- 「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第2回 1967-1969
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2018.06.19 Tuesday
どうも。
では「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、2回目行きましょう。今日はこんなラインナップです。
今回は1967年から69年の11枚でいきます。なぜ、ここで11枚にしたかというと、ここで1枚追加が出たからです。この時代は、いわゆる激動のサイケデリックの時代ですが、非英語圏の国では果たしてどうだったのでしょうか。
A Go Go/Dara Puspita(1967 Indonesia)
これはインドネシアが生んだ、世界最初の、というか”世界で初めて語る価値のあるオール・ガールズ・バンド”ですね。ダラ・プスピタです。
インドネシアという国が50年代にティールマン・ブラザーズのようなすごいバンドを生んでいたことは前回語りましたが、その影響もあって、ビートルズの時代の60年代半ばにこの国にもバンドブームがあって、この女の子4人組の彼女たちも出てきたのです。
彼女たち、実力もかなりのものがありました。1965年に登場した時のイメージを見てみると、どことなくインドネシアの民族音楽をロックにしたような感じも伺えたんですけど、この4枚目にあたるアルバムは、ソウル・ミュージックの影響を受けたかなりグルーヴィーなもの。ベースラインのスピード感が優れていて、かなり踊れるロックンロール・アルバムになっています。ベーシストはフロントウーマンの妹さんなんですけど、姉妹でやっているようにバンド内コンビネーションも良かったようです。このように、演奏テクニック的にもかなりのものがあった彼女たちは、本国インドネシアでは2万人入るアリーナでもライブをやり、ヨーロッパにも度々ツアーに行き、1974年までと、かなり長い活動を行うことができました。
彼女たちはガレージ・ロックのコンピなどを通じて国際的にガレージ・マニアには有名なバンドで、本国インドネシアでもカルトバンドとして今日まで愛されています。近年ではドキュメンタリーも制作されていますし、
このように、インドネシア版のローリング・ストーンでは2015年の号で表紙になって特集もされています。彼女たちは、公式のfacebookも持っていて、そこで見る限り、まだメンバーは個人的な演奏活動はやっていて、再結成の意欲もあるようです。みんな70前後くらいですけど、今現在の見た目も若いですよ。
Ezek A Fiatalok/Soundtrack(1967 Hungary)
続いてはこちら。実はこれが、最後に足した「101枚目のアルバム」でした。だから、ここで11枚にしてあるのです。
これは「Ezek A Fiatalok(多分、「エゼク・ア・フィアタロク」、意味は、「この若者たち」らしい)という、区分で言うと、映画のサントラです。ただ、映画といっても記録映画に近いものだと思います。これは、この当時のハンガリーのロックシーンを記録したものだそうで、当時のシーンを支えたバンド、イリェーシュ(Illes)、メトロ(Metro)、オメガ(Omega)の3バンドに、読み方に自信がないんですが、ザラトナイ・シャロルタ(Zalatnay Sarolta)、コンツ・ジュージャ(Koncz Zsuzsa)という女性シンガーが集まった、この当時の同国の最強のポップ・カルチャーの顔が集まったものとなっています。当時の共産圏で、このようなオムニバスがこんな形で出ていたことがまずかなり貴重です。
なぜ、こうしたことが可能だったのか。それはハンガリーという国の文化背景にあります。ハンガリーは戦後にソ連の影響下で共産主義の国となるわけですが、1956年に「ハンガリー暴動」という、ソ連の支配に対しての民衆の反抗運動が起こっているんですよね。こうした事実からも、当時の東奥の共産圏の国では最も反抗的な体質だったことがうかがわれます。ロックが若者の自由の象徴だったんでしょうね。
ここに参加したバンドたちはソ連に目をつけられて活動休止を余儀なくされたものもあります。ただ、その残党でロコモーティヴGTという、この国で伝説化した大物ロックバンドを結成したり、さらに女性シンガーのシャロルタやジュージャ(ハンガリーは日本同様、名字が先なので名前はこっちです)は、これ以降も現在に至るまで、この国でかなりのリスペクトを浴び続けるアーティストになっています。
彼らのその後に関してもyoutubeには映像がバンバン上がっていますので、気になる方は見てください。
Em Ritmo De Aventura/Roberto Carlos (1967 Brazil)
続いては南米行きましょう。ブラジルのスーパースターです。ロベルト・カルロス。
前回、「全世界にエルヴィス・フォロワーがいる」という話をしましたが、彼が「南米のエルヴィス」にあたる人で、1960年代の初頭から活躍してきました。イタリアやフランスが、「ビートルズやストーンズの時代になってもバンドが流行らずに、アイドルがギター・ロックまでカバーしていた」という話を前回しましたが、ブラジルもまさにそうで、そういう時代が60年代後半まで続きます。
ロベルト・カルロスは当時の最大のアイドルで、同じような「ロック世代のアイドル」たちとともに「ジョーヴェン・グアルダ」というテレビ番組に出演し、これがこの当時のブラジルの少年少女たちにとって不可欠なものとなります。ロベルトと、後に本格的なロッカーで成功するエラズモ・カルロス、女性アイドルのヴァンデルレアの3人がとりわけ番組の顔でした。
そして、ビートルズの時代までのアイドルの常として「主演映画」の存在があるのですが、ロベルトの最高傑作として一般評価が最も高いのが1967年発表の同名映画のこのサントラ。ノリとしては「ハード・デイズ・ナイト」の「忙殺される人気者」を描いた感じですが、サウンドの方は67年という時代よりは少し前の、どことなくマージービートな感じで、ソウルっぽいリズムが混ざり始めている感じですね。ただそれはそれで完成度は高く、ロベルトの甘い声も相乗効果をなし、この時代のブラジルのロックの名盤として恥ずかしくないものはできています。
ロベルトは70年代に入りバラード路線に転じ、以後、70歳を超えた現在まで活躍中です。カテゴリーは現在もアイドルで、長めのサラサラの髪に、ブルーのジャケットに、シャツはノー・タイで第2ボタンまで開き、マイクを持たない手にはバラの花を持っている、そんなおじいさんになっています(笑)。だけど、未だに人気すごいんだ、これが。年末に毎年テレビで彼のクリスマス特番があるんですが、40年以上、毎年高視聴率で終わりそうにありません。クリフ・リチャード、チェレンターノ、ジョニー・アリデイ、そしてロベルト。エルヴィス・フォロワーは屈強な人が多いようです。
Hljomar/Hljomar(1967 Iceland)
続いては一転して北に飛びます。アイスランドでヒョルマー。
「アイスランドという国には、きっと充実したロックの伝統があるはずだ」。それはビヨークやシガーロスが話題になった頃から思っていました。だって、何も土壌もないところから、あんな30万人くらいの人口の国からあんなにたくさん趣味の良いアーティストが次々と出てくるはずがないと思っていたから。そうしたら、ちゃんと調べたらあるんです。しかも60年代から。
このヒョルマー、ブリティッシュ・ビートの影響を受けたバンドなんですが、初期はソーズ・ハンマーと名乗って(マイティ・ソーのハンマー。このネーミング自体がいかにも北欧)、イギリスでデビューしようとしてデモ盤を作っていました。これ、すごいガレージロック的で カッコよく、ガレージの名もコンビ、「ナゲッツ」にも入っていて、僕はそれで知りました。
そしてヒョルマーに名前変えてアイスランドで活動して彼らは国内でカリスマになったんですけど、この名義だとフォーク・ロック〜サイケですね。北欧っぽい湿っぽいメロディ感覚が強いですが、1966年くらいの国際的フィーリングがしっかりと受け止められます。その中の1曲に
この、タイトルの読めない曲が彼らの代表曲なんですが、実はこれがのちに
1981年に、ディスコ・アレンジでカバーされ、なんと日本の洋楽マーケットでヒットしています。曲名は「ユー&アイ」でアーティスト名もユー&アイというので、あの当時ちょっとした話題でした。これを覚えていたものですから、オリジナル知った時の衝撃はデカかったです。
このヒョロマー、中心人物のグンナル・ソルザルソンは「アイスランドのポール・マッカートニー」とも呼ばれている人で、このバンドの解散後もプログレのバンドを2つくらいやったり、ソロでも活動したりして、かの国ではかなりの大物だったようです。彼の存在が、この国のその後の繁栄を築いたと言って良いのではないでしょうか。
Hip/Steppeulvene(1967 Denmark)
続いてはデンマーク、行きましょう。バンドの名はステッペウルヴェーネ。
この人たちと似たバンド名に、映画「イージー・ライダー」のオープニングで有名な「ワイルドで行こう」のヒットでおなじみのステッペン・ウルフがありますが、意味は同じです。ドイツの文豪、ヘルマン・ヘッセの小説「荒野の狼」の英語題が「ステッペン・ウルフ」でデンマーク語が「ステッペウルヴェーネ」です。
このバンド、何が重要かというと、ドラッグやアルコールのオーヴァードーズという、いわゆる「ロックンロール・デス」を遂げた世界で最初の人物がこのバンドのヴォーカリスト、Eik Skaløe(誰か読める人、教えて下さい)で、彼は1968年10月に命を落としています。
ただ、それもありつつ、やはり音楽性こそが重要です。このバンドの登場するまで、デンマークにはバンドのシーンもあったんですが、それは全て英語によるものだった。しかし彼らが登場したことで、デンマークが母国語でロックを歌い始め、サウンドもブリティッシュ・ビート一辺倒から、ディランやアメリカのフラワー・ムーヴメントの影響が強くなっています。いわば、「イージーライダー」の世界を自ら実践してしまったデンマークのバンドだった、ということでしょう。
そんなEikの一生は
なんと2015年に映画化されています。タイトルも「Steppeulven」。ここで描かれているのは、「ことのきっかけは女の子にモテたかった。それだけのところからビート詩人にもなり、バンドを組み、平和運動も行った・・」みたいな内容でしたね。僕も言葉はわからないながら、ネットで見つけ出して少し見ましたけど。この映画が話題になったこともあり、唯一のアルバム「HIP」は、公開時にデンマークのチャートで4位まで上がる再ヒットも記録しています。
Tropicalia Ou Panis Et Circencis/Various Artists(1968 Brazil)
続いてはまたブラジルで行きましょう。これはオムニバスで、俗に「トロピカリア」と呼ばれているアルバム。もっと言うと、「南米のサージェント・ペパーズ」とさえ呼ばれているものです。
時は1968年。ブラジルが「共産圏化を防ぐため」との名目で右翼軍事政権になった際、政府による言論の自由の抑圧ぶ反対する若者たちが、サイケデリック・ロックとともに反抗を始めます。その中心となったのが、北部の”田舎の”大都市、バイア州サルヴァドールから出てきたカエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジル、そして彼の仲間たちでした。彼らはこの当時ブラジルのテレビで盛んだった、視聴者投票による楽曲コンテスト番組「ムジカ・ポプラール・ブラジレイロ(MPB)」にプロテスト・アンセムを持ち込み、そこで人気をえていきます。
その勢いのまま、カエターノたちはスタジオには入り、名アレンジャー、ホジェリオ・ドゥプラの指揮のもと、テープの逆回転や編集、ストリングスやホーン、ディストーション・ギターを駆使した実験的なポップ・アルバムを作り上げます。そこにはカエターノやジルを始め、ガル・コスタやトン・ゼー、ボサノバ歌手のナラ・レオン、そしてカエターノ自身がバックアップしていたサンパウロのロックバンド、オス・ムタンチスが加わります。
ジャケ写もサージェント・ペパーズを意識したように見えますが
これはむしろ、こちらのパロディです。これは1922年に、当時のブラジルの現代芸術家たちが行った「現代芸術博覧会」の時の写真なんですが、これをモチーフに使ったことでも想像できるように、サイケデリックでありながら、同時にかなりブラジルの固有の感覚も強調された作品です。それはリズムのグルーヴ感を聞けばわかります。
このアルバム、さらにすごいのは、ここに参加したアーティストのいずれもがその後に伝説となり、50年経った今でも現役であり続けていることです。カエターノやジルは未だに音楽界の重鎮的存在で、カエターノに関しては80sに一時的に落ち込んだ以外はずっとハイレベルな作品作り続けてもいますしね。言動に多少問題はある人ですが、またそれは別の機会に(笑)。
The Savage Rose/The Savage Rose(1968 Denmark)
続いて、今度もデンマークのバンド、行きましょう。サヴェージ・ローズです。
「野生のバラ」という意味を持つこのバンド、その名の通り、女性シンガー、アニゼット・コッペル擁するバンドです。この当時、女性がリードシンガーを務めるロックバンドは、ジャニス・ジョプリンのビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーやジェファーソン・エアプレインのグレース・スリックくらいのものでしたが、彼らは明らかにそうしたサンフランシスコのフラワー・ムーヴメントの影響を受けたバンドです。
当時のアニゼットです。見ての通り、黒人の血を受け継いでいます。おそらく、白人とのミクストだと思うんですけどね。ただ、彼女の歌唱法そのものは、ソウルフルというよりは良く伸びる高音を、響かせるだけ響かせるタイプですね。その意味でヨーロッパのロックとは相性が良かったかもしれません。この人たちは分類上、「プログレ」と定義されることが多く、その関係でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。ただ、少なくともこのデビュー・アルバムの時点では、そこまでプログレな感じはないというか、やっぱりフラワー・ムーヴメントっぽいフォークロック、あるいはそこからのサイケデリック・ロックの趣が強いですね。ただ、プログレ流れの関係で、英語圏にもファンが少なくないバンドです。
サヴェージ・ローズですが、現在も現役です。ただ、今はもうバンドというよりは
アニゼットの実質ソロですね。彼女たちは90sにアダルト・コンテンポラリー路線で人気が復活して、今現在は、ブルーズやソウルに傾倒した感じのロックになっています。現在はバンドリーダーだった彼女の夫は亡くなっていて、娘さんがバックアップ・シンガーをやっていますが、現在でも本国ではアルバムがチャートのトップ10に入るくらい人気です。さらに言えば、今回紹介のファースト・アルバムはデンマークの文化省から国宝にまで指定されています。
Tutti Morimmo A Stento/Fabrizio De Andre(1968 Italy)
続いてイタリアに戻りましょう。この国が誇るフォークシンガーです。ファブリツィオ・デ・アンドレ。
イタリアは中世からトルバドゥール(吟遊詩人)と言って、絃楽器弾き語りのシンガーの文化があるためにソロ・シンガーが好まれる風潮があるんですが、それが60s後半にフォークと結びついた結果に台頭したのがファヴリツィオです。
60年代後半は68年5月のフランスの五月革命、69年1月の日本での東大安田講堂事件など、国際的に学生運動の激しい時期でしたが、イタリアでも68年3月から学生運動が全国に拡大し、そこからさらに左翼過激派による抗争が激化。それはやがて労働者にも拡大し、69年には工業地帯の北部の工場が軒並みストライキを行うなど、国が動乱します。
ファヴリツィオはそんな時代の波に乗って支持されていきますが、彼はただ単に歌詞だけで評価されたのではありません。彼はイタリアにおいて、「コンセプト・アルバムを作り上げる名手」として知られていたのです。このアルバムは、そんな彼にとっての最初のコンセプト・アルバムで、名映画音楽家のエンリオ・モリコーネを意識した壮大なストリングスに乗って、「世界最初のプログレ・アルバム」と呼ばれるムーディ・ブルースの「The Days Of The Future Passed」を意識したアルバムを作ってます。そして、これが、イタリアで70s前半に開花するプログレ・ブームの先駆けにもなります。
あと、ファヴリツィオのコンセプトの立て方は文学的でもあります。このアルバムも中世のフランスの詩人の「生と死」をテーマにしたものですが、`1969年にはキリスト教における異端信仰について、71年には20世紀初頭のアメリカの詩人の作品をイタリア社会に置き換えたもの(最高傑作の呼び声高いのがコレ)を、72年には68年の暴動に参加した労働者の人生を、81年にはイタリア原住民とアメリカ原住民の対比を、84年には彼の故郷ジェノヴァと中東世界の関係について歌ったもの(これも傑作の誉れ高し)といった、格式高い文学世界を音楽を通して展開してきました。
その後も精力的な活動を続けましたが、1998年の夏のツアー中に肺がんが発覚。翌年の1月に58歳で亡くなっています。
Ptak Rosomak/Olympic(1969 Czech)
続いて、もう一つ東欧行きましょう。今度はチェコで、その名もオリンピックというバンドです。
「この国も60年代、絶対にロックのシーンがあったはず」。僕はかなり前からそう思っていました。なぜなら、渋谷系クラシックにもなったガーリー映画「ひなぎく」(ヴェラ・ヒティロヴァ監督)が1966年に制作されていたような国です。あと、のちに「カッコーの巣の上で」「アマデウス」でオスカーの監督賞を2度受賞したミロシュ・フォアマンもチェコ・ヌーヴェルヴァーグの監督です。映画でそんなムーヴメントのあった国で、ロックのシーンがないわけない、と思っていました。
ただ、それでも探すのは困難でしたね。それはwikiに「Czech Rock」という項目がなく、言語の関係上、検索の仕方が難しかったから。
しかし、こういうものを見つけて、一気に解決しました。
これは1967年の12月に首都プラハで行われた「ビート・フェスティヴァル」という、チェコで最初のロック・フェスティバルの記録映像です。この動画の解説にあるバンド名を手掛かりに検索を始めましたね。さらに、別の動画では、チェコのロックシーンの世代別のトップ10アーティストの動画、というものも存在します。そういうので検索していった結果、当時トップ人気だったのがオリンピックで、この他にマタドールズ、ブルー・エフェクトというバンドだったり、カレル・クリルというフォークシンガーだったり、政府に目をつけられて共産圏崩壊まで20年活動の停止を余儀なくされたマリア・クビソワという女性シンガーソングライターがいたり、という情報を手に入れました。
その中から、オリンピックのセカンド・アルバムを。68年に出たファーストはまだ初期のブリティッシュ・ビートの趣きだったんですが、たった1年で、西欧のサイケの流れにキャッチアップしてるのが驚きですね。この当時の東欧社会に生きながら、しっかり外に情報のアンテナ張り巡らせて、自分たちの住んでいる世界の矛盾をしっかりと把握していた、その行動自体に頭が下がりますね。
というのも、このチェコ、ハンガリーやポーランドといった国と同様、1956年にスターリンの粛清政治が暴露された際に、ソ連に反旗を翻し、「ソ連が押し付ける形でない、自分たちならではの社会」を望んで叫んでいたところだったんですね。それゆえにこれらの国では、この当時から西欧並みのカウンター・カルチャーが盛んだったわけです。そして68年には「プラハの春」という大きな抗議活動も起こります。これは結果的にソ連の軍事介入によって押しつぶされてしまいます。ただ、東欧間でのソ連への不信は高まり、チェコでのロックも、革新的な方向ではなかったかもしれないけど、続いていくことになります。オリンピックは現在も現役で活動中です。
Monster Movies/Can(1969 Germany)
続いて、ようやくドイツです。アーティストは、今もインディ・ロックやエレクトロ方面に絶大なファンの多いカンです。
ドイツといえば、「ビートルズがハンブルグで修行した」というイメージをお持ちの方もいるので、昔からロックに強いと思われる方もいらっしゃるとは思うのですが、実は全くその逆で、60年代、ドイツではロックは全く盛り上がっていません。なぜかというと、この当時、ドイツの音楽市場では代々伝わるドイツ民謡”シュラーゲル”が圧倒的に強く、ロックが入り込む余地が全くなかったんです。ロカビリーも、アイドルも、ビートバンドも流行った形跡がありません。
そんな状況が一変したのは60年代後半。国の外でロックがサイケデリックを通じてアートに転化したこと、さらに学生運動が世界各地で起こったことで、ドイツの若者の間でも「ロックでアートしよう」という機運が盛り上がります。そして1968年9月にはこの国で最初のロック・フェス、「エッセン・ソングターゲン」が開かれますが、この時に欧米から招聘されたバンドというのがフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンション。この時点で、この先のドイツのロックがどうなるかはやや想像できるところではありました。
そして69年。ドイツの新世代のロックバンドがアルバムを出し始めます。先述のエッセンのフェスに出たアモン・ドゥールやグルグルなどもアルバムを出しますが、先陣を切ったのはカンのこのアルバムでした。このカン、いや、カンに限ったことではないですが、これまでの他の国のロックのそれとは明らかに方向性が異なっていました。他国のロックが、歌の旋律を基調にリズムをつける楽曲作りなのに対し、こちらはあくまでもリズムの反復によって生まれるグルーヴが主体で、しかもその繰り返しが延々と長く、そこに歌の旋律を乗せていくという作り方ですね。いわば歌メロが、ジャズで言うところのアドリブみたいな感じのものになってて、楽曲の中心そのものではなくなっているんですね。
今なら、エレクトロも同じような曲作りをするし、レディオヘッドの「キッドA」以降のアルバムを聴き慣れた耳ならむしろ心地よく聞こえるんですが、ただ、それでも軽く30年くらいは時代を先駆けていたわけで、リアルタイムに近かった人にはかなり実験的に映ったのではないか。そんな風にも思えます。
このカンを筆頭としたドイツの実験的な新しいバンドは、ドイツ料理のお供え野菜として有名なサワー・クラウトにちなんで「クラト・ロック」と呼ばれ、70sの前半から半ばはプログレ・ファン、それ以降はニュー・ウェイヴやオルタナ・ファン、エレクトロのファンに愛されていきます。中でもカンはその中のトップバンドで、少なくとも5枚目の73年の「Future Days」までは何も傑作。とりわけ3〜5枚目にはドイツでヒッピーをやっていた日本人、ダオ鈴木の存在もあり、そこで親近感を覚えられてもいます。
彼らは70年代後半には失速し79年に解散。89年に再結成もしますが、うまくはいきませんでした。しかし、中心人物だったホルガー・シューカイやイヒャエル・カローリ、ヤキ・リーヴェツァイトは長きにわたりマニアの間で強いリスペクトを受け続けていました。
Almendra/Almendra(1969 Argentina)
では、今日の、というか60sのラスト行きましょう。アルゼンチンのバンド、アルメンドラです。
このバンドそのものは短命だったんですが、このバンドの中心人物、ルイス・アルベルト・スピネッタにとっては初のバンド。まだ彼が10代だった頃のバンドです。
このアルバム自体は、60sのアメリカのフォーク〜シンガーソングライター系のサウンドをややハードロックに寄せた感じとでも言おうか。どことなく、ニール・ヤングが加わった際のクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングに似ている印象ですけどね。
ここを皮切りに、アルゼンチン・ロック史が生んだ最大のロックスター、スピネッタのキャリアが始まるわけですが、このスピネッタ、顔からしてかなりの美少年でした。
これは相当モテたろうと思います。
彼はアルメンドラの後に、ペスカード・ラビオーゾ(70s半ば)’、インヴィンシブル(70s後半)、スピネッタ・ジェイド(80s前半)といったバンドを何もも成功させて、その後にソロになりますが、この国最高のロックスターです。2005年には大統領官邸に招待されて90分のショーをやってるくらいに国宝扱いもされてます。
そんな彼ですが、ギタリストとしては、どことなくジェフ・ベックみたいというか、ハードロック志向からジャズ/フュージョンに傾倒する感じですね。なのでアルバムも曲によっては非常に長尺も目立ちますが、そうでありながらもフォークに基軸があるせいで、曲がポップでわかりやすい。そこも人気の秘訣だったんでしょうね。ソロになってからは、アルバムによってはちょっと甘ったるいAOR風のシティ・ポップにもなりがちなんですが、そこにトッド・ラングレン的な実験要素がスパイスのように加わる感じですね。
スピネッタは本人の長きにわたる成功、さらに息子ダンテのユニット、イリャクラキ&ヴァルデラマスが「アルゼンチン版ビースティ・ボーイズ」的な成功も収める充実した一生を送りますが、2012年にガンで62歳で早逝しています。
ちょっと長くなってしまいました。すみません。次回、第3回は木曜か、金曜の予定です。
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