RSS | ATOM | SEARCH
「男達の別れ」から20年

どうも。

 

 

今日は2018年12月28日。こちらでは現在、朝ですが、今日はこのライブ盤が録音されてから20年が経ったことを意味します。

 

 

 

はい。フィッシュマンズの「男達の別れ」ですね。もう、そんなに経つんだなあ。

 

 

結論から先に言うと、これ、タイミング非常に悪く行けなかったんです。ただ、フィッシュマンズというバンドはですね、僕がNHK-FMではじめた番組「ライブビート」にとって、すごく思い出深いバンドなんですよね。NHKのスタジオ内で、彼らのライブ実現というのは番組の目標の一つだったので。

 

 

話は僕が26歳の1996年に遡ります。その年僕は、その「ライブビート」の前身番組だった「アコースティック・ライブ」という番組を前任担当者から引き継いでリフォームすることになったんですね。ただ、これがMTVのアンプラグドみたいな番組だったらカッコ良かったんだけど、ただの70年代の和製フォークの懐かしの人が出ていた番組だったんですね。「それじゃつまらないよね」という意見は、年寄りの人が多かった現場でさえ出てたんですね。ただ、若いアーティストでもアンプラグドだけでライブできる人って現実の話、少なかった。「だったら、まだ若いアーティストを主体とした、打ち込み使わないライブの番組に変えようよ」と、前身番組のタイトル変えないで強引にリニューアル、始めました。

 

 

 で、実際の話、このころ、日本のロックの現状、かなり良かったんですよ。表向きには「TKとヴィジュアル系の頃」みたいに勝手にされてましたけど、あの当時流の言い方で「外資系が勧める日本のロック」なんて言われ方で、いわゆる「渋谷系以降」の洋楽色の強いバンドが大挙して出ていたころだったんですね。クオリティ的には、日本音楽史においても一番高かった時期だったと思いますよ。僕は基本的に洋楽ばっかりしか聞いてなかったんですけど、ちょうどその頃、お付き合いしてた人がスペースシャワーでバイトしてて、彼女経由でそこで人気のバンド、たくさん教えてもらったりもしてましたからね。あの頃だったら世間一般ではスピッツとか、イエローモンキーとかウルフルズの売れ初めで、コアなところでUAとか、Great 3とかシアターブルックとかEL MALOとか。ハイスタとかメロコアの出立てとか、海外でチボ・マットとかギターウルフが話題になり始めたとか。そんな頃ですね。

 

 

 その時に番組の目標としては、「番組のイメージとして絶対に出演を実現させたいアーティスト」というのが3ついました。それがミッシェル・ガン・エレファントと、サニーデイ・サービス、それからフィッシュマンズでした。実際にその三つが、NHKのスタジオに来てくれるお客さんおアンケートで最も人気の高い3つでもありましたからね。三者三様でしたけど、もうクオリティに関しては、あの当時で圧倒的でしたから。フィッシュマンズでいうと「ナイト・クルージング」以降の、神がかったサイケデリックな路線が確立されようとしていた時期でしたからね。この当時のライブには何回も足運んでました。

 

 

 それで96年の年末特集番組の枠で、その次の年に「アコースティック・ライブ」を「ライブビート」に改題してスタートさせるための打ち上げ番組でフィッシュマンズのライブをやることまでこぎつけたんですね。これに関しては、かなり長い期間、交渉を重ねて実現させて、先方も乗り気になって、「NHKのスタジオでライブをやる」ところまでこぎつけてたんですね。決まった時はもう、天にも上るくらいの嬉しさでしたよ!

 

 

 ただ、そこで僕、大失敗やらかしたんですよ。それは、そのライブがちょっと特別仕様で行われることをウッカリ忘れてしまったからでした。というのは、通常、そのNHKの番組のライブというのは、毎週木曜日が収録だったんですね。ただ、フィシュマンズ側の都合で日曜日しか体が開かなかった。もし、僕が「出演オッケーです」というのを受けて、すぐにスタジオ予約してたらそれ、間違い無く実現してたんですよ。それを、ちょっと油断して、確か数日、置いちゃったと思うんですけど、「普段、日曜なんて収録ないから楽勝だろう」と思っていたら、その日、そのスタジオに予約入れられてたんですね・・・。

 

 

 ・・ということで、流れてしまったんです(苦笑)。その当時の担当さんから「メンバー、ロング・シーズンやるつもりで楽しみにしてたんですよ」と責められ、なお、落ち込みました。ただ、その時は、「じゃあ、渋谷のクアトロのライブ、録音しますか?」の逆提案をいただいたので、結局それを録音して放送して、55分くらいの放送中、40分くらいを占めた「ロング・シーズン」のライヴ・ヴァージョン、結局ノーカット放送(これを実現させたかったから、みんな乗り気だったんです。CMがない局だったから)して、これ、一部でそこそこ話題を呼びましたね。

 

 

 そして97年に、彼らが「宇宙 世田谷 東京」を出した時にもう一回、出演の話、浮上してたんですね。ただ、この時も結局、出演が実現しなくてですね。サニーデイも、さらに観客が振動起こしてNHKのスタジオで「地震が起きた騒動」が起こって始末書書かされたミッシェル・ガン・エレファントのライブ(笑)も結局実現させたんですけど、フィッシュマンズだけがなかなか叶わなくてですね。その時に、98年の秋頃に、当時の担当さんから「(ベースの)柏原が年内で抜けるんですよ」と聞かされて「えっえ〜」となったわけです。

 

 

 それで「男達の別れ」のツアーがあって、ファイナルがまさに98年12月28日に赤坂BLIZで行われたわけなんですけど、これもタイミングがすごく悪かった。というのはこのタイミング、その「ライブビート」で、その1週間後にやることになっていた、番組始まって以来の大行事のために、その準備の関係で一番忙しかった時なんですね。手短に行っちゃえば、椎名林檎と、ナンバーガールと、くるりが、全員まだメジャーでのデビュー・アルバムが出る前に一番のステージに全部出演するという、くじに当たっちゃったくらいのことやってしまったんですけど、それとあの当時、もう一つ別の特番進めてた関係で、年末、正月、一切休みなかったんですよね。そのタイミングだったために行くことができなかったんです。

 

 

 それから3ヶ月経った1999年3月、佐藤伸治、まさかの逝去でしたからね・・・。あの時は、ここまで書いてきたことが全部いっぺんに思い出されて激しく落ち込みましたね。もう時効だから書きましたけど、今でも思い出すと悔しい気持ちが沸き起こりますね。

 

 

 さらに、この死で、盛り上がってきていた日本のオルタナティヴなロックの勢力に影も差し始めます。ここから2003年にかけて、良いバンドに限ってなくなっていきましたからね。よくバディ・ホリーの命日が「ロックンロールが最初に死んだ日」なんて言われ方をしますけど、僕にとっては佐藤伸治の死が、日本のロックのそれだと勝手に思うようにしてます。フェスでいうと、ライジング・サンとかロキノン・フェスとかの立ち上がる前夜のタイミングでもあったわけですしね。

 

 

 そして20年経った今、フィッシュマンズはあの時こそ海外には進出していなかった(一説には、海外の有名レーベルからオファーはあった説、あります)んですが、今、特に「男達の別れ」が、おそらくyoutube経由でそうなったんだと思いますけど、国際的にカルト名盤となって、音楽ファンの間で実際に知名度高くなってます。そのタイミングで今、フィッシュマンズがサブスク全解禁。そういうこともあって、今、毎日フィッシュマンズ聞いてる状態です。 

 

 

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:Spotify, 18:37
comments(0), trackbacks(0), - -
Comment









Trackback
url: トラックバック機能は終了しました。