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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第6回 1985-1988

どうも。

 

では、「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、6回目行きましょう。こんな感じです。

 

 

今回は、1985年から88年にかけての10枚。世界的にバンドブームが起こった時期です。この頃にはどういうアーティストが活躍したのでしょうか。みてみましょう。

 

 

 

BOOWY/BOOWY(1985 Japan)

 

 

 まず最初は日本からです。ご存じBOOWYですね。

 

 80年代後半、日本で空前のバンド・ブームが起こります。人によっては80年代突入直後の東京ロッカーズを重要視したり、80年代半ばの”インディーズ御三家”を神格化したりはするものですが、リアルタイムを生きてきた感覚からして、それは「当事者」には大きかったかもしれませんが、「それによって全国の少年少女がギターを持ったか?」ということになると、残念ながらそのような事実はありません。実際にその、いわば「革命」を起こしたバンド、それはBOOWYでしたね。

 

 忘れもしません。1986年。僕が高2の時です。福岡の高校でしたが、高校の文化祭で、前年までコピーバンドのステージは9話方洋楽で当たり前でした。それがこの年にいきなり邦楽が大逆転を起こしたんですよね。その時にほとんどのバンドがコピーしたバンドこそ、このBOOWYでした。

 

 彼らに関してはこの86年の後半に出した「Beat Emotion」というアルバム、またはそのさらに翌年の「Psycopath」というアルバムからの、それぞれ「B.Blue」、「マリオネット」のシングルの成功で一気に現象になった印象があったのでそちらを選んでもよかった気もします。しかし、あの頃の学祭のバンドもそうだったし、その後に一般に聴き継がれているBOOWYナンバーが最も多いのが、85年の前半に発表された、このサード・アルバムでしたね。

 

 実際、このアルバムはBOOWYにとっての大きな分岐点でした。これまでも東京の一部ではそれなりの集客を集めるも、それをア温源の形でうまくパッケージできていなかった彼らが、名プロデューサー、佐久間正英との出会い、そして彼とのドイツのハンザ・スタジオでのレコーディングにより、ニュー・ウェイヴ・ギターバンドらしいソリッドさと、そこに乗るにはややギャップもあった、歌謡曲的なメロディ。このコントラストを絶妙に生かした独自のロックンロールを生み出しました。

 

 これはすぐに人気に火がついたわけではなかったですが、「Dreamin'」「ホンキートンキークレイジー」「Cloudy Heart」といった楽曲は口コミで愛されましたね。そして忘れちゃいけない「Bad Feeling」。この曲のイントロで弾かれる布袋寅泰のファンキーのカッティング・ギター。これはこの当時のバンド少年たちにとっての一つの登竜門みたいなフレーズにもなっていましたね。このアンセムの詰まったアルバムから、翌年前半のアルバム「Just A Hero」を経て、前述したようなセンセーションを巻き起こしていくわけです。

 

 彼らはシングルがチャートの1位になり始めた矢先の87年暮れに突然解散を発表してしまいますが、80年代いっぱいまで続いたバンドブームの中心的存在であり続け、その痕跡は90s以降になってもヴィジュアル系にも一部継承され続けることになり、氷室京介、布袋の双頭も長きにわたりソロで影響を与え続けていくことになります。

 


Hunting High And Low/A-ha(1985 Norway)

 

 

続いてはノルウェーに行きましょう。a-haです。

 

80sという時代は、この当時に台頭したMTVの存在によってミュージック・ヴィデオの時代になり、それを通じてニュー・ウェイヴのアイドル・バンドが多数生まれた時代ですが、それの総決算とも言えたのが、この北欧の3人組でしたね。漫画と実写の2つを駆使したロマンスのヴィデオで、「テイク・オン・ミー」は一躍世界的人気となり、ヴォーカルのモートン・ハルケットも一躍国際的なハートスロブになりました。

 

 また、そんな彼らが「ノルウェーからやってきた」というのも、当時はやはりかなりのインパクトがありましたね。この当時、MTVを通じて、メン・アット・ワークやインエクセスといったオーストラリアのアーティストが紹介され、ネーナのようなドイツのアーティストが全世界のチャートでトップ争いを演じた後に現れたのが、これまでヒットチャートにおいて存在を聞いたことのないノルウェーのバンドだったわけですからね。「おいおい、なんだそれは」ということにもなったわけです。

 

 a-haの場合、今日でもそうですが、「テイク・オン・ミー」の印象があまりに大きかったが為に「一発屋」だと誤解されている節があるのですが、それは全く違います。一発屋どころか、彼らはこの当時の世界が誇る屈指の国際的ヒットメーカーです。このアルバムだけでも「The Sun Always Shines On TV」「Train Of Thought」「Hunting High And Low」と4曲のシングル・ヒットがあります。音楽性にしても、ただのエレポップでは決してなく「The Sun .. 」に見られるドラマティックな展開から、タイトル曲でのメランコリックなバラード路線まで多彩です。とりわけメランコリックな曲調は後年色濃くなってきます。

 

 このアルバムを筆頭に、少なくとも3枚目のアルバムまでは、アルバムごとに3、4曲はヒットを出していたし、その間にも007の「リヴィング・デイライツ」の主題歌もありますしね。少なくとも10曲以上はヒットがあるわけです。さらに、90sに活動を休止した後に2000sに復活しますが、その後もドイツや北欧では1位を獲得しているしイギリスでもトップ10アルバムは出してますからね。その意味で彼らは「エイティーズが生み出した一発屋」ではなく「MTVが開拓したグローバル・スター」なのです。

 

 

Dividido Por La Fecicidad/Sumo(1985 Argentina)

 

 

 続いて南米に行きましょう。アルゼンチンです。

 

 日本がバンドブームに沸く頃、その地球の真裏の国、アルゼンチンでもバンドブームが起きていました。この国では、イギリスとのフォークランド紛争の後、70年代からの軍事政権が破綻を起こして崩壊。民主政治が戻っていましたが、その「自由になったぞ」という開放的な気持ちから、多くのバンドが登場し、自己表現していきます。

 

 とりわけ強かったのはパンク/ニュー・ウェイヴです。70sには以前紹介したアルメンドラやセル・ヒランのように、フュージョンやプログレの影響の強いものが目立っていたのとはやや対照的ですが、それを牽引したバンドにスモーというのがありました。

 

 スモーは、ルカ・プロダンという、坊主頭のルックスてきにはかなりイカツい男性が結成したバンドなんですが、彼はもともとアルゼンチン出身ではなく、元はロンドンの育ちです。70年代にはパンク/ニュー・ウェイヴの洗礼を受け、その頃にレコード会社、EMIだったみたいですが、勤務もしていました。

 

 そんなルカは81年に友人を頼ってアルゼンチンにわたりますが、そこでスモーを結成。85年にはこのアルバムを出すことになります。なお、このスペイン語で「喜びに引き裂かれ」というのは、かのジョイ・ディヴィジョンを意識したものです。

 

 このアルバムでスモーは、アフロ・ファンクやレゲエといったワールドビートを展開しますが、これもこの当時のトーキング・ヘッズやザ・ポリスの流れを受けたものだと思わされますね。日本でじゃがたらみたいなバンドが出たのとなんとなく通じるものを感じさせます。この彼らが放つグルーヴなんですが、ベースがかなり太めで腹にグイグイ食い込む感じでなかなかカッコいいんですよ。かなり本格的なファンクで、ホーンのアレンジなどもかなり完成度の高いしっかりしたものですね。そして歌詞は基本スペイン語なんですが、ルカのもともとの言葉である英語でも歌われます。

 

 彼らは87年までに3枚のアルバムを出していましたが、その矢先、87年のクリスマス直前に、ルカは突如、肝硬変を原因とした心臓発作で、34歳の若さで他界してしまいます。これで彼らの存在は伝説となってしまいました。

 

 なお、スモーという不思議なバンド名は、ルカのお父さんが中国の陶器関係の仕事をしていた関係で、幼い頃から東洋の文化に興味があったためのようです。それが高じてか3枚目のアルバムのジャケ写は

 

 

このように小錦だったことでも知られています。これ、その当時、日本でニュースになってた記憶がかすかにあります。

 

 

Signo/Soda Stereo(1986 Argentina)

 

 

 

続いてもアルゼンチンです。ソーダ・ステレオ。

 

このバンドに関しては、「アルゼンチンの」というより、「スペイン語圏の大物」といった方がいいかもしれません。というのはですね、80sにロックってスペイン語圏では非常に強いものになりまして、それは「ロック・エン・エスパニョール」という動きにもなりました。それを率先したのはそもそもスペインのバンドで、彼らはメキシコやアルゼンチンの公演でも成功を収めたのですが、これに他の国の人気バンドも旨みを感じ、自国での成功後に中南米にツアーの規模を広げてビッグになっていきました。

 

 ソーダ・ステレオはこの恩恵を最も受けたアルゼンチンのバンドで、86年に発表したこのサード・アルバムの成功後に中南米に本格進出して巨大なバンドになりました。ただ、そうなるだけの理由はしっかりありました。

 

 

 

ルックス的には思い切り時代は感じさせますが、ただ、このバンドのフロントマンのグスタヴォ・セラッティの歌唱力とミュージシャンシップの高さといったら見事です。ハイトーンをここまでコントロール良く力強く伸ばせるシンガーって世界的に見てもそうはいないし、彼らは根本が3ピースなんですが「南米のザ・ポリス」と呼ばれたくらいに演奏も上手いし、サウンドの方も、かなりの音楽知識に裏打ちされたグスタヴォのソングライティング能力ゆえに同時代の英米のニュー・ウェイヴ・バンドのそれと比べても遜色ないくらいですからね。

 

 このアルバムは彼らのニュー・ウェイヴ路線での最高傑作でいい曲がたくさん詰まったよいアルバムなんですが、これ以降もですね、例えば1990年の時点でアメリカでのグランジ・ブームに先駆けたアルバムを作っていたり、90sにはシューゲイザーやマッドチェスター的なものに対応していたりと、英米でのムーヴメントでのアンテナもすごく立てていたバンドだったんですよね。世が世なら、英米圏にも進出できてたんじゃないかな。

 

 ソーダ・ステレオは97年に活動を休止しますが、グタタヴォはソロとしても成功と高い評価を獲得します。2007年にはソーダの一時的再結成も行いますが、2010年、心臓発作を起こし、4年の昏睡状態の末、2014年に55年の短い生涯を閉じました。

 

 

Pop Satori/Etienne Daho(1986 France)

 

 

 今度はフランスで行きましょう。エティエンヌ・ダオです。

 

 フランスはこの時期はニュー・ウェイヴ系のサウンドの強い時期で、そこを起点として多くの新しいアーティストを生んだ時期でしたが、エティエンヌもその一人で、81年にデビュー以来、ヒットを連発し、まさにこの時代の申し子と呼んでもいいような活躍をしています。

 

 彼の特徴としては、シンセ・ポップを皮切りとして、それ以降のエレクトロ・ミュージックの進化に合わせて自分の音楽性も発展するという、イギリスでいうとニュー・オーダーみたいなタイプのアーティストでありつつ、同時にセルジュ・ゲンズブールや、フランスで人気のあるチェット・ベイカーみたいな屈折した味のあるジャジー・テイストの雰囲気や歌や声に持ち続け、そこを強いアイデンティティにしています。そういう理由からか、フレンチ・ポップの重鎮たちからも愛され、85年にフランソワーズ・アルディと共演したのを始め、彼女の夫でもあるジャック・ドゥトロンクやジェーン・バーキン、シルヴィ・ヴァルタン、ブリジット・フォンテーヌなどとの共演でも知られています。

 

 この86年に発表のアルバムは、その彼が最初に放ったビッグ・ヒット・アルバムで、フランスでの初のトップ5かつプラチナ・アルバムとなった作品です。世界的に見て、この当時でも屈指のクオリティを持つシンセ・ポップ・アルバムとなっていて、それこそニュー・オーダーとペット・ショップ・ボーイズの間をつなぐようなセンスに、独自のか細さを持つセクシーな彼の歌声がそこにワン・アンド・オンリーの色気を添えています。

 

 エティエンヌは90sに入り、セイント・エティエンヌに代表曲のひとつを「He's On The Phone」の曲名でカバーされ、イギリスで11位まで上がるヒットとなったほか、フランスのエレクトロの後輩にあたるエールからリミックスされるなど、インターナショナルなアピールも続け、むしろ2000sに入って人気をさらに上げています。

 

Dois/Legiao Urbana(1986 Brazil)

 

 

 今度は再び南米に戻りましょう。ブラジルです。

 

 80年代の南米というのは、60年代から続いていた、アメリカ主導の「キューバのような国になるのを避ける為」という名目上での右翼軍事政権が、本来の目的を見失ってただの圧政となって国民からの反感を買って破綻して崩壊した時期でもありましたが、それは1985年に同政権が終わったブラジルでも同様でした。そして、前述のアルゼンチン同様、解放感に溢れた若者から、怒涛のロック・バンドの台頭が起こり、一大ブームを巻き起こしました。

 

 レジアオン・ウルバーナはその中でも最大のバンドでした。出身はブラジオリア。1960年に、それまで何もなかった田舎に突如作られた人工的な新首都はしばらく何の文化も持ちませんでしたが、彼らが登場したことによって「国内のロックの都」というアイデンティティを持つに至りました。

 

 彼らはヘナート・フッソという、一見、「この人がロックスターなの?」という風貌を持ったカリスマてきフロントマンをようしたバンドです。メガネにヒゲの小柄な男性で、ステージでは花を持って歌う、ややゲイがかったアクションもする。そう聞くと、モリッシーみたいでもありますが、実際にこんな感じです。

 

 

 思いっきりザ・スミスでしょ?でも、これをスミスが「クイーン・イズ。デッド」を出して、まだ世界的にどこの国でもカルトスター扱いだった頃に、ブラジルではこれが国で最も売れる音楽だったわけです。その先進性には驚かされるばかりです。

 

 このアルバムは、そんな彼らが86年に発表したセカンド・アルバムで、スミスやU2に影響を受けた憂いを秘め他プロテスト・ソングから、ブラジル社会のリアリティを反映位した寓話的なナンバーを収めた、ヘナートのメロディ・メイカー、リリシストとしての才能が最も発揮されたアルバムとして知られ、ブラジリアン・ロックブームの頂点として今日まで知られている作品です。彼らをはじめとして、リオのパララマス・ド・スセッソや巨大なゲイ・アイコンとしても知られた男性シンガーのカズーサ、サンパウロのチタンスが「ブラジリアン・ロック四天王」として知られているほか、数多くのバンドがこの当時は登場しています。

 

 そんなヘナートでしたが、1996年、36歳で早逝してしまいます。理由は正式には公表されていませんがエイズ説が有力です。

 

 

Gruppa Krovi/Kino(1988 Russia)

 

 

 続いて今度はソ連に飛びましょう。キノーです。

 

 ペレストロイカを目前に控えた80年代の前半から半ばのソ連ですでに大きなロックのブームが動きつつあったことは前回のアクアリウムのところで書きましたが、そのムーヴメントにおける最大の人気かつカリスマ性を持ったバンドがキノーでした。

 

 中心人物のヴィクトル・ツォイはソ連第2の年だったレニングラード(現・サンクトペテルブルク)に生まれた朝鮮系ロシア人で、パッと見は完全に東洋人です。そんな彼は10代だった70年代からロックに興味を持ち始めバンドを結成します。当時、ソ連ではロックは違法の存在でしたので地下で活動します。1982年にはキノーは最初のアルバムを発表しますが、ソ連唯一のレコード会社「メロディア」の契約が得られなかったために、完全なるインディペンデントでの活動となります。

 

 ただ、そのカリスマティックなダークなサウンドと、ソ連に住む若者のリアリティを描いた素朴な歌詞が受け、キノーの存在はアンダーグラウンドで徐々に大きくなっていき、1988年のこのアルバム「グルッパ・クローヴィ」とともに、一気に国民的な次元で大きくなっていきました。

 

 

これがそのタイトル曲です。この中に主役で出てくる男性がヴィクトル・ツォイです。この曲、アルバムに入っている完成版の前のヴァージョンで、正式なものが聞かせられないのが残念なのですが、このようにかなり低い声でかなり暗いメロディックな曲を歌います。僕は彼のことを「レニングラードのイアン・カーティス」と呼んでいますが、ジョイ・ディヴィジョンのようなポストパンクっぽい楽曲が実際この人たちにはかなり多いです。

 

 キノーはソ連のロックブームの筆頭格としての人気を獲得しますが、その矢先の1990年8月、ツォイは交通事故によって28歳の若さで他界します。他殺説も有力視されています。ソ連が崩壊したのはこの1年後のことでした。

 

 ツォイの存在はその後、ロシアでは半ば神格化された状態で、ロシアのフィギュア・スケートの女王エフゲニア・メドベージェワがツォイの代表曲の一つである「ククーシュカ」で演技をしたことも知られています。

 

 

Life’s Too Good/The Sugarcubes(1988 Iceland)

 

 

 続いてはアイスランド、行きましょう。シュガーキューブスです。

 

 これはもう、かのビヨークがいたバンドとして有名ですよね。リアルタイムで日本でもそこそこの知名度はありましたね。このアルバムのリリースの2年後には来日もしてますからね。

 

 ただ、今でこそアイスランドといえば「インディ・ミュージックの国」として非常に有名になっていますけど、この当時はまだ「アイスランドから出てきた」というと、その聞き慣れなさに驚くことも珍しくありませんでした。ただ、その後も考えても、やはりシーンがあったからこそ彼女みたいな存在も出てくるのが可能だったわけですよね。実際の話、ビヨークは11歳でソロシンガーとしてデBYウーをしていて、その後もティーン時代に幾つかパンクバンドを組んでいて、17〜18歳の時にやっていたタッピ・ティカラスというバンドはそこそこ地元では影響力もあって、その当時に制作さfてた「ロック・レイキャビク」という、首都レイキャビクでのパンク・シーンを集めたドキュメンタリーにも出てるらしいですね。その事がもう少し突き詰められていたら、そちらを紹介していた可能性もありました。

 

 ただ、やはりその頃から才能が突出していたからなのか、その後に作ったこのシュガーキューブスは国際的な進出に成功します。このデビュー作は前衛で14位、全米でも54位まで上がる、当時のアイスランドとしては異例のヒットを記録します。

 

 ビヨークのカリスマ性はこの頃から指摘されていましたが、ただ、のちのような神秘性まではまだ生まれてなかったですね。ここで展開されているのは男性メンバーとの掛け合いヴォーカルによるギター・ロック。その掛け合い方がB52sのソレにすごく似てたんですよね。あの当時はそれでも個性的に聞こえてはいたものでしたが、のちのキャリアが偉大すぎて今ではポップすぎる聞こえ方にはなってしまってはいます。

 

 ただ、だんだん過剰に神々しくなってしまった後には、むしろこのくらいの軽さがあった方がいいと思えたことはありましたけどね。

 

 

Descanso Dominical/Mecano(1988 Spain)

 

 

続いて今度はスペイン行きましょう。メカーノです。

 

 今回、「スペインのバンドたちがメキシコやアルゼンチンで公演を行って成功することで、スペイン語圏のロック・マーケットが広がった」という話をしましたが、その中で商業的にもっとも成功したバンドがこのメカーノです。彼らは紅一点シンガーのアナ・トローハを中心とした男性2女性1のシンセ・ポップ・ユニットで、この一つ前のアルバムがスペインで史上初のミリオン・セラーを記録するメガ・ヒットを収めています。

 

 ぶっちゃけ、スペインのロックファンの間では、彼らを「ロック」と定義することに関して賛否両論があります。「ロックにしてはポップすぎる」という意見があるからです。確かに彼らの場合、シンセ・ポップだけでなく、かなり甘ったるいバラードも持ち味で、それによるヒットも多いんですね。加えてアナの歌声が、カン高くてか細い、今でいう声優さんみたいな歌い方ですからね。僕も曲によってはキツい瞬間がないわけではありません。

 

 しかし、その一方で、「そこまで成功できたのは、けっそてコンサバ・イメージなだけが理由ではないだろう」とも思える、エッジィな瞬間が同時にシングルやアルバムの半分くらいはしっかり存在するのもまたミソなのです。電子音の選択のセンスは案外かなり鋭敏だし、アナログ楽器を使ってシンセ・ポップの枠を超えたい時のアイデアが豊富(取りけカッティング・ギターの使い方は絶妙)でもありますしね。このアルバムなんてミリオンセラーの前作を受けたアルバムなのに、むしろそこに甘えないように攻めたアプローチの方が目立つし。なかなか気骨のあるポップですよ。

 

 彼らは1997年に解散。以後、アナは髪真っ白になっちゃいましたけど、昔ながらのショート・ヘアの元気イメージでソロで活躍中です。

 


No Fuel Left For The Pilgrims/D-A-D(1989 Denmark)

 

 

そして、今回のシメはデンマーク。バンドはディズニーランド・アフター・ダークことDADです。

 

このバンドに関して言えば、日本でも40代以上のロックファンの中には知っていらっしゃる人がいると思います。というのは彼ら、1989年から90年にかけて、メタル界隈でかなり強く押されてましたからね。ちょうどスウェーデンのバンド、ヨーロッパが「ファイナル・カウントダウン」の世界的ビッグヒットで北欧メタルが注目され、日本でもかなり紹介されていましたね。ノルウェーのTNTだったり、デンマークだったら全米トップ10ヒットのあるホワイト・ライオンと、このDADでしたね。

 

 DADの場合、実際はそんなにメタルメタルしているわけではなく、曲調そのものはストーンズやAC/DCの影響を受けたむしろストレートなロックンロール調のバンドでしたが、LAのグラムメタルのブーム以降に顕著なバッドボーイズ的な派手なファッション感覚での共通点から含まれていた感じでしたね。このアルバムはかなり押されていたし、実際、これを引っさげてのツアーで来日も果たしていましたね。特にこの曲はよくかかっていたものです。

 

 

当時、ロック系の番組ではよくかかっていましたね。

 

 この後、メタルブーム自体が終わり沈静化したことにより、DADの話も聞かなくなります。ただ彼ら、これで人気が凋落して解散したわけではありません。それどころか、地元デンマークでは出すアルバム出すアルバム、毎度チャートのトップを記録する地元のロックシ−ン切ってのカリスマになるんですね。90sにもグランジブームの到来後の人気が落ちず、連続1位も活動を休止する2008年頃まではずっと1位を続けていました。ちなみにホワイト・ライオンのフロントマンのマイク・トランプもDADほどではないにせよ、2000sに入ってカムバック・ヒットをソロで出して復活しています。国際的な注目がなくなったからといってキャリアが終わったわけではありません。

 

 とりわけデンマークは90s以降にロックシーンが拡大し、ハードロックからインディ・ロックに至るまで多様化もしていきます。そんな中でDADはリーダー的な役目をしっかり果たせていたようですよ。

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 13:00
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