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アメリカで音楽批評文化が定着していないことにガッカリ

どうも。

 

やっと睡眠時間、リカバーして、あとはもう少し遅く眠くならないかを願っているとこです。

 

 

いやあ、それにしても、先日の「ビヨンセVSアデル論争」でハッキリと認識したのは

 

 

アメリカには音楽を批評する文化、ないね

 

 

ということでしたね。

 

 

もちろん、すごくしっかりした批評媒体ならありますよ。僕も、(好きじゃないけど)ピッチフォークは見てるし、コンシークエンス・オブ・サウンド、ステレオガムあたりのサイトのレヴューは読んでるし、ローリング・ストーンとかスピンといった雑誌(あるいは元雑誌)のも読んでいます。

 

 

ああいうメディアのレヴューを読むのに慣れていたら、普通、「なぜ今回のアルバムでいうとビヨンセがアデルよりも内容的に上なのか」というのは、迷いもせずにわかるレベルなんです。

 

 

このことは、3日前のコラムにも書いたことだからあえて長くはくり返したくないんですけど、やっぱりビヨンセの方が今回音楽的な冒険での成果が著しいアルバムでしたからね。同じR&B/ヒップホップの中でもエレクトロからサイケデリック・ロックとの接点のあるものまであったし、ロックやカントリーにさえも接近しました。逆にアデルの方は、前作にあったエッジィな曲が減って聴きやすい曲ばかりが並び、それは「無難で冒険心のないアルバム」とデーモン・アルバーンに批判された内容そのものであったこと。そういう例を出せば、普通、それで終わるとこなんです

 

が!

 

もう、アメリカの音楽ファンの論点がズレまくってるんだな、これが。

 

 

フェイスブックでこの問題に関しての投稿でのコメントでの論争見ても、これ、アデル・ファンの論法でもあるんですけど、「アデルは本物のシンガーだが、ビヨンセはエンターティナーだ」とか、そういう「歌い手としてどうか」の議論だけに集中させようとするんですね。それに対して、主に黒人ですけど、ビヨンセ派がつられて反応してしまい、レイシズム論に持ち込んでしまう。そういうパターンが目立ってましたね。

 

 

あんまりにもこれが続くんで僕も腹立って、「アメリカン・アイドルじゃないんだから、シンガーとしての力量を議論するの、たいがいでやめない?」と投稿して、「いいね」ももらったりもするんですけど、そう投稿したすぐあとも、引き続いて歌唱力の議論ばかりする。「アルバムの議論」だってのに!「なんで曲とか、音楽性とか、アルバムを測る基準になるものには触れないわけ?」と言っても聞く耳もたない。

 

 

まあ、これがなにを物語っているか。つまり

 

 

アルバム、聴いてないってことです(苦笑)!

 

 

アメリカ、というか欧米圏一般ですけど、ラジオへの距離感は日本の数10倍近い。なので、音楽に興味を持つ人の割合も日本よりは高いです。実際問題、最近僕が読んだデータでも、ストリーミングが定着した今でも、「ラジオを聴き続けている」という人が、アメリカ国民の9割くらいいるみたいですからね。

 

 

ただ、そのラジオ生活に慣れてしまっているがためなのか、彼らは「好きな盤を買ってまでして聴く」という人が少ないのも、これまた事実なんですね。今にはじまったことでもないです、これ。一方、日本は、音楽を好きになる人の確率こそやや低めだけれど、言ったん好きになれば熱心に聴き、性格がまじめなもんだから作品もちゃんと買って聴く。だから、いまだにこのご時世にもなって、世界で有数にフィジカルのアルバムを買い続けている。それは、ストリーミングでいろんな音楽をスマホでイヤホン通して聴く方がはるかに効率良いんで考え直してほしいところでもあったりはするんですが、でも、それくらいに日本人はアーティストの「作品」というのを理解しようとする。

 

 

 なので、今回のビヨンセとアデルの論争にしたって、建設的な議論になるのはむしろ日本でしょうね。大体、音楽雑誌の数にしたって、一時期に比べて激減したとはいえ、それでも日本って世界有数の音楽雑誌大国ですからね。それくらい、音楽を語るという行為が好き。「○○の方が歌がうまいから」なんて議論では終わらないはずです。ただ、日本の方が「歌えもしないのに、ルックスがウリになる」という理由だけで歌手デビューするみたいなことへの倫理観が薄い(欧米圏だと今もって非常にアウトな考え方です)し、高校での教育課程の影響か、20世紀の歴史、とりわけ文化史に非常に弱いので、それがだいぶネックになってるところもあります。でも、そこさえ克服すれば、かなりレベルの高い音楽評論、できるはずです。

 

 

 ただ、アメリカの場合、音楽を語りたいタイプのマニアの抑圧があるからなのか、いざ、マニアックな評論させたら天下一品にうまいところがあるのもまた事実です。だからピッチフォークみたいなところも需要があるわけなんですが、今回の一般でのアデル対ビヨンセの不毛な議論の連発を見るに「ああ、ああいうピッチみたいなものに興味を持つのは、アメリカ国民での確率から見りゃ数パーセントに過ぎないんだろうな」とは思いましたね。だいたい、ああいう批評メディアが推すものって、まずアメリカで売れないし、売れたところで発売された数週だけの話だし、大ヒットしたとしてもそれは他の大衆メディアでの露出での影響だし。そういう意味では、今の「音楽批評」の力って、アメリカじゃ本当に弱いよな、というのを思い知らされてトホホな気分になっていたわけです。

 

 

 あと、こうも思いました。

 

 

「これが映画界だったら、アデル対ビヨンセ論争みたいなことは起こらなかっただろう」と。

 

 

 アメリカの場合、「エンタメ系のサイト」といった場合、多くでその筆頭となるのがまず映画だし、音楽メインのメディアでも映画を併営しているところが多いです。いや、それどころか、新聞で必ず映画はレヴューされます。しかも、アメリカの場合、ローカル紙制になっているので、その数が膨大です!

 

 

 あと、ラジオを聴くのと違って、多少なりともお金を払って見に行くわけだから、新聞のレヴューくらいはチェックして行く人が習慣として珍しくないんですね。これは僕の住んでいるサンパウロでもそのあたりの事情は変わりません。逆に新聞での音楽のレヴュー、ものによっては目立つものもあるんですけど、ほとんどの新聞の場合、映画より目だっていることがありません。

 

 

 それに加えて、それらの批評の点数をまとめて平均点を出した媒体(アグリゲイター)というのもあります。僕が全米映画興行成績の指標で紹介しているメタクリティックとかロットントマトーズもそうだし、imdbもそう。ある程度の映画マニアなら、大体チェックしてます。

 

 

 そういうものが定着していることもあって、最近では映画のアワードも、極端に点数の悪いものはノミネートされなくなってきています。だって、いくら配給会社が自分たちの利益になりそうな映画をごり押ししようとしたところで、もう、こういうアグリゲイターの記録が残ってるわけだから、評判のよくない作品を嘘ついてまで押すことはさすがに難しくなる。その昔のハリウッドって、そういうとこで腐敗してて、たとえばあの悪名高いエリザベス・テイラーの「クレオパトラ」みたいなものでも、評判が悪かったのに配給がごり押ししてノミネートされてたりとか、そういう例が60年代くらいまではあったし、90年代くらいまでだったら感傷的な甘口な映画が受賞しやすいみたいなこともあったんですけど、最近だとやっぱりインディっぽいものの方が強くなってきていますね。

 

 それに加えて、映画賞でもオスカーの前までに全米のローカル規模で30個くらい今ならあるんじゃないかな。それらでの受賞結果が事前にいくらでも重なった結果、それがあたかも最終の総合結果でもあるかのごとく、オスカーの結果に行き着く。これが最近の道筋になっています。

 

 

 そして、オスカーのウィナーも、近年、アグリゲイターの評価で最低でも85点前後行かない作品は作品賞は難しいのが現実です。たとえば「ラ・ラ・ランド」ひとつとっても、メタクリティックとロットントマトーズで両方で93点をたたき出した映画です。imdbはちょっとランクのつけ方が違って8.0ポイント行けば歴史的傑作扱いなんですが、そこでも8.5点で歴代オールタイムでも100位以内の評価です。だから、これまでのセンセーションで、メディア的な不満があがってないわけです。

 

 

 じゃあ、「レモネード」と「25」はどうだったのか。メタクリティックに音楽の部門があるので、それで得点を見てみると、

 

 

「レモネード」が92点で、「25」は75点!

 

 

さらに、最近出来たみたいなんですけど、Any Dedent Musicっていう、音楽レヴュー専門のアグリゲイターがあって、そっちの方がもとにしているレヴューの分母が50媒体くらいと大きいんですけど、それでも「レモネード」が8.7点なのに対し、「25」は6.8点に過ぎません。

 

 

 これをオスカー風の基準でとらえたならば、「レモネード」は受賞争いの筆頭格、「25」はノミネートさえされるかどうかが微妙、といったレベルです。

 

 

 こうしたことが音楽でも映画並に行なわれてたらねえ。音楽界の場合、前哨戦もなく、いきなりグラミーですからね。ああいう、ゆがんだ変な結果になってもしょうがないわけです。だいたい、オスカーだって、前哨戦に前哨戦を重ねてでさえ、「あれはおかしい」という結果が出るのに、ましてや、文句の出ないような事前のマッチレースが少なすぎますからね、音楽界は。

 

 

 まあ、それもひとえに、映画と違って音楽は作品数が多すぎて、興味のないジャンルを聴かないで一生終わっても問題がない世界ですからね。ひとまとめにするのが難しい側面はあります。ただ、今みたいに、ストリーミングが普通になって、大金払わなくてもボタンひとつでいろんな音楽が試し聴き出来る世の中なら、確立していく余地はあると思うんですけどね。

 

author:沢田太陽, category:評論, 18:17
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