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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第3回 1970-1972

どうも。

 

 

では、「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、行きましょう。今回はこんな感じです。

 

 

時代的には、1970年から72年にかけて。英語圏的にもロックの発展期にあたります。激動の60年代末を経た後、非英語圏のロックはどうなったのでしょうか。まずは、これから行きましょう。

 

 

Cambodian Rocks/Various Artists(Early 1970s Cambodia)

 

 

 最初はこの「Cambodian Rocks」。文字通り、カンボジアでのロックシーンを追ったものですが、極めて悲しいものです。

 

 当時、ベトナム戦争のあった影響で、米兵や米軍放送などから持ち込まれたんでしょうね。ロックが東南アジアに入ってきます。この時期、これらの国では無数のバンドが、それが産業として大きくなったか否かは別として、サイケやソウルの影響を受けたロックの音源をこの時期に多く残しています。それは現在もコンピの類で聞くことができ、youtubeでも検索にかければ出てきますが、その中で最も大きく有名なのが、1996年に編纂された、このカンボジアのものです。

 

 これを聞いたらわかるのですが、歌い方などはいかにもあの当時のアジアっぽい、頭のてっぺんから歌ったようなすごく甲高い女性ヴォーカルのものが多く、そこに強いローカル性も感じさせはするのですが、ギターにかかった深いファズや16ビートのリズムのキレはかなり良く、かなり充実したシーンが存在していたことがわかります。収録時期は60sから70sの前半とされ、パン・ロン、ロス・セレイソセア、シン・シサマウスといった、いわゆるシンガーの曲が多いのですが、中にはヨル・アウラロングといって、エレキゴターでサウンド・メイキングをしていた、このシーンの仕掛け人のような人も存在していました。これが可能だった理由には、この当時のカンボジアがまだ農業輸出国として、ある程度経済的に潤っていたことが大きかったようです。

 

 しかし、1975年、舞踏左翼派の、ポル・ポト率いるクメール・ルージュと呼ばれる勢力が政権につくと、「完全なる共産主義を実施する」との名目のもと、資本主義の国の影響を受けたものを極度に敵視し、虐殺まで実施しました。悲しいことに、このアルバムに収録されているアーティストも1975年から79年の間には処刑されて命を落としているようです。

 

 そのあと、20年を経て、音源もまばらになり、関係者もよくわからなくなっていた状態で、このコンピは出されたみたいですけどね。ただ、その悲劇性とともにかなり話題になり、

 

 

2015年にはこれの映像版とでもいうべきドキュメンタリー映画「Don't Think I'm Forgotten」も発表されています。ロックのみならず、世界史的に重要な作品群だと思います。

 

 

Histoire De Melody Nelson/Serge Gainsbourg(1971 France)

 

 

続いてはフランスに戻りましょう。非常に重要な人ですね。セルジュ・ゲンズブール。僕も大好きです。

 

多岐にわたる活躍で知られるゲンズブールですが、元はと言えば50年代に「ジャズの新星」としてデビューし、その時点でもかなりの評価を得ていた人ですが、60s初頭にフランス・ギャルなどのフレンチ・ポップスに曲提供する作曲家としても知られますが、脂が乗り始めるのは、彼がロックやソウルに傾倒し始めた60s後半から。まずは当時付き合っていたフランスのファム・ファタール女優ブリジット・バルドーとの共作アルバム。そして、そのあと、1969年にはのちの妻、ジェーン・バーキンとのデュエット「Je Táime...Moi Non Plus」が、そのセンセーショナルな官能性も手伝って、本国フランスのみならずイギリスでもシングルでナンバーワンを記録。ヨーロッパ中で大ヒットしたことで、一躍世界的存在となります。

 

 で、その「ジュテーム」の次作として発表されたのが、最高傑作の誉れ高い「メロディ・ネルソンの物語」。これも、中年男性が少女と恋に落ちる、内容的にはかなりきわどいロマンス悲劇なんですが、この作品の場合、後年に影響を与え続けているのが、ゲンズブールの作った「トラック」ですね。このアルバムのビートはファンクに影響されたものなんですが、リズムの芯の部分だけでグルーヴ作ってるんですよね。スネアとキックだけで。この頃にすでに、ヒップホップ的なリズムのループを使っていることにまず驚きますが、そこにプロの編曲家らしいストリングスを上乗せして、さらにファズのかかったサイケなギターをかける。今聞いてもサンプリングにはバリバリに使えるし、実際、ベックも「Sea Change」という、彼の歌ものでの最高傑作でサンプリングしてますね。

 

 ゲンズブールはこの後も意欲作を出し続け、レゲエやニュー・ウェイヴ、R&Bの要素などを見せながら91年に心筋梗塞で亡くなるまでトップ・アーティストであり続けました。

 

Mediterraneo/Joan Manuel Serrat(1971 Spain)

 

 

 続いてはスペイン行きましょう。フォークシンガーのジョアン・マヌエル・セラットです。

 

 この頃になると、ビートルズが世界中にロックを広めたのと同様に、ボブ・ディランも全世界にフォークシンガーを広めているのですが、スペインの代表がこのジョアンです。1960年代の後半から現れて、スペインのフォークの神様になっています。

 

 彼の歌が愛される理由となっているのが、彼がバルセロナのシンガーということですね。やはり近年でもバルセロナを含むカタルーニャ州の独立運動が話題になっていましたが、この地方は昔からスペイン国内で差別と貧困で虐げられているイメージで、その立場で歌われる彼の歌というのがひときわ共感を集める理由にもなっているようです。

 

 これはそんな彼が1971に発表した、彼の最高傑作というだけでなく、スペイン国内のオールタイム・アルバム企画で必ず1位を争うことで知られる名盤です。タイトルの意味は「地中海」なんですが、カタルーニャを含む、その周辺に住む人たちの実情やアイデンティティを記した1作となっています。そして、この当時のフォークやロックはストリングス・アレンジが非常に重要な仕事を果たす場合が少なくないんですが、ここではアントニ・ロス・マバーという人の施したエモーショナルでゴージャスなストリングスが絶妙なケミストリーを産んでいます。

 

 また、ジョアンはメロディメイカーとして秀逸でして

 

 

「イージーリスニングの王様」として日本でも一家に一枚の時代があったポール・モーリアの人気曲に「エーゲ海の真珠」という曲があるんですが、実はその元曲を作った人こそジョアンで、彼の「Penelope」という60sのヒット曲が元になっています。

 

 

Kazemachi Roman/Happyend(1971 Japan)

 

 

 

続いては日本です。いよいよ、はっぴいえんどの登場です。

 

まず、はじめに断っておきますが、何も、はっぴいえんどが日本のロックを始めたわけではありません。それ以前にロカビリーもGSもあるわけですから。ただ、彼らが日本のロックに対し、一つの大きなアイデンティティを作り上げたことは間違いないと思います。

 

 彼らが登場した1970年代初頭の日本の音楽界はこうでした。若者たちはベトナム戦争と日米安全保障条約の更新に強い抵抗を示したこと、多くの大学で学園紛争が勃発したことで反体制の色が強くなっていました。その時代に支持された音楽はフォークで、その支持者たちは、芸能界主導でアイドル的な売り方をしていたGSを目の敵にしました。一方、GSの側は、そのなかの実力派たちが今度は国際進出を目指すべく、サイケやハードロック、プログレなどに傾倒するテクニカルなバンドが増えます。

 

 そんな中、はっぴいえんどは、フォーク派が強く支持した、日本で最初のインディ・レーベルの一つ、URC(アングラ・レコード・クラブ)からデビューしますが、彼らの存在は最初から異端でした。まずは音楽性ですね。彼らが手本としたのは、バッファロー・スプリングフィールドやモービー・グレイプといった、この当時、国際的にも知る人ぞ知る、アメリカ西海岸のバンドでした。これは、中心人物の大滝詠一が「ビートルズなどイギリスのバンドはアメリカのバンドを手本にしてオリジナリティを獲得したのだから、アメリカ以外の国のバンドはアメリカのバンドを手本にすべきだ」という発想から生まれたようなんですが、まずこの発想が世界でもかなり珍しいです。なぜなら、この時期、世界の他のバンドはハードロックやプログレ、グラムなどのイギリスのロックを手本にすることがほとんどで、アメリカのバンドを参考にする例が少なかったから。実際、このリストでも、とりわけ70s以降はそういうバンドはほとんど出てきません。ましてや、このセカンド・アルバム「風街ろまん」のようにカントリー・ロックにまで接近した例もほとんど聞きません。

 

 そして、もう一点が、松本隆の描く、日本の都市風景ですね。これまでの「惚れた腫れた」の恋物語が一般的だった歌の詞の世界に、絵的な想像を膨らませる私小説的風に展開される。「高度経済成長を経て豊かになった、(その当時の)これからの日本に生きる若者のリアリティ」とでもいうんでしょうかね。それはとりわけ、「全共闘の世代」の後の時代の日本の音楽シーンを予見していたような感覚も感じられます。

 

 後はやはり、「ビートルズ的な、バンド内民主主義」。これも特筆すべきことだと思います。大瀧詠一と細野晴臣の双頭がソングライティングとフロントを2分し、そこにやや歳の下のギタリストの鈴木茂が時折割って入り、ドラムの松本が詞を担当する。リンゴ・スターなんて詞を書いたわけじゃないから、ある意味、はっぴいえんどの方がすごいですよ(笑)。こう言う構成のバンドは世界的に珍しいし、日本でもこの後、ちょっとないですね。

 

 ただ、そのあまりに早い才能が彼らが存在した時代に大衆的に受けいられることはなく、その先駆性は、73年の解散後、メンバー各自のソロ活動での成功とともに徐々に浸透することになり、解散時に生まれてもいなかったような若者たちから発見、理解され、継承されていくことにもなります。

 

 

Construcao/Chico Buarque(1971 Brazil)

 

 

続いてブラジルにいきましょう。シコ・ブアルキです。

 

この人も前回の「トロピカリア」で紹介したカエターノ・ヴェローゾと並んで、この時期のブラジルの反抗の闘士です。この時期のブラジルは、「南米のキューバ化を避ける」ことを目的化した右翼軍事政権の時代でしたが、その圧政に反旗を翻した存在にこのシコもいました。彼も60年代後半からテレビのソング・コンテスト番組「ムジカ・ポプラール・ブラジレイロ(MPB)」でのプロテスト・ソングで有名となりましたが、軍から目をつけられ、結局、カエターノはロンドンに、シコはイタリアに一時亡命することになります。

 

 このアルバムは彼がイタリアから帰ってきてすぐに発表したアルバムですが、見事なフォーク・アルバムとなっています。「トロピカリア」のところでも述べたストリングス・アレンジャーのホジェリオ・ドゥプラの鮮やかでゴージャスなストリングス・アレンジが、シコのスリリングな楽曲と相まって、独特の緊張感を生み出しています。彼の場合はカエターノと比べると、かなり伝統的なサンバ色の強い楽曲が通常は目立つ人なんですけど、ここでの彼はどっちかというとニック・ドレイクあたりにも通じるバロック・ポップとして十分に通用する、ロック・ファンにもかなり聴きやすい一昨となっています。

 

 ただ、シコを語る場合に重要なのは、その作詞家としての才能です。これはちょっと専門的すぎて語るのが難しいのですが、彼はポルトガル語による掛言葉の多用の名人でして、ちょっとした歌詞の中に巧みに軍事政権への批判を織り交ぜるんですが、それが軍の検閲の目をかいくぐって、気がついてみればそれが70年代のブラジル国民にとっての反抗のアンセムにもなっていました。こうしたセンスは彼の出自によるところが大きいです。彼はおじさんがブラジルで最も流通している国語辞書を編纂した著名な国文学者。そして彼のお父さんも大学教授。この当時のブラジルとしては極めて珍しい、超高等教育を受けたお坊ちゃんでもあったわけです。

 

 シコは70代を迎えた現在でも精力的に活動していて、2017年にも最新作が出ています。

 

 

Blues/Breakout(1971 Poland)

 

 

 続いては東欧に飛びます。ポーランドです。

 

 東欧でソ連に対して反抗的だった国にハンガリーとチェコがあったことは前回お話ししましたが、3番目の国がポーランドで、この国もソ連のやり方とは異なる社会作りを求めていまして、若者文化には寛容だったようですね。そもそも映画でロマン・ポランスキーを60年代に生んでいるような国です。普通のはずがありません(笑)。

 

 この国にも60年代からブリティッシュ・ビートの影響を受けたバンドのシ−ンはあって、それなりに充実していたようですが、僕が聞いててグッと来たのが70sのこのバンド、ブレイクアウトですね。このバンドは1969年にデビューをしていまして、これが3枚目のアルバムとなりますが、タイトルがそのまんま示す通り、ブルース・ロックのアルバムです。

 

 全体的にゆるい感じのブルース・ナンバーが続く作品で、もしかしたらブルース・ロックそのものを聴き慣れた耳にはそれほど衝撃はないかもしれません。ただ、60年代後半当時、ロンドンの若者でさえ、「そんなアメリカの古いフルースをキミたちはどうやって学んだのか?」と言われていたものなのに、ましてやポーランドに住んでいて、なぜ、国の外からのブルース・ロックをそんなプロフェッショナルに吸収することが可能だったのか。そのことにとにかく驚かされます。東欧圏でも比較的自由な国はあったとはいえ、「鉄のカーテン」が敷かれ、それ以外の社会には謎に映っていたこの東欧圏でここまでのロック文化が発展していた事実に改めて驚かされます。

 

 ポーランドのwikiによりますと、彼らのアルバムは1969年の1stから73年発表の6枚目のアルバムまで、第4作目を除く5枚のアルバムが、現地で最も影響力のあるとされている音楽メディアの再発盤レヴューで5つ星の評価をえています。いかにこの国にとって大きな存在だったかが、それだけでもうかがえますね。

 

Smog/Los Dug Dug’s(1971 Mexico)

 

 

 続いてはメキシコに行きましょう。紹介するのはロス・ドゥグ・ドゥグズです。

 

 1960年代後半が世界各地で学生運動の嵐が吹き荒れたことはここでも多く語っていますが、それはメキシコでも同様でした。1968年10月、ちょうどメキシコ・オリンピックが始まる直前に、「トラテロルコ事件」が起きます。これは首都メキシコ・シティの広場で学生と労働者たちが集会を開いていた時に警察が入り込み、学生たちを大量殺戮してしまったんですね。これでオリンピックそのものの警戒もかなり強くなったという話を聞きます。

 

 これを持って、メキシコにおけるカウンター・カルチャーは盛んになっていきまして、それは「ラ・オンダ」という名で、映画や文学にも渡って展開されますが、その一つとしてロックにも白羽の矢が立つわけです。第1回目で紹介したように、メキシコではロカビリーの時代にバンドブームがあったのですが、どういうわけだかビートルズの時代にはその文化が不毛になっていました。しかし、この国内での学生たちによる動乱により、再びロック・カルチャーに火がついた、というわけです。

 

 やはり時代が時代だけに、この時代のメキシコのロックはかなりサイケデリックかつハードです。直接メキシコではなかったものの、サンフランシスコのメキシコ移民のカルロス・サンタナのサンタナが成功したことが勇気を与えます。代表的なバンドにはレヴォルシオン・デ・エミリアーノ・サパタ、スリー・ソウルズ・イン・マイ・マインドと言ったバンドが出ますが、それと同時期にこのドゥグドゥグズも出るわけです。

 

 このドゥグドゥグズ、このジャケ写のコミューンのヒッピーそのまんまの姿がかなり強烈ですが、サウンドの方もレッド・ツェペリンのギター・リフに、ジェスロ・タルの不穏な響きのジャズ・フルートを重ね合わせた、かなり混沌としたドロドロの世界観を提示してくれます。この当時の人気ではスリー・ソウルズやサパタほどではなかったものの、放つ空気の不気味さ、異様さのインパクトではこちらの方が上回っていて、そのためか、「メキシカン・ロックの名盤」みたいな企画でも、このアルバムの方がむしろ目立つことが今日では多いですね。

 

 この時代、メキシコでのヒッピー・ムーヴメントは71年9月、「メキシコのウッドストック」とも呼ばれた2日間フェス、ルエダス・デ・アヴァーンダロ・フェスティバルで頂点に達します。

 

 

 これはこのような形で映像記録としても残されていて、ドゥグドゥグズやスリー・ソウルズなども出演しています。

 

 このように隆盛を見せたメキシコのカウンター・カルチャーですが、他の国のヒッピー文化の衰退とともに下降していき、75年に政府が行った「ロック禁止令」とともに、この国のロックはしばらく不遇の時代も迎えます。

 

 

Clube Da Esquina/Milton Nascimento & Lo Borges(1972 Brazil)

 

 

続いても、もう一つブラジル行きましょう。今度はミルトン・ナシメント。

 

サイケデリック・ロックの影響を受けた後のブラジルの音楽のことを、前述したカエターノやシコがプロテスト・ソングを披露した音楽番組にもちなんでMPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイロ)と呼ぶのですが、ミルトンもそのMPBの代表的なアーティスト。デビューも彼らと同じく60s後半です。

 

 ただ、政府と真正面から戦ったカエターノやシコと違ってミルトンの場合は、彼の地元、ブラジル第3の都市(1はサンパロで2はリオ)ベロ・オリゾンチで、気の合う職人肌のミュージシャンたちとハイ・ブリッドなポップ・ミュージックを作っていました。それを彼らは「街角のクラブ」という意味を込めてで「クルービ・ダ・エスキーナ」と呼びました。名義がロー・ボルジェスとの共演という形になっているのは彼がフロントになる曲を分け合っているからですけど、バックを含めての仲間意識がここでは強いです。その意味で、すごく地元レペゼン色が強いです。

 

 そのサウンドですが、これは「ブラジル版のスティーリー・ダン」まで言うと大げさかもしれませんが、ソウル・ミュージックと当時のウェスト・コースト・ロックに近い感覚のことをやっています。ある意味、日本のシティ・ポップの感覚に近く、そういうこともあって日本人リスナーの方には聴きやすい感じはします。事実、このアルバムの後くらいにミルトンは国際デビューもしていますが、AORやフュージョンの畑で彼は人気高いですからね。

 

 それから、ミルトンの鼻から抜けるような、清涼感あふれる独特の歌い方は「ザ・ヴォイス」とまで呼ばれ、それはジェイムス・テイラーやポール・サイモン、さらにはなんとデュラン・デュランのアルバムでまで聞くことができます。それくらい国際的に引っ張りだこでした。あと、近年でも、デヴィッド・ボウイの遺作「ブラックスター」に収録されている「Sue」という曲が、このアルバムに入っている「Cais」という曲のパクリ疑惑があったり(実際、かなり似ています)、アークティック・モンキーズが2018年の新作を出すにあたり、ミルトンではなく、ここでの相方のロー・ボルジェスを「今回のアルバムを作る際のインスピレーションになった」と呼ぶほど、現在の音楽にも国際的に影響を与え続けています。ミルトンもローも、現在も活動中です。

 

 

La Poblacion/Victor Jara(1972 Chile)

 

 

 続いても南米でチリに行きましょう。紹介するのはフォーク・シンガーのヴィクトル・ハラです。

 

 チリという国は、南米版のフォーク・ミュージックに当たる「フォルクローレ」の中心の地域です。この音楽も他の国同様、貧しく苦しい生活を送っている人の気持ちを代弁し、世に物申した歌が人々の共感を得ていました。

 

 その代表的存在となった人がヴィオレタ・パラという女性シンガーで、彼女の起こした「ヌエヴァ・カンシオン(新しい歌)」というムーヴメントに、劇作家でもあったヴィクトルも参加します。このムーヴメントの人たちはチリの共産党に入党して歌いますが、これには伏線がありました。南米の場合、これは現在まで続くことですが、貧富格差が社会上の市場システムとしてなくなりにくい性質を持っていました。だから、「社会主義」というシステムが望まれやすい状態にありました。そして、1970年、国民が選挙で選ぶという、歴史上初の出来事で、チリで社会主義政権が誕生しました。

 

 このアルバムは1972年にリリースされた彼にとっての通算7枚目のアルバムです。これはチリの虐げられた労働者に捧げられたコンセプト・アルバムで、彼らがやがて立ち上がるようになるまでを描いた作品です。サウンドの方も、これまではどちらかというと「ロック」というカテゴリーでは紹介しにくいほど民族色が濃くはあったのですが、このアルバムではアメリカやヨーロッパでのフォーク・ロックやバロック・ポップなどの影響も受け、ロックファンにもかなりアピールしやすいようになっています。全体の作品のトーンとしては、かなり前向きなエネルギーな触れた、明るい社会の到来を願った感じになっています。

 

 しかし、これがリリースされた翌73年9月。アジェンデ大統領の社会主義改革路線に軍がクーデターを起こします。軍は社会主義者を大量に逮捕し、さらには処刑までしますが、その中にヴィクトルも含まれました。伝説によると、サッカー・スタジアムに収容されたヴィクトルは、ギターを持ってプロテスト・ソングを歌おうとしたところ、両手から先に撃たれて殺された・・との事ですが、「いくらなんでもそれは話が美しすぎる」としてのちに否定もされています。ただ、そう人々がそう崇めたいくらいに彼はヒーローだった、という事です。また、この粛清にはノーベル賞詩人だったパブロ・ネルーダまで含まれています。

 

 クーデターを起こした将軍でのちの独裁大統領ピノチェ(日本ではピノチェトと呼ばれていますが原音通りに)は、このクーデターや粛清で3000人ほどの死者、10万人の人権侵害者、100万人の亡命者が出たと言われ、その圧政ぶりはクラッシュやスティングの歌の題材にもされています。

 

 ピノチェの政権は1990年に終了して、チリは民主国家に戻っています。ヴィクトルが殺害されたスタジアムは、今は「ヴィクトル・ハラ・スタジアム」という正式名称になり、改めて国葬もされています。

 

 

Per Un Amico/Premiata Forneria Marconi(1972 Italy)

 

 

今回の最後はイタリアで締めましょう。プログレ・バンドのプレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、略してPFMです。

 

 以前、「イタリアやフランスといった国は、トルバドール(吟遊詩人)の文化があってソロシンガーが好まれる傾向がある」と書きました。それがゆえに、ビートルズ・タイプのバンドが流行らなかったことも確かです。ただ、そんな、とりわけイタリアにとっては、プログレこそが「バンドへの扉」となりました。

 

 なぜか。それはプログレがクラシックの要素を取り入れた音楽だから。ロック・ミュージックに関して言えば、当初諸外国は、「アメリカからの音楽」「黒人のリズム&ブルースが元になった音楽」という概念がとりわけヨーロッパでは強く、それがゆえに好奇心を持ってあえて取り組む人がいる反面、「ヨーロッパの白人である自分にはルーツがない」と躊躇する人もいました。ところが、オーケストラとの共演やクラシックの要素を大胆に取り入れるプログレが出てきたことで、「これだったら自分でもできる」とロックに参入した白人が増えたことも事実です。日本でプログレが流行ったのも、ピアノやエレクトーンを習っていた子女が入りやすかった、という事情が実際にあるから、これは民族ルーツ的に避けられないことだったのかもしれません。

 

 ということもあり、まさにクラシックとオペラの国であるイタリアではプログレが大人気。1970年前後に数多くのバンドがロックシーンの顔となっていきます。それを築き上げたバンドはアリア、ル・オルメ、そしてPFMでした。

 

 フロントマンのフランコ・ムッシーダと多彩な楽器を操るマウウロ・パガーニ、そして重層的で展開力溢れたシンセサイザーを奏でるフラヴィオ・プレモーリを主体としたこの五人は1972年にデビューするとたちまち高い注目を集めます。その評判はちょうどイタリアをツアー中だった、当時、飛ぶ鳥落とす人気だったエマーソン・レイク&パーマーにも注目されます。EL&Pは彼らを自分のレーベル、マンティコアに迎え入れ、イタリア本国で72年11月に発売されていたこのセカンド・アルバム「Per Um Amico」の改作を、よくね73年に世界リリースします。これは彼らのような非英語圏のバンドにとっては願ってもいないことでした。その結果、彼らは国外のファンにも知られることになりました。

 

 

 ただ、その売り出し方は、今日の基準で考えて問題がないわけではありませんでした。このアルバムを編集し直して出されたアルバム「幻の映像(Photo Of Ghost)」は1stから1曲、2ndから5曲の編集で、曲順もバラバラ、さらにオリジナルとは全く違う英語詞で歌われることになりました。今の世の中だと、そのままセカンドを出せばそれで済む話だったんですけど、この当時の国際戦略では「英語で歌わないと不利になる」という思い込みが強かった、ということなんでしょうね。結局、マンティコアからは1977年までアルバムを発表。途中で英語で歌うのが上手いヴォーカリストも加入はしましたが、微妙に何かが失われたことと、国際的にプログレが衰退したことで目立たない存在となりました。

 

 現在、オリジナル・メンバーで残っているのはドラマーだけで、あとは2代目ベーシストが在籍しているようですが、その他は変わっています。ただ、彼らは現在も活動を続けていて元気に世界ツアーもやっています。

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 11:00
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