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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第7回 1989-1993

どうも。

 

 

今日は本来なら全米映画興行成績の日ですが、こちらを優先します。「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」の7回目。

 

今回はこんな感じです。

 

 

1989年から93年にかけてですね。ちょうど、エイティーズまでの「華やかなるロックスターによるロック」の時代が終わり、ロックがよりオルタナティヴに新しい方向へと向かっていく時期のアルバムですね。どんな感じなのでしょうか。早速見てみましょう。

 

 

Blue Blood/X Japan(1989 Japan)

 

 

 まず最初は日本から行きましょう。X Japanです。

 

 ご存知の通り、何かと色々あるバンドですが、僕は全面的にでこそありませんが、ある程度の側面は評価してます。そのポイントのまず一つが、彼らが1989年当時の日本において、スラッシュ・メタル(「紅」)と、パワー・バラード(「Endless Rain」)と、これまでの日本のヒット曲のパターンになかった概念の曲を2タイプもヒットさせてしまったことですね。これは、その後の30年見ても、そこまで極端な例外ヒット出せたアーティスト、いないんじゃないかな。そこのところは当時から客観的にすごいことだなと思っていました。

 

 あと、同じ時期にガンズ&ローゼズも全盛期を迎えていましたが、両者に共通して言えることは、「セックス、ドラッグス&ロックンロールの美学を信じた最後のバンド」ということですかね。ロックンローラーがスキャンダラスで尊大で、日常に起こる一つ一つのことがことごとくドラマになった・・。そういう生き方を実践した洋邦の最後の両巨頭だったのかもしれません。

 

 彼らの場合、日本では、BURRN手厳しく批判されたために、ヘヴィ・メタルとして語られるのがタブー視みたいな感じになっていた時もありました。そこにメタルそのものの凋落と、本来脇役的存在だったhideのセンスが手助けとなって「V系」というアイデンティティで生きながらえたイメージがあったものですが、ただ、もう昨今の欧米での評価は完全に「メタル」ですね。それは2007年の再結成以降、遅まきながら達成できた海外進出の成功でも明らかです。欧米だと「パワーメタル・バンド」としての評価で、僕が2011年に縁あって見に行ったサンパウロ公演にきていた客層も日系人のV系のソレはほとんどいなくて、ほとんどが普通のブラジル人のメタル・ファンで、その人たちが日本語でバラード合唱してましたからね。あの光景、生で見ると、ちょっとした衝撃ですよ!

 

その後もドキュメンタリー映画「We Are X」のサントラが2016年にイギリスで23位まで上がったのをはじめ、世界的にヒットもしましたしね。80sのリアルタイムでならラウドネスがアメリカ、VOW WOWがイギリスに進出して成功も収めていたんですが、今あえてX JAPANの方を優先したのも、今日でのこうした欧米での評価があるためです。

 

 

Puta’s Fever/Mano Negra(1989 France)

 

 

 続いては、これは一応”フランス”ということになるんでしょうね。

 

 こういう言い方をしたのは、このマノ・ネグラを「国」という小さなカテゴライズの仕方をするのがふさわしくないからです。このバンド、生まれたところこそフランスですが、主要メンバーはキューバの血もひくスペイン系移民で、歌う言語もフランス語、スペイン語、英語の3つです。ここまで国際的に雑種なアーティストも、今回のこの企画では他にいません。

 

 その多国籍なキャラクター通り、サウンドも実に多様です。基本となっているのは一応はパンクですが、そこにはスカやレゲエも、アフロ・ファンクも、ヒップホップも、さらにはフラメンコまで混ざるという雑種ぶりです。とりわけ、このアルバムからのシングルになった「King Kong Five」なんかは、成熟度で言えばビースティ・ボーイズよりもむしろ早かったんじゃないかな。アイデアをただ提案するだけでなく、完成度もかなり高いものでもありました。

 

こうした音楽性は、ちょうど80年代前半にクラッシュが実践したものですが、彼らのボーダレスな音楽アプローチは本当に言語や国境を超えた場所や人々に影響を与え、こうして非英語圏から理想的な回答を得たわけです。このアルバムの10年近く後にクラッシュの中心人物ジョー・ストラマーはソロ作を出しますが、なんか「マノ・ネグラみたいだな」と思わせるものだったりしますからね。自分が影響を与えた人たちに、逆に自分が影響を受けたような趣さえあります。

 

 このマノ・ネグラですが95年に残念ながら解散します。しかし、中心人物のマヌ・チャオはソロに転じ、より民族音楽色を強め、今やフランスをはじめとした南欧ではチャートのトップクラスの成功を収め、英米でもヒットを飛ばすほどになっています。

 

 

Set/Youssou N’dour(1990 Senegal)

 

 

 続いてアフリカはセネガル行きましょう。ユッスー・ンドゥールです。

 

 80年代、ちょっとしたアフリカ・ブームが起こります。キッカケになったのはフェラ・クティやキング・サニー・アデと言ったアーティストがインターナショナル契約を行ったりしたからでしたが、彼らは英語圏のナイジェリアのアーティストなので今回は残念ながら対象外。しかし、同じくギニア湾近くのフランス語圏の国の優れたアーティストが、この時代に紹介され、アフリカ移民の多いフランスを中心にしてヨーロッパ中に広がっていきました。

 

 そんなアーティストの代表がマリのサリフ・ケイタであり、セネガルのユッスーでした。ユッスーの場合は84年に発表した「Imigress」というアルバムで注目され、その2年後にはピーター・ゲイブリエルのヒット曲、「In Your Eyes」でフィーチャリング・シンガーに抜擢され、一躍世界的にその名を知られることになります。

 

 ちょうどこのころ、ゲイブリエルもそうだし、ポール・サイモンがアルバム「グレイスランド」でアフリカ音楽に接近。さらにはアパルトヘイト反対運動も世界的な流れとなったために、アフリカにはすごくスポットライトが当たりやすくなっていたんですよね。

 

 そんなタイミングでユッスーも本格的にインターナショナルなキャリアを積んでいくことになります。89年には「The Lion」というアルバムで世界デビューを図ります。ただ、この「The Lion」があんまり良くない意味で西欧ウケするようにポップな味付けがされ、評判が良いとは言えないものだったんですよね。

 

 そこへ行くと、その次に出たこの「Set」は理想的なインターナショナル・アルバムでしたね。アフリカの民族音楽的なプリミティヴなエッジはしっかり残しつつ、それでいて単なる民族音楽で終わることもしない。そこにはロックやR&Bという、欧米社会の音楽要素が、甘口にならない程度に、欧米文化とうまい具合に溶け合う姿が表現されています。「らしさ」がありながらも、しっかりと聞きやすい作品となっています。

 

 ユッスーは94年にネネ・チェリーとのデュエット「7 Seconds」がヨーロッパ中の国でトップ5以内に入る大ヒットを記録。2012〜13年にはセネガルで大臣職も務めたりもしています。

 

 

Senderos De Traicion/Heroes Del Silencio(1990 Spain)

 

 

 続いてスペイン行きましょう。エロエス・デル・シレンシオです。

 

 80年代にスペインで一大バンドブームが起こったことは前回で語りましたけど、その総決算的な立場にあるバンドこそ、このHDSですね。「沈黙の英雄」という意味の名を冠するこのバンドは、デビューこそ80年代の終わりと、「ロック・エン・エスパニョール」のブームの後発組だったわけですが、セカンド・アルバムに当たるこのアルバムでシーンの頂点に立ち、メキシコ、アルゼンチンをはじめとした中南米ツアーも大成功。90年代前半はスペインと南米圏のトップバンドになります。

 

 彼らですが、このジャケ写しだけを見ると、この当時のメタル・バンドみたいに見えなくもないんですが、サウンドの方にメタル臭は皆無で、むしろ前回紹介したブラジルのレジアオン・ウルバーナみたいな、ちょっとザ・スミスみたいな繊細なアルペジオ・イターで、スケールの大きな歌いっぷりはU2のボノを意識した感じですね。いうなれば、「ニュー・ウェイヴのイメージのままでアリーナ・バンドを目指した」感じですね。そうしたことから彼らは、これも前回で紹介しました、アルゼンチンのソーダ・ステレオとの比較をかなりされてもいました。確かにヴォーカルの声、ソーダのグスタヴォ・セラッティに似た高音張り上げ系ですからね。

 

 HESは90年代半ばに4枚目のアルバムを出した後に解散。ヴォーカルのエンリケ・ブンブリーは97年からソロに転じますが、今日に至るまで、スペインのロックシーンでは常にリーダー格で、中南米でも作品を出せば必ずチャートの上位に入り続け、フェスでもヘッドライナーでい続けていますね。

 

 

Doctor Head’s World Tower/Flipper’s Guitar(1991 Japan)

 

 

 続いて、今度もまた日本で行きましょう。フリッパーズ・ギターです。

 

 彼らの存在は、日本で初めて本格的に「オルタナティヴなインディ・カルチャー」が生まれた瞬間だった気がしますね。もう、ロックそのものがすっかりメインストリームになってしまった後、バンドブームそのものがすっかり「ギターを抱えたカラオケ・ボックス」みたいになってしまい、そこに音楽そのものへの深い造詣や愛が損なわれていた、そんな1990年代前夜。東京の輸入盤文化で育った当時まだ大学生相当の年齢だった小山田圭吾と小沢健二の2人は、そうした動きを冷ややかに無視するかのように、自分たちのセンスを全開にさせたマニアックな音楽を開花させていました。そうしたアティチュードが渋谷系カルチャーの始まりでしたね。

 

 僕自身はこの当時、音楽的にこそそこまでのめり込みはしませんでしたが、この2人がやろうとしていることには共感してはいましたね。そこにはやはり、あの当時の狂騒的で表層的なバブル時代に対する徹底した違和感が根底に感じられたし「他人と同じことで安直に満足」しがちだった、あの当時の若者のマジョリティに対してのアンチテーゼはしっかり感じられましたからね。しかもそれを熱い方向性でやるのでなしに、すごく斜に構えて醒めた風にやるあの感じ。当時の2人のインタビューなんかでの毒吐きまくりの言動なんかも、今から考えれば形を変えたセックス・ピストルズみたいでスリリングでしたね。

 

 この3枚目のアルバムは、そんな彼らが到達した最高点であるだけじゃなくて、「日本ロック史における最大の早熟アルバム」として語られるべきものですね。だいたい、仮に音楽やってる大学生に、「ビーチボーイズとルー・リードとスライ&ザ・ファミリー・ストーンをサンプリングして何か作品を作るように」との課題を出したとして、このアルバム以上に独創的な作品を作ってくる人なんて、2018年までの27年もそうだし、今後も間違いなく出てこないでしょう。しかも彼らの場合は、そのサンプリング・ソースを自らピックアップもしているわけだからなおさらです。

 

 加えて、ワールドワイドに先進的なものへのキャッチアップが驚異的に早いですね。彼らは「パクリ名人」とも揶揄されていたわけですが、その元ネタそのものが、当のイギリス人でさえマニアくらいしか知らなかったようなものを即座に引用してきたわけでしょ。そんな鋭敏さ、それ以前にも、それ以降もないですよ。その結果、このアルバムのリリースが、元ネタの一つとされていたプライマル・スクリームが傑作「スクリーマデリカ」を出すよりも数ヶ月先のリリースになってしまったという、伝説的な事実まで生まれています。

 

 この早熟な2人はこの翌年には早くも解散。小山田はコーネリアスを通じて国際的に先進的なアーティストして評価され、小沢の方はその卓越した言語センスと時代感覚で、90s前半の日本のサブカルを象徴する寵児となりました。

 

 

Qui Seme Le Vent Recolte Le Tempo/MC Solaar(1991 France)

 

 

 続いてはフランスに行きましょう。MCソーラーです。

 

 90年代にヒップホップが強い勢力となったのはアメリカだけではありません。ヨーロッパでも、アメリカからの直輸入という形をとらない、それぞれの国の言語によるラップが自己表現として取り入れられ人気となります。そして、そのキッカケを作ったのは、やはり白人ではなく黒人であり、さらに言えば、フランスに移り住んだアフリカからの移民でした。

 

 その先駆者とも言えるのが元フランス領、セネガルからの移民であるMCソーラーですね。セネガルやマリといったギニア湾近くのフランス語圏の国というのはユッスーのところでも言いましたけどただでさえ音楽どころですが、そこの国民が宗主国だったフランスに渡って、黒人の間で強いヒップホップを流行らせるのは自然な流れではあります。

 

 このアルバムはそんなソーラーがリリースした最初のアルバムですね。驚くべきは、このアルバムがもう既に「ヒップホップ黎明期」的な、サウンド・プロダクションの粗い作品では全くなく、もう既にかなり完成された、いかにもこの時期の洗練されたヒップホップだったことです。イメージとしては、あの当時のトライブ・コールド・クエストみたいな、ジャジーなサンプリングを使った凄くクールな感じのトラックですね。このあたりは、50sのクール・ジャズがひときわ人気だったフランスっぽさも感じさせますね。

 

 フランスでのヒップホップ自体は、これから5年くらい後に国を挙げての大ブームがきます。ソーラーももちろんその中の一つだったし、トップ・アーティストとなったI AMなんかも、もうウータン・クラン直系といった感じでかなりの完成度でした。このフレンチ・ラップを皮切りに、ヨーロッパでもヒップホップが広がっていくことになります。

 

 

El Silencio/Caifanes(1992 Mexico)

 

 

 

 

 

続いてメキシコに行きましょう。カイファーネスです。

 

このカイファーネスは、エイティーズの「ロック・エン・エスパニョール」のブームと、90sのメキシカン・オルタナティヴのちょうど中間みたいな位置にいるバンドで非常に重要視されています。

 

 前回でも言いましたように、80年代にはスペインやアルゼンチンの人気バンドが積極的にスペイン語圏の国にツアーを行ったことで、スペイン語の大きなロック圏ができたのですが、それに影響されて再生した当時のメキシコのロックシーンの中で最もビッグになったバンドがこのカイファーネスですね。80sの後半にデビューした当初の彼らは「メキシコのU2」とも呼ばれ、その良心的なカリスマ性で人気を集めていました。

 

 ただ、92年発表のこのアルバムで、彼らはガラリとイメージを変えました。U2っぽさは一応残しながらも、もっとフリーキーな楽曲で、時には凄くメキシコのトラディショナルな雰囲気もだしたりもして。これ、プロデュースしたのがエイドリアン・ブリューなんですよね。ボウイのベルリン三部作の時のギタリストでもあり、トーキング・ヘッズや復活キング・クリムゾンでポスト・パンク風ギターを響かせていた鬼才ギタリストとしておなじみですが、彼がドラスティックなプロデュースをした成果もあって、このバンドが良い意味で捕らえどころがなくなり自由な表現ができるようになりました。国を代表する人気のバンドがここまでの実験を恐れずやることが凄く大事です。

 

 カイファーネスは95年に解散し、そのあと、リードシンガーのサウル・エルナンデスはハグアレスというバンドを組んでこれも成功していましたが、2011年に再結成してツアーやライブを時折やってますね。

 

 

Tostaky/Noir Desir(1992 France)

 

 

 続いて、今度もフランスに行きましょう。ノワール・デジールです。

 

 1992年といえば、もう世の中は世界的にグランジ(日本を除く)になっていましたが、フランスでその回答となったのがノワール・デジールだとよく言われています。このバンドは結成自体は1982年と古くて、パンクにレッド・ツェッペリンやザ・フーの影響なども受けたアグレッシヴなアプローチは予てから行われていましたが、まだロックンロールでウケていたフランスのバンドが前々回で紹介したテレフォンくらいしかなかったフランスでは、その人気に火がつくのは時間がかかりました。

 

 それを逆転させたのが1992年に発表した4枚目のこのアルバムですね。ここでの彼らは、ブルーズをベースにして、それをすごく鋭い音にしてハードかつパンキッシュにロックンロールしたんですが、それがグランジの世の中にすごくハマッたんでしょうね。このアルバムはフランス国内のチャートでは最高位が40位とそれほど高くないものでしたがロングヒットすることで人気を高めていきました。

 

 

 

これは僕もすごく好きな曲ですね。このアルバムはフランスのロックのオールタイムものだと軒並み上位なんですが、これが長く売れたことで、この次のアルバムの頃にはフランスでナンバーワン・アルバムを2枚連続で出すほどの国民的人気バンドにもなります。

 

 ただ、2003年、最悪なことが起こります。フロントマンのベルトラン・カンタが酔った勢いで、交際中だった女優のマリー・トランティニャンに暴力をふるい、その傷が原因で彼女が亡くなってしまうんですよね。マリーは、かのフランスの超大物俳優のジャン・ルイ・トランティニャンの娘でもあったわけなので、大騒動に発展します。この罪でベルトランは翌年に実刑判決を受け、2010年に出所しますがバンドはその年に正式に解散。ベルトランは昨年にソロ・アルバムを出しまして復活はしているんですが、やはり後味は悪く、実際の話、Me Too運動的に非常に苦しい立場にもなっています。起こしてしまったことに同情はしませんが、ロックの才能は本当にあった人だけにすごく残念な話です。

 

 

Tata Kazika/Kult(1993 Poland)

 

 

 続いてはポーランドに行きましょう。

 

 ベルリンの壁が崩壊した1989年前後、東欧で民主化が進みました。ポーランドももちろん例外でなく、前々回で語った労組「連帯」を率いていたレフ・ヴァレンサ氏(日本ではワレサ議長とも呼ばれていました)が大統領につき民主化を進めるなどの動きを見せました。

 

 ただ、ロックの世界に関して言えば、前々回のマーナムのところでも語ったように、80年代前半の時点で「四天王」が存在したほどのバンドブームを迎えていたポーランドは、民主化以降の90年代は、もはや「メインストリームに対するアンチテーゼ」、つまりインディ/オルタナティヴのカルチャーが進んだ時期でした。そして、その最大の裏カリスマこそがKULT(カルト)でした。

 

 KULTは結成自体は1982年と古いんですが、当時は堂々と放送禁止の過激な歌詞を書くことで注目され、80年代の後半にはアンダーグラウンドの人気バンドとなり、今回紹介するアルバムの一つ前の作品からナンバーワン・ソングが生まれ始める状況となりました。

 

 そして93年発表のアルバムで、彼らは押しも押されぬポーランドでのトップバンドとなりました。サウンドの方は、パンクを基調にはしていますが、楽曲の世界観はフロントマンの歌い方を含めトム・ウェイツで、歌われる世界観もそのまんま「三文オペラっぽいですね。そこのところは昔ながらのポーランドの妖艶な退廃美を象徴しているようにも思えます。

 

 KULTは20世紀を超えて現在に至るまで、アルバムは出せば常にチャートのトップを飾り、さらに言えばフロントマンのカジックのソロ・アルバムもずっと1位を取り続けるなど、ポーランドのロック界最大のカリスマであり続けています。これくらいアクの強い存在が国で一番売れるという状況というのもなかなか刺激的です。

 

 

Seo Taiji And Boys II/Seo Taiji And Boys(1993 South Korea)

 

 

 

 

 そして今回のラストを飾るのは韓国です。アーティストは、ソテジ&ザ・ボーイズ、ハングル読みだとソテジ・ワ・アイドゥルです。

 

 韓国でのロック史は1960年代から始まっていたとは聞きます。さらに言えば韓国のポップ・ミュージックのオールタイムでも、80年代のバンドが上位に入ったりもします。ただ、僕もそれらの情報を頼りに聞いてはみたものの、なんか日本におけるニュー・ミュージックみたいというか、その域にまでもいかない感じで、まだ80年代までなら「ロックはまだ難しいかな」と思える瞬間も決して少なくなかったです。

 

 そんな韓国がポップ・ミュージックの立場を一気に逆転させる契機が90sの前半に訪れます。それがソテジ・ワ・アイドゥルでした。彼らは90sの初頭に、当時アメリカでかなり人気に火がつきつつあったR&Bやヒップホップのサウンドを韓国のポップ・ソングに大胆に取り入れ、結果的にそれが韓国のポップ・ミュージックそのものを大きく変えてしまうことになります。

 

 とりわけ、93年に発表されたこのセカンド・アルバムからのシングル「ハヨガ」の存在は極めて大きなものでした。

 

 

 これ、この当時、友達から聞かされた時、衝撃受けましたね。だって、この当時、日本でレッチリとかフェイス・ノー・モアって本当に限られた人しか聞いてなかった時代に、韓国では、ハードロックをサンプリングしたミクスチャー・ヒップホップが200万枚を超えるヒットになってたんだから。日本でのドラゴン・アッシュのブームの5年も前にですよ。これは驚きましたね。オケヒットの連打だけが、あの当時の日本のビーイング系みたいで、メロディもどことこなく韓国歌謡っぽくはあったんだけど、あまりにも大胆に攻めた楽曲アプローチは今聴いてもかなり新鮮です。

 

 実際、韓国ではこれ以降、アイドルがアメリカの最新型のR&Bやヒップホップを意識したポップスを歌うことがお家芸となりました。そう考えると、ソテジのこれこそが、現在につながるK-POPの扉をこじ開けたんじゃないかという気もします。

 

 それもそのはず、メンバーの一人だったヤン・ヒョンソクは96年の解散以降にプロデューサーに転向し、YGエンターテイメントを立ち上げます。そこでBIG BANGや2NE1などを成功させ、K-POPブームを牽引したわけですからね。既にその種子はこの時点で蒔かれていたのです。

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 11:03
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