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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第5回 1980-1984

どうも。

 

では、今日も「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、いきましょう。5回目の今回はこんな感じです。

 

 

 

今回は80年代に突入。1980年から84年の作品についてです。時代的にはパンク/ニュー・ウェイヴの時代になっていますが、それは非英語圏の国でも同様なようです。では、いきましょう。

 

 

We’re Only In It For The Drugs/Ebba Gron(1979 Sweden)

 

 

まず最初に紹介するのはエヴァ・グレン。スウェーデンにおけるパンクのオリジネーターです。

 

 イタリアやドイツをはじめ、自国の音楽ルーツに黒人音楽的なもののないヨーロッパの国々にとって、クラシックを一要素にもつプログレはバンドを始めるのに都合が良かった、という話をしましたが、パンク・ロックはそれ以上に、世界規模で人々の「バンドを組もう」というモチベーションを高めます。自分の持っている音楽的ルーツなどに関係なく、「日常の不満を歌いたい」という気持ちさえ強ければとりあえずバンドを組んで、ギターの3コードに情熱をぶつける。もう、これでオッケーになってしまったわけですから。

 

 ただ、パンクでシーンそのものが即座に転覆状態になったのが77年頃のイギリスだけで、当初アメリカでは一部のアンダーグラウンドなシーンへの浸透に止まったのに過ぎなかったように、他の国でもパンク・ムーヴメント自体が始まったのは英米のリアルタイムよりももう少し後になり80年代近くになります。このエヴァ・グレンのデビュー作もリリース自体は79年11月。クラッシュで言えば「ロンドン・コーリング」を出す頃です。

 

 そうしたタイムラグがあったが故に、このバンドのデビュー作も、「オリジナル・パンク」というよりは、もう少し過激にハードコアの影響がすでに感じられる荒削りな感じになっています。そして、より自分たちの歌いたいことをストレートに歌いたかったからなのか、歌詞が全編スウェーデン語で歌われています。その分、言葉がわからない外国人にはちょっと入りにくい感じにはなってはいますが、この母国語のアプローチ故に国内ではパンクが広がりやすい状況になったかと思われます。

 

 彼らはこの後、よりメロディックな成長を遂げ、82年のサード・アルバムの時に本国でアルバム・チャートのナンバーワンになりますが、これで活動を終えます。ただ、彼らの存在はスウェーデンでは伝説になり、その後も未発表ライブやベスト盤が出れば必ずチャートの上位に入る影響を見せつけています。そしてフロントマンだったヨアキン・タストレンはソロになり、本国では今でもアルバムをリリースすれば必ず1位を取るカリスマになっています。エヴァ・グレンは2014年、スウェーデンの音楽殿堂に第1回の選出の時点で、ABBAらとともに堂々と選ばれています。

 

Nacha Pop/Nacha Pop(1980 Spain)

 

 

 続いてはスペインに行きましょう。ナチャ・ポップというバンドです。

 

 スペインでは、割にロンドンやニューヨークに近い時期にパンクのシーンが起こっていますが、それには社会的背景との因果関係が存在しました。それは1939年から独裁政権を築いていたフランシスコ・フランコ総統が1975年11月に死去。国に民主政治が戻ってきたためです。

 

 より自由を叫びやすくなったスペインでは文化的なムーヴメントが起こりやすくなったわけですが、その中でも首都マドリッドの動きはとりわけ大きなもので、それは「ラ・モヴィダ・マドリレーニャ」と呼ばれる映画や文学を含んだものになりました。その動きの中からは、かの鬼才映画監督のペドロ・アルモドヴァルも生まれていますが、音楽でもパンク/ニュー・ウェイヴが強く、様々なバンドが出ています。

 

 ナチャ・ポップはそうしたシーンの中において、カリスマ女性シンガーのアラスカや、ニュー・ウェイヴ・バンドのラジオ・フートゥーラと並んでシーンを牽引したバンドとして知られています。このアルバムはデビュー作にあたりまして1980年にリリースされています。彼らの場合、パンクというよりは、どちらかというとパワー・ポップに近い作風ですが、その聴きやすさが故に共感を集められた感じでしょうか。

 

 スペインでは80年代前半から国内でのバンドブームが隆盛を見せ、半ばから後半になると、スペインのみならず、メキシコやアルゼンチンなど中南米のスペインの国々でも積極的にツアーを行い、ロックの話をスペイン語圏に広げていきましたが、ナチャ・ポップもその頃にはかなり大物になってこうしたツアーでも成功を収めます。

 

 彼らは80年代いっぱいで活動を終えますが、その後の2000年にアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画「アモーレス・ペロス」に曲が使われたりしています。バンドは2007年に再結成しますが、2009年にフロントマンのアントニオ・ヴェガを肺がんで失っています。

 

Ideal/Ideal(1981 Germany)

 

 

 続いてはドイツ行きましょう。アイデアルというバンド。

 

 60年代には他の国に大きく遅れをとっていたドイツでしたが、クラウト・ロックを手始めに、シンセ・ポップのクラフトワーク、ヘヴィ・メタルのスコーピオンズと共に、逆に音楽カルチャーをリードする国になりました。さらに、クラフトワークのおかげでシンセサイザーを使うのが得意になったこの国ではニュー・ウェイヴが盛んになりまして、「ノイエ・ドイッチェ・ヴェレ」(ジャーマン・ニュー・ウェイヴ)と呼ばれるムーヴメントが起きています。

 

 アイデアルはそのシーンにおける初期の人気バンドですね。このムーヴメントには派手なゴスメイクで知られるニナ・ハーゲンや、イギリスで「Da Da Da」をヒットさせているバンド、トリオなどがいますけどね。彼らは紅一点のフロント・ウーマン、アネット・フンペを中心とした4人組で、サウンドはディーヴォや日本のプラスティックスを思わせる、アナログ・シンセの、その当時ふうに言うなら”ピコピコ”した感覚をパンクロックに生かした軽妙さと痛快さを売りにしたバンドで、82年に解散するまで、同国ではトップクラスの人気バンドでした。

 

 このノイエ・ドイッチェ・ヴェレのブームはアンダーグラウンドでDAFやアインシュトルゼンデ・ノイバウテンなど、エレクトロ・ノイズ・ロックのカリスマを生み、さらにポップ方面ではピーター・シリングやネーナなどMTVのミュージック・ヴィデオ経由で世界的にヒットするアクトを出すなど、両極の方面で発展していきました。

 

 なお、アネット・ヘンペですが、アイデアル解散から20年以上たった2000年代の後半、ふたまわりほど年の離れた黒人男性シンガーと「イッヒ&イッヒ」というユニットを組み、なんとアイデアルに匹敵するくらいの商業的成功を収めカムバックし話題を呼んでいます。ここでは彼女はキーボード・プレイヤーとして年下の男性シンガーをサウンドで支える渋い役割を果たしています。

 

 

La Voce Del Padrone/Franco Battiato(1981 Italy)

 

 

 続いてはイタリアに行きましょう。フランコ・バティアットです。

 

 男性ソロ・シンガーが尊ばれるイタリアにおいて彼は、ここでも紹介済みのファヴリツィオ・デ・アンドレ、ルチオ・バティスティと並ぶ3大アーティストとして現在でも多大なリスペクトを集めています。彼の後くらいから、ヴァスコ・ロッシ、ズッケロ、ジョヴァノッティなど国際的にも有名なビッグな男性ソロの時代になりますが、ポップすぎてコアな音楽ファンからの人気がガクンと落ちますからね。

 

 このバティアットが評価されているのは、その実験性ですね。彼はもともとプログレ・バンドのキーボーディストとしてキャリアを始めていることもあり、こと、シンセの可能性を試したような音作りを行っています。70s初期の作品なんて、ほとんどプログレに分類できますからね。それがエイティーズに差しかかった頃には今度はニュー・ウェイヴの時代になりますが、ここで彼はシンセ・ポップに方向を転換。ここで絶妙にメロディックなシンセに乗って、この時代なりの新しいポップ・ソングでイタリアのファンを魅了。これと前後して、イタリアでは本格的にエレクトロ人気に火がついていくことになります。

 

 事実、つい先日、日本でも公開されて話題になった青春LGBT映画「君の名前で僕を呼んで」でも、バティアットの曲、実は流れているんですよ。舞台が1983年のイタリアなので「さもありなん」と言った感じですが、時代考証的にかなり正確ですね、この次のアルバムからの第1弾シングルだった曲が流れています。

 

 また、日本人にはわかりにくいことではありますが、彼の歌詞は非常に政治的かつ宗教的でイタリア人にとっては非常にディープなものなのだそうです。そのことでも今日に至るまで(現在も活動中)高いリスペクトを受ける理由にもなっています。

 

 

Paket Aranzman/Various Artists(1981 Yugoslavia.Serbia)

 

 

 続いては、とりわけマニアックかもしれません。旧ユーゴスラヴィア、その中でも今の国で言えばセルビアですね。

 

 ユーゴは東欧の中では南方にあたり、イタリアの東隣くらいの位置です。ここからクロアチア、セルビア、ボスニアなどに分かれるわけですが、ユーゴとしては1929年から2003年まで存在しました。

 

 このユーゴは他の東欧国と違って、第二次大戦後にソ連の影響で社会主義国になったわけではなく、それ以前から社会主義国で、さらに戦後に時のチトー大統領がスターリンと対立していたためにソ連とは関係のない社会主義路線を歩んでいました。それもあって、若者文化には早くから寛容で、ロックもビートルズの時代に自国のシーンが存在し、70sにはハードロックもプログレのシーンも存在しています。

 

 ただ、この国のロックに関しての情報を得るに、最も熱かったのは80sのパンク/ニュー・ウェイヴの時代だったと聞きます。そのことを象徴するのが、このコンピレーション・アルバムですね。これは、ユーゴのロックシーンを牽引したレーベル、ユーゴトンの気鋭の新人バンドを集めたオムニバスで、同国のロック名盤選のランキングで必ずトップ争いをする作品です。

 

ここにはエレクトリチュニ・オルガズム、イドーリ、サリオ・アクロバタの3バンドの曲が収録されていますが、これが世界的に見てもかなり先端を走っているポストパンク・サウンドなんですよね。たとえて言うならギャング・オブ・フォーとかワイアーみたいな、ガリガリと軋むギター・リフを主体とした鋭角的なロックバンドばかりで。仮に1981年にこうしたバンドのオムニバスがイギリスから出ていたとしてもかなりカッコいいものだったのに、それが東欧圏の国からなんのタイム感のズレもなく難なく現れているところが驚きです。

 

 このアルバムは、この国のシーンを形成するのにももちろん貢献したわけですが、同時にポーランドにツアーに渡って、同国のパンク/ニュー・ウェイヴ・シーンにも強い影響を与えています。その成果が2001年にポーランドで発売されたトリビュート・アルバム「ユーゴトン」で、ポーランドの人気アーティストたちが、ユーゴトンに所属していたユーゴのアーティストたち、イドーリやエレクトリチュニ・オルガズムをはじめとしたバンドの曲をカバー。これはポーランドではチャートの1位になるほど成功しています。 

 

Maanam/Maanam(1981 Poland)

 

 

 続いても東欧です。ポーランドに行きましょう。

 

 ソ連に反抗していたために、若者文化としてロックが盛んだった国としてハンガリー、チェコ、ポーランドの名をこれまでもあげてきていますが、80s以降の東欧でロックのシーンが最も盛んになったのはポーランドですね。この国では80年代初頭、労働組合「連帯」が政府による独裁政治に激しく対抗し、それが東欧そのものの民主化に進ませる道筋を作りましたが、そういう社会情勢にロックも歩調を合わせてか、80sになりバンドのシーンが活性化します。

 

 中でも「4大バンド」と称されたバンドが人気で、それがパーフェクト、レプブリカ、レディ・パンク(名前はレディですが、男性4人組です)、そしてこのマーナムでした。

 

 これらのバンドはいずれもパンク/ニュー・ウェイヴからの強い影響を感じさせる、いかにもこの時代らしいバンドでしたが、マーナムの場合はフロント・ウーマン、オルガ・ヤコウスキ、通称”コラ”のカリスマ性が売りのバンドでした。その存在はさしずめ「ポーランドのデボラ・ハリー」とも呼べるもので、サウンドの質感もブロンディのパンクっぽい時期のそれに似たものがあります。

 

 彼らは人気が長く持続したバンドで、90sにも、解散する2000sにも、そしてそれ以降にコラがソロになっても、アルバムがトップ5内に常に入り続ける人気バンドで、コラ自体も年齢を追うごとに声に凄みを増して、ちょっと怖いくらいまでになっていますね。

 

 あと、コラの場合、いろんな時期を見てもルックスがコロコロ変わってる人なんですが、このジャケ写でもそれっぽいんですが、坊主にもしてます。その影響かなんか知らないんですが、この国の女性の人気ロッカー、なぜか代々、頭を丸める例が多いという、不思議な現象も起きてたりしています。

 

 

Dure Limite/Telephone(1982 France)

 

 

 

 続いては久しぶりになるフランスです。テレフォンというバンド。

 

 60sにカルチャー的には映画も音楽もすごくカッコよかったフランスですが70sは今ひとつ決手がない感じでした。ただ、次のシーンのための種は蒔かれていたのかなと思えるのは、この国で最初の本格的なロックンロール・バンドであるテレフォンが生まれたことですね。

 

 テレフォンがデビュー・アルバムを出したのは1976年のこと。76年に出てきたというとどうしても「パンクに触発された?」みたいなことが想起されがちですが、ちょっと違います。彼らはシンプルでストレートなロックンロールを信条としていましたが、それはストーンズやザ・フーの60年代におけるソレ。同じ時代ならむしろパブ・ロックであったり、あるいはこれがもう少しハードだったらAC/DCにも近い線だったとも思います。ちょっとルー・リードも入ってるかな。

 

 そんな彼らは、レザー・ジャケットに痩身で無骨なフロントマン、ジャン・リュック・オーベールを中心に、甘いマスクのリード・ギタリスト、ルイ・ベルティニャックに紅一点ベーシストのコリーヌ・マリエノーという、華のある3人が絡みあうシンプルながら力強いロックンロール・アンサンブルを披露していきますが、1980年代が近づくにつれフランスを代表するバンドにのし上がって行き、1982年にこのアルバムが出る頃にはフランスのチャートでロックバンドとしては初の1位。50万枚を売るほどのバンドに成長します。この頃になると、アルバムのタイトル曲こそはザ・フーの「Won't Get Fooled Again」みたいではあるんですが、ニュー・ウェイヴの感覚も同時代的に取り入れ始め、言い意味で軽快さと小気味よさがうまれていますね。

 

 彼らは1984年にもう1枚アルバムを出し、人気絶頂のまま86年に解散します。その後もオウベールはソロとして成功しますがテレフォンほどのインパクトはなく、絶えず再結成が望まれ、現在も秘蔵ライブの類やベスト盤が出るたびにチャートの上位に登り続けています。

 

Radio Africa/Aquarium(1983 Russia)

 

 

 

続いては、とうとうこの国が出ましたね。現在のロシア、この当時なら旧ソ連です。

 

 なぜ、この国がこれまで出ていなかったのか。それはやっぱり、取り締まりが厳しかったからでしょう。東欧の他の国には若者文化に関して寛容だった国もあたわけですが、ソ連と言うのはそうしたものを国の外から干渉して取り締まる立場にありましたからね。どこよりも厳しかったわけです。

 

 そのような国だと、さすがに表立っておおっぴらにロックしようと思っても、見つかれば処罰もされかねません。ただ、それでもロックそのものを聞く者は存在し、演奏活動をする人たちも地下レベルで存在しました。演奏活動そのものは70年代後半にはかなりの規模になっていたというし、音源の流通もカセットテープでの音源発表で行われていたと言います。

 

 ボリス・グレヴェンシコフ率いるバンド、アクアリウムはそんなタイミングで登注目されているバンドです。ボブ・ディランやビートルズに影響を受けたボリスのバンド、アクアリウムは結成自体は大学生だった1972年くらいの話ですが、1980年3月、この国で最初のロック・フェスティバル、トゥビリシ・ロック・フェスに出演し、同性愛を表すアクションなど政府を挑発する行為を連発して注目を集めたようです。

 

 これはそんな彼らが1983年に発表したアルバムです。これまで、彼らもそうだし、他の多くのバンドも、ライブの模様を録音した作品を発表していたのですが、それはスタジオを借りて行った最初のオリジナル・アルバムでした。これで注目度が上がった彼らですが、同じ時期に他のソ連国内のバンドたちの注目度が上がり、バンドブームの様相が高まっていきます。そして86年、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカにより、ロックバンドの活動の許容が広がったことでソ連でのロック人気はさらに高まることになりました。

 

 この後、1988年、ボリスはソロでインターナショナルにレコード会社と契約。ソロ・シングル「レディオ・サイレンス」はユーリズミックスのデイヴ・スチュワートのプロデュースで世界中に紹介されました。日本でも当時、ラジオで結構かかってましたよ。

 

 このアクアリウム自体は、基本は80sのフォークロック、とりわけダイア・ストレイツっぽい感じがありながらも、メロディはロシア民謡的な独特な暗さがあって、なかなか摩訶不思議ですよ。

 

 

Musa Ukungilandela/Juluka(1984 South Africa.Zulu)

 

 

そして、この特集、初めての地域にいきます。アフリカ。それも南の端、南アフリカ共和国に行きましょう。

 

 今回の特集で僕が「しまった!」と思ったのは、「非英語圏」としてしまったことにあります。なぜなら、アフリカで音楽が盛んなところといえば、概して「公用語が英語」という国が多いから。アフリカで最もGDPの高いナイジェリアがそうだし、ケニアも、ガーナもそう。そして、今回選んだ南アフリカもそうです。

 

 では、それにもかかわらず、どうして今回これを選んだのかというと、この場合は、英語ではなく、原住民が代々使っているズールー語で歌った作品だったから。そして、そのことに強い社会的な意義があるからです。

 

 今回のこのアルバムのアーティスト、ジュルーカのリーダー、ジョニー・クレッグはイギリスからの移民白人です。彼は大学で人類学を学び、アフリカの部族の言葉にも長けていました。これを自らのルーツ音楽であるロックと融合した音楽活動を展開するべく、70年代からバンド、ジュルーカを結成します。

 

 このバンドでは黒人との混合バンドを組みますが、そのことにまず大きな意味がありました。それは当時、この国がアパルトヘイトにあったため。わずか人口15%の白人がその他の黒人に対し人種差別を行う世の中でそれは国際的にも大問題となっていましたが、そんな中、彼は意欲的に人種的融和を目指していたわけです。

 

 最初は英語で歌われていたジュルーカの歌ですが、七枚目にあたるこのアルバムで全編にわたって黒人原住民の言語であるズールー語で全編にわたって歌われ話題となりました。また、サウンドの方もシンセザイザーを導入。このアプローチも、当時のアフリカン・ポップの先端として紹介されました。

 

 ジュルーカはこのアルバムを持って解散。クレッグはこの後にサヴーカという新バンドを結成。アフロ・ポップの世界的アーティストとして活動し、世界にアパルトヘイトの撤廃をアピール。そしてそれは1990年に実を結ぶことになります。

 

 

Two Steps From The Move/Hanoi Rocks(1984 Finland)

 

 

 

 そして今回の最後はフィンランド。おなじみの人も多いハノイ・ロックスでシメましょう。

 

 ハノイですが、本国で1981年に登場したロックンロール・バンドで、イギリスを経由して82年の終わりごろには日本にも紹介されましたが、かなり熱狂的に迎え入れられたものです。風貌は「遅れてきたグラム・ロック」という感じなんですが、ニューヨーク・ドールズやジョニー・サンダーズのようなニューヨーク的退廃の美学もあり。サウンドの方はパンク的なんだけど、ハードロック的な骨太さもあって。その、「どのジャンルにもはまらない、オリジナルの魅力」がハノイにはありました。特に日本では「フィンランド」という、全く聞きなれないところからやってきたこともあり、やたらと「白夜の」という形容のされ方をしたものです。

 

 ただ、彼らの存在が世界的に大きなものとなったのは、83年にアメリカに渡ってからですね。彼らのグラマラスなロックンロールは、この当時、アメリカで勃興しつつあった、モトリー・クルーやラットをはじめとしたグラム・メタルのシーンに受け入れられつつありました。実際、84年に発表したこのアルバムもかなり高い注目を浴びたのですが、84年12月、このバンドのドラマー、ラズルが、モトリー・クルーのヴォーカル。ヴィンス・ニールの運転する車に同乗した際、交通事故で事故死。このショックでハノイは解散してしまいます。

 

 ただ、ハノイには極めて大きなファンがついていました。それはガンズ&ローゼズのアクセル・ローズ。彼が何かとハノイへの敬愛を口にしたことで、ヴォーカルのマイケル・モンローのソロ活動などもそれなりの恩恵を受けていたものです。

 

 ただ、逆にそのアメリカのグラム・メタルでの絶大な評価がゆえに、このジャンルが一気に人気を落とした90s以降、ハノイもこのジャンルの中に吸収されてしまって、彼ら本来の境界線のない独自性が見過ごされがちになってしまったのは個人的に残念ですけど。

 

 今日、ハノイの存在は、フィンランドが彼らの登場後に世界を代表するメタル大国の一つになったことでもその後への影響力は伺えます。ただ、やはりどこか、まだ評価のしたりなさを感じたりはしますけど。

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 10:38
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