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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第4回 1973-1979

どうも。

 

 

では、「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、4回目、行きましょう。こんな感じです。

 

 

 

今日は1973年から79年の間の10枚の紹介をしましょう。英米だと、ちょうどヒッピーのカウンター・カルチャーが終わり、ロックの産業が大きくなり商業化が指摘されるようになる頃ですが、非英語圏ではどうだったのでしょうか。まずはこれから行きましょう。

 

 

Alles Klar Auf Der Andrea Doria/Udo Lindenberg(1973 Germany)

 

 

 

 まずはドイツから行きましょう。ウド・リンデンベルクです。

 

 1946年、第2次大戦が終わった翌年に、まさにドイツのベイビーブーマーとして生まれたウドですが、彼はさしずめ「ドイツのミック・ジャガー」と目されている人です。1970年代の初めから40数年間、一貫してストーンズ、もしくはグラムロック期のデヴィッド・ボウイ風のロックンロールを歌い続けている人です。

 

 この人も当初はクラウト・ロック華やかなりし1960年代の後半のロックシーンから出てきて、当初は理屈っぽい実験色の強い曲を歌っていたのですが、1973年発表のこのアルバムからそういう路線からは離れて、かなりストレートなロックンロール・アルバムとなります。第2回のカンのとこでも言いましたように、ドイツという国は”シュラーゲル”という民謡が強い地域でもあったのでなかななかロックが流行らなかったのですが、英米以外のロックでは、このアルバムくらいから国内アーティストが成功を収めるようになってきて、かなりノーマルなロックも流行るようになってきます。

 

 このアルバムだと、まだ曲によってはニューオーリンズ・ジャズみたいなアレンジの曲やカントリー調などの曲があったりもするんですが、ただ、この次の「Ball Pompos」というアルバムになると、もうストレートな3コード・ロックンロール一色になって、チャートでもトップ5に入るアルバムを連発し始めるようになります。彼は80年代の半ばまではトップ・アーティストで、90年代には一度人気が下がってしまうんですが、2000年代に再評価がありまして人気が再浮上。ついにはチャートのトップになる成功まで収めています。

 

 彼は音楽もさることながら、その独特の風貌のインパクトでも有名です。こけた頬に尖った顎にギョロ目、というのは昔からの目を引く特徴だったんですが、近年では必ず、サングラス、そしてロン毛の上に目深に帽子をかけ、別名「帽子の男」と呼ばれ、それがトレードマーク化して、ネタにされつつも非常に愛される人になっています。

 

 

Gita/Raul Seixas(1974 Brazil)

 

 

 続いても国民的ロックンローラー・タイプの人、行きましょう。ブラジルのハウル・セイシャスです。

 

 前回のミルトン・ナシメントのところで「サイケ時代以降に台頭してきたブラジルの新しい音楽はMPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイロ)と呼ぶ傾向がある」と書きました。ただ、ブラジルのロック・ファンに言わせると、「MPBは軟弱だ」とのことでロックにカウントされないこともしばしばです。そんなブラジルにおいて、同じく70年代だったのですが、「ロックの父」と呼ばれているのがこのハウルです。

 

 彼はもともと50sのロカビリーの時代にロックンロールの強い影響を受け、60sの後半に、当時のブラジルとしては珍しいブリティッシュ・ビート・スタイルのバンドでデビューもしていたのですが、本格的に注目され始めたのは70sの前半にソロ・デビューしてからです。

 

 ハウルは「ボサボサ髪にボーボーの髭」というのが典型的なイメージで、今日でもブラジルではものまねのパロディにされているほどです。イメージは一見「ディラン・フォロワー」的にも見えるんですが、これが案外一筋縄でいかないほど多彩です。案外近いのはグラム期のボウイですね。それもストリングスの入ったアコースティック調のバラードの時。彼は素晴らしいバラッディアーでもあるので。そうかと思えば自分のルーツでもある50sのロカビリー調の曲をやったり、そうかと思えばいかにもブラジルらしいファンキーでアフロなリズムを取り入れてみたり。すごく多彩です。

 

 このアルバムは、一般的な最高傑作とされる「Krig Ha Bondelo!」(1973)の次のアルバムなんですが、こっちの方が今日でも耳にする曲が多いので、近年では評価が逆転しつつありますね。その中の1曲に「Sociedade Alternativa」という曲があるんですが、これ、2013年にブルース・スプリングスティーンがブラジル公演行った時になんの予告もなくいきなりカバーしてブラジルのオーディエンスを驚かしています。

 

 

まさにこの時ですね。僕もこの時、観客の一人でいました。

 

 ハウルは70年代いっぱいくらいまで圧倒的な人気を誇りますが、ドラッグとアルコールが絡んだトラブルもありまして、80年代はアルバムを出すごとにレーベルが違うなど、トラブルメイカーとして有名でした。そして89年、ドラッグのオーバードーズで44歳で早逝しています。

 

 

Anima Latina/Lucio Battisti(1974 Italy)

 

 

 続いてはイタリアに行きましょう。ルチオ・バティスティです。

 

 

 プログレ・バンドは出てきたものの、それ以外はやはり国柄で男性ソロが強い70年代のイタリアでしたが、その中で最大の存在がルチオでした。70sのイタリアのチャートの記録紐解くと、もう1位のほとんどがこの人なんですよ。年の半分くらい1位なんじゃないかというくらいに独占されてるくらい、とにかく影響力があったようです。しかも彼の場合、あまり表に出ない謎めいたキャラクターなのにそのような現象が起こっていました。したがって、映像の記録なども極めて少ないです。

 

 そんなルチオは1943年の生まれで、60年代はソングライターとして活動していました。彼は作曲担当で、作詞はモゴルという人でしたが、彼は以後もずっとパートナーでした。このコンビで60s後半にはイタリアだけにとどまらず、グラス・ルーツやエイメン・コーナー、ホリーズといった英米のバンドにも曲提供していたほどです。

 

 そんな彼は1969年にシンガーとしてデビューするのですが、これがたちまち1位となってからはイタリアのマーケットはもう彼の独壇場。ヒットが延々と続くことになります。当初は「イタリアのキャット・スティーヴンス」とでもいうべきソフトなフォーク路線でしたが、73年くらいから徐々にロック化が始まり、74年のこのアルバムが最高傑作と呼ばれるに至っています。

 

 これ。人によっては「ルチオがプログレに走った」とも言われているのですが、そこまでは言いすぎです。ただ単に長い曲が含まれるようになって、シンセサイザーを使って、複合的なリズムが目立つようになっただけのことで基本はまだフォーク・ロックにありますからね。ただ、彼のアルバムの中で最も意欲的な実験精神に満ち溢れたアルバムであることは僕も認めます。

 

 彼はこれ以降の70sはロック化して、この年代の後半くらいまでの作品はイタリア音楽界の名盤扱いをされているものが多いですね。ただ、エイティーズに入って、大胆にもエレ・ポップ化しまして、以後はその路線が90sに入ってもずっと続きます。さらにエイティーズ以降は、人前に出ることはさらに激減し、加えてアルバムのリリース・ペースもかなり大きくなったことから影響力が落ちていくことにもなります。そして98年、彼は突然世を去ります。死因は明らかにされてないのですががんとの闘病だったようです。

 

 謎の多いルチオですが現在でも人気は抜群で、昨年にはアンソロジー・アルバムがチャートのトップになっていましたね。ただ、まだ音源のストリーミングが認められていないため。まだyoutube上でしか残念ながら音が聴けません。

 

Moetsukiru Last Live/Carol(1975 Japan)

 

 

 今度は日本に行きましょう。キャロルです。

 

 70sの日本のロックはそこまで一般的に売れてはいなかったのですが、諸外国に比べるとかなり多様化していましたが、その中でも異端な存在がキャロルでした。この当時は大衆化したフォークが大人気で、国内のロックの傾向としては、はっぴいえんど以降に発展する、アメリカの西海岸的な雰囲気を持った、今でいうシティ・ポップの原型とも言えるものか、ブルース・ロック、ハード・ロックやプログレでしたが、このキャロルだけが「ハンブルグ修行時代のビートルズ」をイメージした初期のガレージ・ロックをプレイ。ただ、そのあまりに異端なスタイルは1973年に登場するや、メディアの熱狂的な注目も相まってカルト・フォロウィングを生み出します。フォークのような大きなシングル・ヒットこそ出ないものの、アルバムはそこそこの注目を受け、この当時で20万枚のヒットを生み出せていました。その現象はテレビドラマの中で実在のネタにされていたほどです。

 

 

エピソードのタイトルからしてこれですからね。かなり強烈です。

 

この「夜明けの刑事」のエピソードがいみじくも示しているように、キャロルは、その当時風の言い回しをするなら「落ちこぼれ」の人たち、さらに言えば暴走族などの不良たちから強い支持を得ていました。実際、のちに俳優で有名になる岩城滉一や舘ひろしが在籍したバンド、クールスはキャロルの親衛隊でしたからね。

 

 ただ、こうした話を聞くに、これ、思い出すのは「パンク」なんですよね。すごく共通点多いんです。だって、「ビートルズ以前の60sへの憧憬」って、ラモーンズやブロンディがそもそもかがけていたイメージと共通しているし、他のバンドたちがヒッピー以降のフォークだったり、ハードロックやプログレに力を入れている頃に短尺のガレージロックをやった。さらに言えば、そうしたロックで、社会の底辺にいた若い欲求不満を抱えた若者の支持を得て、いかつい親衛隊までいた。それもセックス・ピストルズみたいだし。そういうことがロンドンの3年前に、全く違うコンセプトとファッション感覚で日本で起こっていたのはすごく不思議です。

 

 ただ、そんな人気が絶頂にこれから差し掛かろうかという75年3月に、キャロルは突如解散。日比谷野音でのラスト・コンサ_トを収録したライヴ盤「燃え尽きる」がやっぱり一番いいかな。オリジナルだと、矢沢永吉とジョニー大倉の双頭がフロントを分け合って、それももちろんいいんですけど、どちらかといえば永ちゃん聴きたいじゃないですか。その比率で言って永ちゃん度高いし、プラス、この当時のスタジオの録音技術、日本だけでなく国際的にもライブの臨場感を伝えられていなかった(だからライブ盤が当時はよく売れた)ことを考えても、これがベストじゃないかな。

 

 ただ、そんな「パンクな先駆性」は当の本人たちも全く予期できていなかった話で、海の向こうでパンク・ムーヴメントが起こった頃には、永ちゃんはバラードでウェスト・コースト・サウンドに走って、以後も完全な独自路線ですからね。そう考えても、キャロルというのは日本音楽界の生んだ不思議な一瞬だったと思います。

 

 

Autobahn/Kraftwerk(1975 Germany)

 

 

 続いて再びドイツに行きましょう。これは偉大なグループですね。クラフトワークです。

 

 もう今となっては、テクノ/エレクトロなど、「あらゆる電子音楽の元祖」と呼ばれるクラフトワーク。そのオリジネーターとしての功績は、ロックにおけるビートルズやフォークにおけるディランに負けないくらい大きいのではないかとも思われますが、そんな彼らは1970年にデュッセルドルフで結成されます。ちょっと後発にはなりますが、彼らもクラウト・ロックの実験的なバンドの一つとして生まれていて、第2回で紹介したカンとも友人同士で親交がありました。

 

 そんなクラフトワークでしたが、1975年に全世界(ドイツのリリースは74年11月)で発表になったこの四枚目のアルバム「アウトバーン」で一躍世界的なグループとなります。アナログ・シンセの単音から奏でられる淡々としながらも中毒性のあるグルーヴを奏でる反復される硬質なリズムは、この当時世界的に人気に日がつきつつあったディスコでかかり、アルバムのタイトル曲はドイツでトップ10に入るだけにとどまらず、イギリスで11位、アメリカでも25位を記録しました。アルバムに至っては全英4位、全米5位ですよ。この背景には、ディスコのブームに加え、シンセサイザー自体がプログレで使われて人気だったこと、さらにシンセサイザーがインストゥルメンタル・ミュージックとして注目されていたことも挙げられます。クラシック音楽家だった、日本の冨田勲のアルバムが全米チャートで50位前後まで上がっていたのもこの頃です。

 

 ただ、これ以降、エレクトロ・ミュージックは、プログレやクラシックのインストとしてよりは、圧倒的にダンス・ミュージックとしての利用度が高くなります。クラフトワークの成功を足がかりにドイツはディスコに次々とダンス・ミュージック・アティストを送り出すようになります。ちょうどミュンヘンに修行に来ていたアメリカ人のドナ・サマーやイタリア人のジョルジオ・モロダーがまさにそうです。そしてイギリスではパンクの時代にパンク・バンドが「ロックに代わる新しい音楽」とばかりにシンセを弾き始め、ニュー・ウェイヴの時代のシンセ・ポップの全盛を道肉ことにもなります。

 

 そしてクラフトワークですが、「アウトバーン」から始まった、現代文明のオブジェとエレクトロ・ミュージックを結びつけ続け、この音楽の視覚的イメージを高めていきます。それは原子力発電所だったり、高速鉄道だったり、機械だったり、コンピューターだったりするのですが、その戦略が、その後のエレクトロ・アーティストのライブでのヴィジュアル・イメージの構築の原点になったりもして、この点でも彼らは強い影響力を与え続けています。現在は創始者の一人、フローリアン・シュナイダーは辞めてしまいましたが、もう一人の創始者ラルフ・ヒュッターを中心に現在も活動を続けています。

 

 

Fruto Proibido/Rita Lee(1975 Brazil)

 

 

 またブラジルに戻りましょう。今度はヒタ・リーです。

 

 ヒタはブラジルにおける最初のロック・クイーンです。同じ時期にブラジルはボサノバのエリス・レジーナを始め、マリア・ベターニア、ガル・コスタと優れたシンガーを生んでいるんですが、ロックでいうとヒタだけですね。ただ、彼女の影響力は今日に至るまでかなり大きなものがあります。

 

 彼女は2回目で紹介したオムニバス「トロピカリア」に参加したサイケデリック・ロックバンド、オス・ムタンチスのヴォーカリストとしてデビューしてまして、このバンドが90sや00sに国際的に再評価されたので、それで知っている方もいらっしゃるかもしれません。日本でも2000年くらいだったかな、ヒタのムタンチス在籍時に出したソロ・アルバムが再発(というか日本初音源化)されていたりもしています。

 

 ただ、そのムタンチスのイメージでヒタを捉えると大きな誤解も生みかねません。ヒタ自体はサイケデリックのイメージとは本来程遠い人で、かなりストレートでわかりやすいロックを好む人です。実際、70年代膳半にムタンチスがプログレ化すると同時にバンドをやめてソロになってるし、このソロ通算4枚目(ソロ転向後2枚目)となるこの最高傑作bの誉れ高い一作では、ストーンズを意識したような、グルーヴィーなリフのストレートなロックンロールを聞かせてくれています。いみじくもその中の最大の代表曲の曲名は「エッセ・タウ・ジ・ホッケンホール」。ズバリ、ポルトガル語で「そのロックンロールなるもの」ですけど、まさに彼女なりの「It's Only Rockn Roll(But I Like It)」宣言した1曲です。

 

 それから1975年にして、このジャケのセンスですよ!同じ頃、女性のロックでこんなカッコいいセンスをかもし出せていたのって、パティ・スミスの「ホーセズ」くらいなものです。あと、フリートウッド・マックに加入したばかりの頃のティーヴィー・ニックスかな。世界でもこれから”ロック・クイーン”が生まれようとしていたその矢先に、非英語圏でも彼女のようなスターが生まれつつあったことにおいてもこれは貴重です。

 

 ヒタは人気のピークは80sの前半ですね。この時は年下の夫(現在も)のロベルト・デ・カルヴァーリョと共同で、ちょっとユーミンみたいなAORっぽい路線でヒット曲たくさん出してます。一時期ちょっと人気落ちたんですけど、90sにはMTVアンプラグドでの人気で復活。そのあとはロック回帰してカッコいいイネージでしたが、2012年にアルバム出してステージでの活動引退をしてからは隠居状態ですね。ただ、彼女のインスタを見ると60sから生粋の”元祖ガーリー”だったことが伺えてる写真や彼女が作ったイラストやアートが見れて面白いですよ。

 

 

The Album/ABBA(1977 Sweden)

 

 

 これは超大物ですね。ABBAです。

 

 ABBAだと、もうあまりにもビッグネームすぎて、彼らがスウェーデン出身である事自体が忘れられている感もありますが、別にその名前だけが一人歩きしているわけでは決してなく、今でもスウェーデンでは国宝扱いされていて、博物館もストックホルムにあります。

 

 そもそもABBA自体が、これまでのスウェーデンの音楽界における、いわばスーパーグループとして結成されています。第1回の時にも話しましたが、ベニーは”スウェーデンのビートルズ”ことヘップ・スターズのキーボード、ビヨルンはスウェーデンで最も人気のあったフォーク・グループ、フーテナニー・シンガーズのフロントマン、そして女性陣もアグネッタは60年代後半にフラワー・ムーヴメントのフォーク・ポップみたいなイメージでソロでデビューしてナンバーワンのガール・シンガーで、フリーダことアニ・フリッドも、スウェーデン歌謡曲のシンガーで、1曲スウェーデンで1位の曲を持っていました。このようにABBAは、4人全員が本国で1位になった曲を持つスターたちの集まり、ということでデビューの時から注目されていました。

 

 ビヨルンとベニーはABBA結成前にデュオで「木枯らしの少女」という曲を特に日本でヒットさせていますが、そのあと、ABBAは1973年に結成され、よくね74年には「恋のウォータールー」がいきなり英米トップ10を含む世界的な大ヒット。そこから世界的に巨大シングル・ヒットメイカーになりまして、「I Do I Do I Do」「SOS」「Fernando」「Mama Mia」と来て「ダンシング・クイーン」で全世界的にナンバーワン。一大現象となります。

 

 ということで「ダンシング・クイーン」の入ってるアルバム「アライヴァル」も考えましたが、僕はあえてその次のこの「The Album」を選んでみました。なぜか。このアルバムの方が、「ディスコ・アイコン」としてのABBAをより表現できていて、よりこの時代らしいと思ったからです。要は、このアルバムの方がよりエレクトロで、その後のシンセ・ポップ現象も先取れているからです。その代表ともいえる名曲が「Take A Chance On Me」。これを筆頭にシンセの使い方がこのアルバムでは格段にうまくなっていますね。元々、ビヨルンとベニーは、ミュージカルとロックンロールとソウル・ミュージックのエッセンスを絶妙にミックスさせた曲を作る名人でしたけれど、シンセが加わったことによって完成したと思います。

 

 ABBAはこの後もシングル・ヒットを続け、80s初頭までヒットメイカーとして活躍。その後は長く沈黙してましたが、その間、ミュージカル、映画での「マンマ・ミーア」の大ヒットやベスト盤の未曾有のヒットの末、来年、新曲2曲が発表される見込みです。

 

Lovedrive/Scorpions(1979 Germany)

 

 

 

またドイツに戻りましょう。これまた大物ですね、スコーピオンズ。

 

民謡人気のせいで、ドイツでロックの人気に火がつくのが遅れた話は今回もしていますが、スコーピオンズもそれで割を食ったバンドです。結成そのものは1965年と早いのに、デビューそのものは71年。しかもその当初は、クラウトほど実験的ではないものの、その後と比べると別人のようなロング・ジャムのサイケデリック・ロックバンド。ギターはそれなりに激し目には弾枯れてはいますが、のちの「ジャーマン・メタルのパイオニア」の要素はまだ見受けられません。

 

 彼らののちのトレードマークとなる、「ハイトーン・ヴォイス」「泣きのツイン・リード」「ストレートなロックンロールと感スケール感大きなバラード」という要素を出してきたのは1976年に発表した「Virgin Killer」で、そのアルバムで日本ではそれなりに大きな注目はされました。あのアルバムは、これもまた悪名高い、彼らの「発禁ジャケット」の先駆でもありましたからね。この後に日本公演も成功し、あの有名な「荒城の月」なんかもあった後、79年に発表したのがこの「Lovedrive」です。

 

 このアルバムは、そうしたスコーピオンズの、いわゆるメタル界隈の人たちが言うところの「様式美」という、先述した要素が完成したアルバムであり、それをさらに一次元先に進めたアルバムですね。人気バラード曲の「Holiday」にキャッチーな好ロックンロール・チューンの「Loving You SUnday Morning」といった硬軟に加え、ライブでおなじみのインストの「Coast To Coast」にレゲエ・リズムを取り入れた「Is There Anybody There」。アルバムのバランスと楽曲の充実度では最高傑作に近いと思います。

 

 加えてこれは時期が良かった。これが出た79年あたりから、イギリスではNWOBHMのブームが始まります。アイアン・メイデンやデフ・レパードといったイギリスの当時の新人バンドを中心としたムーヴメントではありましたが、彼らもモーターヘッドやジューダス・プリースト、オーストラリアのAC/DCなどとともにこの流れに加えられ、一つの大きな勢力になります。そして、それと同時に、母国ドイツを巨大なメタル帝国にもしていきます。

 

 

La Grasa De La Capitales/Seru Giran(1979 Argentina)

 

 

 

 今度は南米でもアルゼンチンに行きましょう。これはセル・ヒランというバンド。

 

 ただ、これはどちらかというと、このバンドが大切というよりは、中心人物のチャーリー・ガルシアのバンド、ということなんですけどね。チャーリーは、2回目に紹介したアルメンドラというバンドの中心人物だったルイス・アルベルト・スピネッタ、彼t並ぶ、アルゼンチンが生んだ最大のロックスターのもう一人の存在です。

 

 

 若い頃から現在まで、「メガネにチョビヒゲ」がトレードマークのチャーリーは、70年代前半にまずはスイ・ジェネリスというフォーク・デュオで売り出して、これで大成功を収めます。ただ、このデュオがですね、アルバムを出すごとにサウンドが壮大にプログレ化していきまして、そこでフォーク・デュオの限界となって解散。この後、チャーリーはセル・ヒラン結成となるわけです。

 

 このバンドは、これもスピネッタとパターンが似てるんですが、プログレのみならず、ジャズ/フュージョン系の影響が強いバンドですね。ギターには、アルゼンチン最初のブルーズ・ハードロック・バンド、パッポズ・ブルースのギタリストで同国で最高の腕前と称されたダヴィド・レヴォーン、ベースにはのちにアメリカのジャズの大物パット・メシーニ(メセニーとはあえて呼びません)とも共演したぺドロ・アズナール、ドラムにも元パッポズ・ブルースのオスカル・モロの4人組。当時、アルゼンチンで最高の職人バンドとみなされ、尊敬を集めていました。

 

 ただ、そういうバンドではあるんですが、元がフォークシンガーのチャーリーにかかると、これが美メロ主体のバンドに変わるから不思議です。しかも彼の場合、この系のアーティストにありがちなAORよりはさらにヨーロッパ系の趣味が強く、一見西海岸を思わせつつもどこか哀愁のあるウェットなメロディ書くんですよね。これ、見事です。今回紹介するセカンド・アルバムが中でも秀逸なんですが、そこに収録の「Viernes 3AM」は幾多のカバーもある名バラードで、ライバルのスピネッタをして、「自分が書けなくて最高に悔しい。いや、あの曲だったらレノン&マッカートニーだって悔しがったはずだ」とまで言い切った曲です。

 

 チャーリーはこのバンドが解散した81年以降はソロで活躍。むしろ、そこからの方がアルゼンチン・ロック史上の名盤と呼ばれる作品が多いですね。ソロでは70sまでに培ったフォークやプログレ、AORのセンスをニュー・ウェイヴのサウンドの中で試していて、相変わらずの美メロ・メイカーぶりを発揮しています。

 

 そんな彼ですが、2002年に出したカバー集で、その源タネ明かしをしています。そこで選ばれたアーティストはトッド・ラングレンや10CC。はい。どういうセンスなのかは、これでわかった方もいらっしゃると思います。

 

 

Solid State Survivor/YMO(1979 Japan)

 

 

 

そして今回のシメは日本です。YMOことイエロー・マジック・オーケストラです。

 

 もう、あえて説明の必要ないかもしれませんが、彼らは元はっぴいえんどの細野晴臣が、東京芸大出身のセッション・ミュージシャンだった坂本龍一、そして元サディスティック・ミカ・バンドでドラマーだった高橋幸宏と組んだテクノ・ポップ・ユニットですね。

 

 これは僕もこの当時のことを小さかったなりに覚えていますが、1979年のこのアルバムを皮切りにして、80s前半までに彼らが巻き起こしたセンセーションほど、日本におけるクールな音楽カルチャーが引き起こした逆転現象はなかったように思います。だって、これまで一般に本当になじみのなかったシンセサイザーという楽器で、しかもほとんどがインストという状況から、出すアルバムを次々のチャートの1、2位に押し上げ他だけじゃなく、音楽界全体の音の傾向は変わるは、ファッション・センスも変わったし、コラボレーションを通じてお笑いや広告のコピーのセンスまで変わりましたからね。しかも、大衆への迎合がほとんど見うけられない状態のまま、この快進撃が起こったわけでしょ。その後の日本の音楽界を考えても、ここまでのことは起こってないですね。

 

 そして彼らは日本国内だけで凄かったわけではありません。1979〜80年にはワールドツアーも敢行して、イギリスでシングル、アメリカでアルバムをそれぞれチャートインさせることにも成功しています。とりわけ、この当時はまだ、アメリカやイギリスでもシンセポップのアーティストはせいぜいクラフトワーク、ディーヴォ、それからウルトラヴォックスにゲイリー・ニューマンといったパンクからの転向組がいた程度です。彼らと同じような「その道の先駆者」として、YMOはこの当時、多くのイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドたちから「影響元の一つ」としてインタビューなどで名前が挙がっていたものです。

 

その後、彼らは、この当時としては異例なまでにミニマリズムを多用し難解に解釈された「BGM」や「テクノデリック」といった、のちのエレクトロの時代を先取った感覚を示した後、83年にはポップなヴォーカルものにトライした後、これも社会現象的な言葉になりました「散開」で6年という短い長さでの活動を終えました。

 

 YMOはエレクトロの世界では絶えず再評価され続けていますが、近年では、特にアメリカのインディで、細野氏のはっぴいえんどからYMOに至るまでの間のソロ作がかなり評価され始めてもいます。

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 13:12
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