brazil)

 

 

 続いても国民的ロックンローラー・タイプの人、行きましょう。ブラジルのハウル・セイシャスです。

 

 前回のミルトン・ナシメントのところで「サイケ時代以降に台頭してきたブラジルの新しい音楽はMPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイロ)と呼ぶ傾向がある」と書きました。ただ、ブラジルのロック・ファンに言わせると、「MPBは軟弱だ」とのことでロックにカウントされないこともしばしばです。そんなブラジルにおいて、同じく70年代だったのですが、「ロックの父」と呼ばれているのがこのハウルです。

 

 彼はもともと50sのロカビリーの時代にロックンロールの強い影響を受け、60sの後半に、当時のブラジルとしては珍しいブリティッシュ・ビート・スタイルのバンドでデビューもしていたのですが、本格的に注目され始めたのは70sの前半にソロ・デビューしてからです。

 

 ハウルは「ボサボサ髪にボーボーの髭」というのが典型的なイメージで、今日でもブラジルではものまねのパロディにされているほどです。イメージは一見「ディラン・フォロワー」的にも見えるんですが、これが案外一筋縄でいかないほど多彩です。案外近いのはグラム期のボウイですね。それもストリングスの入ったアコースティック調のバラードの時。彼は素晴らしいバラッディアーでもあるので。そうかと思えば自分のルーツでもある50sのロカビリー調の曲をやったり、そうかと思えばいかにもブラジルらしいファンキーでアフロなリズムを取り入れてみたり。すごく多彩です。

 

 このアルバムは、一般的な最高傑作とされる「Krig Ha Bondelo!」(1973)の次のアルバムなんですが、こっちの方が今日でも耳にする曲が多いので、近年では評価が逆転しつつありますね。その中の1曲に「Sociedade Alternativa」という曲があるんですが、これ、2013年にブルース・スプリングスティーンがブラジル公演行った時になんの予告もなくいきなりカバーしてブラジルのオーディエンスを驚かしています。

 

 

まさにこの時ですね。僕もこの時、観客の一人でいました。

 

 ハウルは70年代いっぱいくらいまで圧倒的な人気を誇りますが、ドラッグとアルコールが絡んだトラブルもありまして、80年代はアルバムを出すごとにレーベルが違うなど、トラブルメイカーとして有名でした。そして89年、ドラッグのオーバードーズで44歳で早逝しています。

 

 

Anima Latina/Lucio Battisti(1974 Italy)

 

 

 続いてはイタリアに行きましょう。ルチオ・バティスティです。

 

 

 プログレ・バンドは出てきたものの、それ以外はやはり国柄で男性ソロが強い70年代のイタリアでしたが、その中で最大の存在がルチオでした。70sのイタリアのチャートの記録紐解くと、もう1位のほとんどがこの人なんですよ。年の半分くらい1位なんじゃないかというくらいに独占されてるくらい、とにかく影響力があったようです。しかも彼の場合、あまり表に出ない謎めいたキャラクターなのにそのような現象が起こっていました。したがって、映像の記録なども極めて少ないです。

 

 そんなルチオは1943年の生まれで、60年代はソングライターとして活動していました。彼は作曲担当で、作詞はモゴルという人でしたが、彼は以後もずっとパートナーでした。このコンビで60s後半にはイタリアだけにとどまらず、グラス・ルーツやエイメン・コーナー、ホリーズといった英米のバンドにも曲提供していたほどです。

 

 そんな彼は1969年にシンガーとしてデビューするのですが、これがたちまち1位となってからはイタリアのマーケットはもう彼の独壇場。ヒットが延々と続くことになります。当初は「イタリアのキャット・スティーヴンス」とでもいうべきソフトなフォーク路線でしたが、73年くらいから徐々にロック化が始まり、74年のこのアルバムが最高傑作と呼ばれるに至っています。

 

 これ。人によっては「ルチオがプログレに走った」とも言われているのですが、そこまでは言いすぎです。ただ単に長い曲が含まれるようになって、シンセサイザーを使って、複合的なリズムが目立つようになっただけのことで基本はまだフォーク・ロックにありますからね。ただ、彼のアルバムの中で最も意欲的な実験精神に満ち溢れたアルバムであることは僕も認めます。

 

 彼はこれ以降の70sはロック化して、この年代の後半くらいまでの作品はイタリア音楽界の名盤扱いをされているものが多いですね。ただ、エイティーズに入って、大胆にもエレ・ポップ化しまして、以後はその路線が90sに入ってもずっと続きます。さらにエイティーズ以降は、人前に出ることはさらに激減し、加えてアルバムのリリース・ペースもかなり大きくなったことから影響力が落ちていくことにもなります。そして98年、彼は突然世を去ります。死因は明らかにされてないのですががんとの闘病だったようです。

 

 謎の多いルチオですが現在でも人気は抜群で、昨年にはアンソロジー・アルバムがチャートのトップになっていましたね。ただ、まだ音源のストリーミングが認められていないため。まだyoutube上でしか残念ながら音が聴けません。

 

Moetsukiru Last Live/Carol(1975 Japan)

 

 

 今度は日本に行きましょう。キャロルです。

 

 70sの日本のロックはそこまで一般的に売れてはいなかったのですが、諸外国に比べるとかなり多様化していましたが、その中でも異端な存在がキャロルでした。この当時は大衆化したフォークが大人気で、国内のロックの傾向としては、はっぴいえんど以降に発展する、アメリカの西海岸的な雰囲気を持った、今でいうシティ・ポップの原型とも言えるものか、ブルース・ロック、ハード・ロックやプログレでしたが、このキャロルだけが「ハンブルグ修行時代のビートルズ」をイメージした初期のガレージ・ロックをプレイ。ただ、そのあまりに異端なスタイルは1973年に登場するや、メディアの熱狂的な注目も相まってカルト・フォロウィングを生み出します。フォークのような大きなシングル・ヒットこそ出ないものの、アルバムはそこそこの注目を受け、この当時で20万枚のヒットを生み出せていました。その現象はテレビドラマの中で実在のネタにされていたほどです。

 

 

エピソードのタイトルからしてこれですからね。かなり強烈です。

 

この「夜明けの刑事」のエピソードがいみじくも示しているように、キャロルは、その当時風の言い回しをするなら「落ちこぼれ」の人たち、さらに言えば暴走族などの不良たちから強い支持を得ていました。実際、のちに俳優で有名になる岩城滉一や舘ひろしが在籍したバンド、クールスはキャロルの親衛隊でしたからね。

 

 ただ、こうした話を聞くに、これ、思い出すのは「パンク」なんですよね。すごく共通点多いんです。だって、「ビートルズ以前の60sへの憧憬」って、ラモーンズやブロンディがそもそもかがけていたイメージと共通しているし、他のバンドたちがヒッピー以降のフォークだったり、ハードロックやプログレに力を入れている頃に短尺のガレージロックをやった。さらに言えば、そうしたロックで、社会の底辺にいた若い欲求不満を抱えた若者の支持を得て、いかつい親衛隊までいた。それもセックス・ピストルズみたいだし。そういうことがロンドンの3年前に、全く違うコンセプトとファッション感覚で日本で起こっていたのはすごく不思議です。

 

 ただ、そんな人気が絶頂にこれから差し掛かろうかという75年3月に、キャロルは突如解散。日比谷野音でのラスト・コンサ_トを収録したライヴ盤「燃え尽きる」がやっぱり一番いいかな。オリジナルだと、矢沢永吉とジョニー大倉の双頭がフロントを分け合って、それももちろんいいんですけど、どちらかといえば永ちゃん聴きたいじゃないですか。その比率で言って永ちゃん度高いし、プラス、この当時のスタジオの録音技術、日本だけでなく国際的にもライブの臨場感を伝えられていなかった(だからライブ盤が当時はよく売れた)ことを考えても、これがベストじゃないかな。

 

 ただ、そんな「パンクな先駆性」は当の本人たちも全く予期できていなかった話で、海の向こうでパンク・ムーヴメントが起こった頃には、永ちゃんはバラードでウェスト・コースト・サウンドに走って、以後も完全な独自路線ですからね。そう考えても、キャロルというのは日本音楽界の生んだ不思議な一瞬だったと思います。

 

 

Autobahn/Kraftwerk(1975 Germany)

 

 

 続いて再びドイツに行きましょう。これは偉大なグループですね。クラフトワークです。

 

 もう今となっては、テクノ/エレクトロなど、「あらゆる電子音楽の元祖」と呼ばれるクラフトワーク。そのオリジネーターとしての功績は、ロックにおけるビートルズやフォークにおけるディランに負けないくらい大きいのではないかとも思われますが、そんな彼らは1970年にデュッセルドルフで結成されます。ちょっと後発にはなりますが、彼らもクラウト・ロックの実験的なバンドの一つとして生まれていて、第2回で紹介したカンとも友人同士で親交がありました。

 

 そんなクラフトワークでしたが、1975年に全世界(ドイツのリリースは74年11月)で発表になったこの四枚目のアルバム「アウトバーン」で一躍世界的なグループとなります。アナログ・シンセの単音から奏でられる淡々としながらも中毒性のあるグルーヴを奏でる反復される硬質なリズムは、この当時世界的に人気に日がつきつつあったディスコでかかり、アルバムのタイトル曲はドイツでトップ10に入るだけにとどまらず、イギリスで11位、アメリカでも25位を記録しました。アルバムに至っては全英4位、全米5位ですよ。この背景には、ディスコのブームに加え、シンセサイザー自体がプログレで使われて人気だったこと、さらにシンセサイザーがインストゥルメンタル・ミュージックとして注目されていたことも挙げられます。クラシック音楽家だった、日本の冨田勲のアルバムが全米チャートで50位前後まで上がっていたのもこの頃です。

 

 ただ、これ以降、エレクトロ・ミュージックは、プログレやクラシックのインストとしてよりは、圧倒的にダンス・ミュージックとしての利用度が高くなります。クラフトワークの成功を足がかりにドイツはディスコに次々とダンス・ミュージック・アティストを送り出すようになります。ちょうどミュンヘンに修行に来ていたアメリカ人のドナ・サマーやイタリア人のジョルジオ・モロダーがまさにそうです。そしてイギリスではパンクの時代にパンク・バンドが「ロックに代わる新しい音楽」とばかりにシンセを弾き始め、ニュー・ウェイヴの時代のシンセ・ポップの全盛を道肉ことにもなります。

 

 そしてクラフトワークですが、「アウトバーン」から始まった、現代文明のオブジェとエレクトロ・ミュージックを結びつけ続け、この音楽の視覚的イメージを高めていきます。それは原子力発電所だったり、高速鉄道だったり、機械だったり、コンピューターだったりするのですが、その戦略が、その後のエレクトロ・アーティストのライブでのヴィジュアル・イメージの構築の原点になったりもして、この点でも彼らは強い影響力を与え続けています。現在は創始者の一人、フローリアン・シュナイダーは辞めてしまいましたが、もう一人の創始者ラルフ・ヒュッターを中心に現在も活動を続けています。

 

 

Fruto Proibido/Rita Lee(1975 Brazil)

 

 

 またブラジルに戻りましょう。今度はヒタ・リーです。

 

 ヒタはブラジルにおける最初のロック・クイーンです。同じ時期にブラジルはボサノバのエリス・レジーナを始め、マリア・ベターニア、ガル・コスタと優れたシンガーを生んでいるんですが、ロックでいうとヒタだけですね。ただ、彼女の影響力は今日に至るまでかなり大きなものがあります。

 

 彼女は2回目で紹介したオムニバス「トロピカリア」に参加したサイケデリック・ロックバンド、オス・ムタンチスのヴォーカリストとしてデビューしてまして、このバンドが90sや00sに国際的に再評価されたので、それで知っている方もいらっしゃるかもしれません。日本でも2000年くらいだったかな、ヒタのムタンチス在籍時に出したソロ・アルバムが再発(というか日本初音源化)されていたりもしています。

 

 ただ、そのムタンチスのイメージでヒタを捉えると大きな誤解も生みかねません。ヒタ自体はサイケデリックのイメージとは本来程遠い人で、かなりストレートでわかりやすいロックを好む人です。実際、70年代膳半にムタンチスがプログレ化すると同時にバンドをやめてソロになってるし、このソロ通算4枚目(ソロ転向後2枚目)となるこの最高傑作bの誉れ高い一作では、ストーンズを意識したような、グルーヴィーなリフのストレートなロックンロールを聞かせてくれています。いみじくもその中の最大の代表曲の曲名は「エッセ・タウ・ジ・ホッケンホール」。ズバリ、ポルトガル語で「そのロックンロールなるもの」ですけど、まさに彼女なりの「It's Only Rockn Roll(But I Like It)」宣言した1曲です。

 

 それから1975年にして、このジャケのセンスですよ!同じ頃、女性のロックでこんなカッコいいセンスをかもし出せていたのって、パティ・スミスの「ホーセズ」くらいなものです。あと、フリートウッド・マックに加入したばかりの頃のティーヴィー・ニックスかな。世界でもこれから”ロック・クイーン”が生まれようとしていたその矢先に、非英語圏でも彼女のようなスターが生まれつつあったことにおいてもこれは貴重です。

 

 ヒタは人気のピークは80sの前半ですね。この時は年下の夫(現在も)のロベルト・デ・カルヴァーリョと共同で、ちょっとユーミンみたいなAORっぽい路線でヒット曲たくさん出してます。一時期ちょっと人気落ちたんですけど、90sにはMTVアンプラグドでの人気で復活。そのあとはロック回帰してカッコいいイネージでしたが、2012年にアルバム出してステージでの活動引退をしてからは隠居状態ですね。ただ、彼女のインスタを見ると60sから生粋の”元祖ガーリー”だったことが伺えてる写真や彼女が作ったイラストやアートが見れて面白いですよ。

 

 

The Album/ABBA(1977 Sweden)

 

 

 これは超大物ですね。ABBAです。

 

 ABBAだと、もうあまりにもビッグネームすぎて、彼らがスウェーデン出身である事自体が忘れられている感もありますが、別にその名前だけが一人歩きしているわけでは決してなく、今でもスウェーデンでは国宝扱いされていて、博物館もストックホルムにあります。

 

 そもそもABBA自体が、これまでのスウェーデンの音楽界における、いわばスーパーグループとして結成されています。第1回の時にも話しましたが、ベニーは”スウェーデンのビートルズ”ことヘップ・スターズのキーボード、ビヨルンはスウェーデンで最も人気のあったフォーク・グループ、フーテナニー・シンガーズのフロントマン、そして女性陣もアグネッタは60年代後半にフラワー・ムーヴメントのフォーク・ポップみたいなイメージでソロでデビューしてナンバーワンのガール・シンガーで、フリーダことアニ・フリッドも、スウェーデン歌謡曲のシンガーで、1曲スウェーデンで1位の曲を持っていました。このようにABBAは、4人全員が本国で1位になった曲を持つスターたちの集まり、ということでデビューの時から注目されていました。

 

 ビヨルンとベニーはABBA結成前にデュオで「木枯らしの少女」という曲を特に日本でヒットさせていますが、そのあと、ABBAは1973年に結成され、よくね74年には「恋のウォータールー」がいきなり英米トップ10を含む世界的な大ヒット。そこから世界的に巨大シングル・ヒットメイカーになりまして、「I Do I Do I Do」「SOS」「Fernando」「Mama Mia」と来て「ダンシング・クイーン」で全世界的にナンバーワン。一大現象となります。

 

 ということで「ダンシング・クイーン」の入ってるアルバム「アライヴァル」も考えましたが、僕はあえてその次のこの「The Album」を選んでみました。なぜか。このアルバムの方が、「ディスコ・アイコン」としてのABBAをより表現できていて、よりこの時代らしいと思ったからです。要は、このアルバムの方がよりエレクトロで、その後のシンセ・ポップ現象も先取れているからです。その代表ともいえる名曲が「Take A Chance On Me」。これを筆頭にシンセの使い方がこのアルバムでは格段にうまくなっていますね。元々、ビヨルンとベニーは、ミュージカルとロックンロールとソウル・ミュージックのエッセンスを絶妙にミックスさせた曲を作る名人でしたけれど、シンセが加わったことによって完成したと思います。

 

 ABBAはこの後もシングル・ヒットを続け、80s初頭までヒットメイカーとして活躍。その後は長く沈黙してましたが、その間、ミュージカル、映画での「マンマ・ミーア」の大ヒットやベスト盤の未曾有のヒットの末、来年、新曲2曲が発表される見込みです。

 

Lovedrive/Scorpions(1979 Germany)

 

 

 

またドイツに戻りましょう。これまた大物ですね、スコーピオンズ。

 

民謡人気のせいで、ドイツでロックの人気に火がつくのが遅れた話は今回もしていますが、スコーピオンズもそれで割を食ったバンドです。結成そのものは1965年と早いのに、デビューそのものは71年。しかもその当初は、クラウトほど実験的ではないものの、その後と比べると別人のようなロング・ジャムのサイケデリック・ロックバンド。ギターはそれなりに激し目には弾枯れてはいますが、のちの「ジャーマン・メタルのパイオニア」の要素はまだ見受けられません。

 

 彼らののちのトレードマークとなる、「ハイトーン・ヴォイス」「泣きのツイン・リード」「ストレートなロックンロールと感スケール感大きなバラード」という要素を出してきたのは1976年に発表した「Virgin Killer」で、そのアルバムで日本ではそれなりに大きな注目はされました。あのアルバムは、これもまた悪名高い、彼らの「発禁ジャケット」の先駆でもありましたからね。この後に日本公演も成功し、あの有名な「荒城の月」なんかもあった後、79年に発表したのがこの「Lovedrive」です。

 

 このアルバムは、そうしたスコーピオンズの、いわゆるメタル界隈の人たちが言うところの「様式美」という、先述した要素が完成したアルバムであり、それをさらに一次元先に進めたアルバムですね。人気バラード曲の「Holiday」にキャッチーな好ロックンロール・チューンの「Loving You SUnday Morning」といった硬軟に加え、ライブでおなじみのインストの「Coast To Coast」にレゲエ・リズムを取り入れた「Is There Anybody There」。アルバムのバランスと楽曲の充実度では最高傑作に近いと思います。

 

 加えてこれは時期が良かった。これが出た79年あたりから、イギリスではNWOBHMのブームが始まります。アイアン・メイデンやデフ・レパードといったイギリスの当時の新人バンドを中心としたムーヴメントではありましたが、彼らもモーターヘッドやジューダス・プリースト、オーストラリアのAC/DCなどとともにこの流れに加えられ、一つの大きな勢力になります。そして、それと同時に、母国ドイツを巨大なメタル帝国にもしていきます。

 

 

La Grasa De La Capitales/Seru Giran(1979 Argentina)

 

 

 

 今度は南米でもアルゼンチンに行きましょう。これはセル・ヒランというバンド。

 

 ただ、これはどちらかというと、このバンドが大切というよりは、中心人物のチャーリー・ガルシアのバンド、ということなんですけどね。チャーリーは、2回目に紹介したアルメンドラというバンドの中心人物だったルイス・アルベルト・スピネッタ、彼t並ぶ、アルゼンチンが生んだ最大のロックスターのもう一人の存在です。

 

 

 若い頃から現在まで、「メガネにチョビヒゲ」がトレードマークのチャーリーは、70年代前半にまずはスイ・ジェネリスというフォーク・デュオで売り出して、これで大成功を収めます。ただ、このデュオがですね、アルバムを出すごとにサウンドが壮大にプログレ化していきまして、そこでフォーク・デュオの限界となって解散。この後、チャーリーはセル・ヒラン結成となるわけです。

 

 このバンドは、これもスピネッタとパターンが似てるんですが、プログレのみならず、ジャズ/フュージョン系の影響が強いバンドですね。ギターには、アルゼンチン最初のブルーズ・ハードロック・バンド、パッポズ・ブルースのギタリストで同国で最高の腕前と称されたダヴィド・レヴォーン、ベースにはのちにアメリカのジャズの大物パット・メシーニ(メセニーとはあえて呼びません)とも共演したぺドロ・アズナール、ドラムにも元パッポズ・ブルースのオスカル・モロの4人組。当時、アルゼンチンで最高の職人バンドとみなされ、尊敬を集めていました。

 

 ただ、そういうバンドではあるんですが、元がフォークシンガーのチャーリーにかかると、これが美メロ主体のバンドに変わるから不思議です。しかも彼の場合、この系のアーティストにありがちなAORよりはさらにヨーロッパ系の趣味が強く、一見西海岸を思わせつつもどこか哀愁のあるウェットなメロディ書くんですよね。これ、見事です。今回紹介するセカンド・アルバムが中でも秀逸なんですが、そこに収録の「Viernes 3AM」は幾多のカバーもある名バラードで、ライバルのスピネッタをして、「自分が書けなくて最高に悔しい。いや、あの曲だったらレノン&マッカートニーだって悔しがったはずだ」とまで言い切った曲です。

 

 チャーリーはこのバンドが解散した81年以降はソロで活躍。むしろ、そこからの方がアルゼンチン・ロック史上の名盤と呼ばれる作品が多いですね。ソロでは70sまでに培ったフォークやプログレ、AORのセンスをニュー・ウェイヴのサウンドの中で試していて、相変わらずの美メロ・メイカーぶりを発揮しています。

 

 そんな彼ですが、2002年に出したカバー集で、その源タネ明かしをしています。そこで選ばれたアーティストはトッド・ラングレンや10CC。はい。どういうセンスなのかは、これでわかった方もいらっしゃると思います。

 

 

Solid State Survivor/YMO(1979 Japan)

 

 

 

そして今回のシメは日本です。YMOことイエロー・マジック・オーケストラです。

 

 もう、あえて説明の必要ないかもしれませんが、彼らは元はっぴいえんどの細野晴臣が、東京芸大出身のセッション・ミュージシャンだった坂本龍一、そして元サディスティック・ミカ・バンドでドラマーだった高橋幸宏と組んだテクノ・ポップ・ユニットですね。

 

 これは僕もこの当時のことを小さかったなりに覚えていますが、1979年のこのアルバムを皮切りにして、80s前半までに彼らが巻き起こしたセンセーションほど、日本におけるクールな音楽カルチャーが引き起こした逆転現象はなかったように思います。だって、これまで一般に本当になじみのなかったシンセサイザーという楽器で、しかもほとんどがインストという状況から、出すアルバムを次々のチャートの1、2位に押し上げ他だけじゃなく、音楽界全体の音の傾向は変わるは、ファッション・センスも変わったし、コラボレーションを通じてお笑いや広告のコピーのセンスまで変わりましたからね。しかも、大衆への迎合がほとんど見うけられない状態のまま、この快進撃が起こったわけでしょ。その後の日本の音楽界を考えても、ここまでのことは起こってないですね。

 

 そして彼らは日本国内だけで凄かったわけではありません。1979〜80年にはワールドツアーも敢行して、イギリスでシングル、アメリカでアルバムをそれぞれチャートインさせることにも成功しています。とりわけ、この当時はまだ、アメリカやイギリスでもシンセポップのアーティストはせいぜいクラフトワーク、ディーヴォ、それからウルトラヴォックスにゲイリー・ニューマンといったパンクからの転向組がいた程度です。彼らと同じような「その道の先駆者」として、YMOはこの当時、多くのイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドたちから「影響元の一つ」としてインタビューなどで名前が挙がっていたものです。

 

その後、彼らは、この当時としては異例なまでにミニマリズムを多用し難解に解釈された「BGM」や「テクノデリック」といった、のちのエレクトロの時代を先取った感覚を示した後、83年にはポップなヴォーカルものにトライした後、これも社会現象的な言葉になりました「散開」で6年という短い長さでの活動を終えました。

 

 YMOはエレクトロの世界では絶えず再評価され続けていますが、近年では、特にアメリカのインディで、細野氏のはっぴいえんどからYMOに至るまでの間のソロ作がかなり評価され始めてもいます。

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 13:12
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