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データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(5)最高の時代に「ビッグ・イン・アメリカ」だったR&B/ヒップホップ
どうも。
 
 
「平成ガラパゴス洋楽史」、(4)まで行ってやっとグランジが終わったとこです。想像したよりも思い切り時間がかかっております。
 
 
そして今日話をするところも基本は90年代半ばまでのお話です。それはなにか。
 
 
R&B/ヒップホップ
 
 
これも本国アメリカからはかなり日本では遅れて受容しました。
 
 
日本だと、このジャンルの名前を世間一般に耳にするようになったのって、おそらく98年とか99年とか、ほとんどミレニアム目前のことだったような気がします。ただ、これが、ことアメリカで巨大になっていたのは1990年代前半のことです。
 
 
ただ、これに関しては、多少日本に関しても肩を持つ気でいます。なぜなら
 
 
受容が遅れたのはなにも日本だけじゃなく、ヨーロッパとか他の国でも同様だったから。
 
 
つまり、R&B/ヒップホップがアメリカで最大の影響力を持つ音楽に上り詰めた90年代前半という時代、それはビッグ・イン・アメリカに過ぎなかったのです。
 
 
だけの、皮肉にも
 
 
その時代のR&B/ヒップホップこそが最も面白かった!
 
 
そのことは確証持って断言できますね。
 
 
それは何も僕だけが言っていることではありません。実際にwikipediaでもそれは言われていることです。wikiのカテゴリーに「ゴールデン・エイジ・オブ・ヒップホップ」という言葉があります。それは英語、日本語をはじめ何か国語にもわたって訳されているものなのですが、それによると、ヒップホップの黄金期は「ランDMCのブレイクからG-ファンクの隆盛まで」。つまり1986〜1993年くらいまで、ということになります。
 
 
黒人社会間でのヒップホップをめぐる空気感までは、残念ながらその現場にいたわけではないのでややわかりかねるところはあるんですが、そのおしまいの方は僕はちょっとだけ伸ばしますね。96年までは面白かったと僕は思ってます。それがなぜかは後述します。
 
 
そして、R&B自体が本当に力を持って来だしたのが92年頃のことだったと思います。「それまでだってブラック・ミュージックは強かったじゃないか」。もしかしたら、そのようにお考えの方もいらっしゃるかもしれません。たしかに、80年代にもマイケル・ジャクソン、プリンス、ライオネル・リッチー、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストンとビッグなアーティストがいたことはたしかです。しかし、80年代のブラック・ミュージックの問題は、こういうヒットするアーティストの人数が限られていたことです。
 
 
マイケル・ジャクソンはご存知の通り、白人化しました。「肌の病気」とのことでしたが、音楽的にも白人の好みとの折衷路線を続けていたことも同様でしたね。ライオネル・リッチーはバラッディアーだったのでカントリーとの共演路線をとってリスナーを広げていました。プリンスはロックとの融合ですね。本人自身も「イタリア人とのハーフ」と自身の出自を偽っていました(このことは当時の日本の音楽雑誌でも紹介されてたし、ネルソン・ジョージというアメリカのジャーナリストが書いた「リズム&ブルースの死」という本でも明記されています)。そしてホイットニー・ヒューストンも「ゴスペルで鍛えた歌唱力」との触れ込みではあったものの、流行る曲はアダルト・コンテンポラリーによった、ブロードウェイ・ミュージカルのような趣味のものだった。つまり限られたスーパースターが白人趣味に寄らないと売れない時代だった。黒人っぽいストリート感覚が一般でウケにくい時代で、そういう曲はブラック・ミュージックのチャートで流行っても総合チャートで100位にさえ入らない、なんていう、今のチャートでは全く考えられないようなことが珍しくなく起こってました。その一例が初期のヒップホップの名曲、グランドマスター・フラッシュの「The Message」という曲。これなんかは1982年、100万枚の売り上げを記録したのに、ビルボードのシングル総合チャートで最高位52位です。当時のアメリカが一体どういう世の中だったか、ということは、これで垣間見えるかと思います。
 
 
チャート同様に、黒人社会全体も似たようなものでした。


80年代にもなると、公民権施行から20年が経過したわけで、その間には成功して億万長者になる人も少なくなかった。だが、そうした成功者はごく一部で、一方で黒人間の貧富の差は広がっていくばかりで、成功した人は人で白人社会に溶け込もうとおとなしく振る舞おうとした・・という感じだったと、この当時はよく耳にしたものです。


で、80年代後半になってジャネット・ジャクソンがジャム&ルイスのプロデュースで当たってボビー・ブラウンがLA&ベイビーフェイスのバックアップで当たって、さらにテディ・ライリーがニュー・ジャック・スイングで当てた。このプロデューサー3組は、当時の黒人のストリートの雰囲気を上手く表していると称され、「黒人らしい」ファンキーさというのはこのときにかなり表現されるようになった、と思われていました。僕もちょうどこのくらいからブラック・ミュージックに興味を持ちました。僕の場合、洋楽の聴きはじめのころにホール&オーツとかワム!とかソウルフルなものを自然と聴いていたのでその素養はあったのですが、黒人のアーティストを正面から聴くようになったのはこのくらいからでしたね。でも、今から振り返ると、このあたりも、「移行期」な感じに聞こえますね、今となっては。まだこの当時のブラック・ミュージックは「ブラコン(ブラック・コンテンポラリー)」と言われてましたが、ブラコンに顕著だったアーバンな感じとストリート指向の、まだこのときはその中間という感じでしたね。で、日本でもディスコ時代にブラック・ミュージックにそれなりの支持があったので、このあたりの感覚は日本でもウケは決して悪くなかったですよ。ジャネットもボビー・ブラウンもオリコンで普通にトップ10に入ってましたからね。


しかし!


これがこと、ヒップホップ・カルチャーに影響を受けたブラック・ミュージックとなると、勝手がだいぶかわったんです。90年10月から、ビルボードの「ブラック・コンテンポラリー・チャート」は「R&Bチャート」と呼称を変えることになったのですが、それからほどなくしてR&Bがブラコンと違う側面というのが色濃くなってきます。それはとりもなおさずヒップホップからの影響でした。


僕がそれを強く感じたのはメアリーJブライジとTLCの存在でした。両者とも、ファッション、サウンドともにヒップホップのカルチャーから出てきたと言っても過言ではない感じでした。すごくザラッとした官職があったんですよね。アーバンっぽくきれいには流れない何かがあったというか。ふたつとも92年くらいに出てきたんですが、僕はそこのところが気になってました。特にTLCに関しては、カッコからして「こりゃ、黒人の同世代くらいの子、絶対に好きだろうな」と思って気になりましたね。デビュー・アルバムの頃はまだアメリカでも「アーティスト性としては様子見でシングルのみヒット」みたいなところがありましたが、出る曲出る曲あまりにも良いので、3枚目のシングルの「What About Your Friend」が売れた時点でアルバムを買って、かなり愛聴しました。メアリーとTLCはこの当時日本でも若いR&Bの固定ファンにもそれなりに人気はあったと思うんですけど、ただ
94年発表の「最高傑作」のほまれ高い2ndアルバムはともにオリコンで当初トップ100にも入りませんでした。


TLCなんて、そのアルバムからの3枚目のシングルの「Waterfalls」が全米で10週くらい1位になってやっと動いて、オリコン80位くらいなものだったんですよ!ええ、このときも御多分に洩れず怒りましたよ(笑)。「マライアとかボーイズIIメンみたいな安全パイみたいな曲かけるんじゃなくて、もっとカッコいいのあるんだから、そっちをかけろよ!」と、不当に低い扱いをされるTLCとメアリー、あとジョデシィとかもそうですね。非常にくやしいな、と思っていました。


で、ヒップホップに話を移しましょう。僕の場合、ランDMCは最初あまりにも今までと違う存在が登場したことで理解できなかったんですが、ビースティ・ボーイズの「(You Gotta) Fight  For Your Right (To Party!)」と聴いたときに軽く衝撃を覚えて「ラップ(80年代当時はこう呼んでました)ってこんなにカッコいいんだ!」と目からウロコが落ちてました。その後もチャート見てて、たとえばLLクールJなんてカッコいいと思っててアルバムなんかも借りたりもしてたのですが、しかし、チャート中心の情報収集では90年代初頭まではまだ限界があったんですね。この当時からたとえばエリックB&ラキムとかパブリック・エネミーとかデラ・ソウルとか名前は聞いたことはあったし、興味はあったんですけど、「巷で曲を聴いたことのないものを聴くのはリスクがいるなあ〜」と思って手が出なかったんですね。かと言ってMCハマーはあまりにもダンス・オリエンテッドすぎるのはわかっていたので「あれでヒップホップを聴いている、と言ったらはずかしいんだろうな、きっと」という予感はしていました。


で、91年2月にアメリカ旅行した際にアイス・キューブとアイスTが出演した「ニュー・ジャック・シティ」というギャングスター映画が流行ってるのを見たり、その後のビルボードのチャートでパブリック・エネミーやNWAが初登場でトップ5に入るのを見たりして、「なんか危険な雰囲気の、本物っぽいヒップホップが流行ってきてるのかなあ」という気分は感じていました。


そして92年5月、僕にとってすごく決定的な事件が起こりました。それがロス暴動でした。これは、黒人青年が警察からいわれのない暴力を受け、その暴力の不当さが全米規模で報道されてかねてから話題を呼んでいた事件の裁判で、誰もが予想しなかった無罪判決が出たことでLAの黒人コミュニティが怒り、日夜暴動が続いた、というものでした。これは日本でも連日ニュースでも報じられたのですが、この「荒れるアメリカ」に、僕はグランジやオルタナから垣間見れるものと同質の空気を感じたんですね。

そして、この事件の報道の際に一種のスポークスマンとしてやたら登場してきたのがスパイク・リーでした。「ドゥ・ザ・ライト・シング」でロス暴動を数年前に予見したと話題となり、この半年後に60年代の戦う黒人指導者マルコムXの伝記映画を作ったことで彼は一躍ときのひととなっていました。僕はこの当時、テレ朝で深夜に放送されてた「CNNヘッドライン」やTBSでピーター・バラカンさんがやってた報道番組「CBSドキュメント」を流し見ではありましたが習慣的にアメリカの社会問題は目や耳に入ってきてて、スパイク・リーの姿は頭から離れなくなっていました。


そんなときちょうど僕の住んでた横浜の関内のミニシアターで「スパイク・リー」特集をやることになって、このときに彼の映画を「マルコムX」の予習がてらに片っ端から見たんですけど、こんなに時代と格闘した映画を見たのは人生でこれがはじめてでした。(3)で僕は、「グランジが自分の人生にはじめて語りかけてきた音楽だった」と書きましたが、映画ではこの人でしたね。しかもこれで音楽ももれなく着いて来た。僕は「ドゥ・ザ・ライト・シング」のオープニングでかかっていた「Fight The Power」にヤラれ、以後パブリック・エネミーのカタログをさかのぼって全部買いました。


そして僕は、とにかくその時点までの「ヒップホップのレジェンド」というものを片っ端から買い集めました。この当時流行っていたドクター・ドレーをはじめとしたGファンクやウータン・クランはもちろんのこと、デラ・ソウル、トライブ・コールド・クエスト、エリックB&ラキム、EPMD、スリック・リック、もちろんさかのぼってランDMCやグランドマスター・フラッシュまでなんでも聴きましたね。その作業は僕にとって、サブポップとかSSTのような80〜90sのUSインディのバック・カタログを洗い出すくらい必須のことでした。


あと、当時のヒップホップが人種差別への怒りを訴えたプロテスト的なものが多かったことから、「こういうものの源ってなんだろう」と思って、それを調べた結果、スライ&ザ・ファミリー・ストーンとか、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールド、ドニー・ハザウェイ、アイズリー・ブラザーズあたりの作品をあさりましたね。当時このあたりはサンプリング・ソースとしても使われていたので余計に入りやすかったんですよね。温故知新が知的に出来たのも、この当時のヒップホップの良さでもありました。


この当時のヒップホップの良さって、一方でBoast(「俺こそナンバーワン」という俺自慢)の力強い魅力(ヒップホップの場合、”マッチョ”と呼ばれようがここのアイデンティティがデカいので、ここが非ヒップホップ・ファンから否定されるのは正直好きじゃない)の魅力がありながらも、クリエイターたちが「俺たちは当代最高の音楽を作ってる」自負が感じられ、競い合うようにして面白い音楽を作り合ってたような感じがあったんですよね。「アイツがこうしたら、俺はこうだ」みたいなね。そこはしっかり再評価もされてほしいんだけどな。


このあたりで、日本の洋楽シーンも「ヒップホップをなんとか捕まえよう」として、アレステッド・デヴェロップメントあたりを売ろうとして、それなりに日本でも成功を収めます。ただ、本国アメリカで「一発屋」の扱いになり日本で94年に出た2ndアルバムがさっぱり売れず、以後、皮肉にもビッグ・イン・ジャパンとなってしまったのは意外な展開でしたが。音楽性もリリックのメッセージも聴くべきものはあったものの、ストリートっぽさから乖離したチョイスだったのと、アーバン的なウケを期待し過ぎちゃったのが裏目に出てしまったんでしょうかね。アメリカでの当時の支持で言うとドクター・ドレーとかウータンあたりの方が圧倒的に影響力ありましたしね。


ただ、95〜96年から、それがおかしな方向に行くことになります。それが”ビギー・スモールズ”ことノトーリアスBIGとトゥパックによる”東西対決”と呼ばれるヤツですね。ビギーはNASと並ぶ、あの当時に出て来たラッパーの中で屈指のスキルとストーリーテリングを持ったラッパーだったし、トゥパックは”うまい”とまでは言えなかったものの、良くも悪くも繊細で正直な、まるでドラマの主人公みたいなキャラクターで強いシンパシーを集める愛らしさとカリスマ性があった。この2人の登場で、95年ぐらいにヒップホップのセールスもグンとはねあがるわけなんですけどね。ただ、これが日本では、ドクター・ドレーとかウータンが流行ったとき同様、アメリカとは天と地ぐらいの差があった。この2人の人気はやがて2人でディスりあいの対立を生み、96年に頂点に達するんですが、その瞬間、96年9月にトゥパック、97年3月にビギーがなくなってしまいます。皮肉なことにヒップホップが世界的な注目を集め出すのは、この2人の死の後からでした。


ここからあとって、ラッパーはトゥパックの露骨なコピーが増えるは、リリックからは危険性がなくなる(しょうがないけど)は、プロデューサーは一曲一曲のインパクト勝負になりすぎてアルバム1枚まかせられる体力がなくなるは、そしてなにより創造性よりもあまりにビジネスが先行した作りになってきたし。ぶっちゃけ、ここから先はジェイZとかフージーズ(ローリン・ヒル)、ミッシー・エリオット、アウトキャスト、ネプチューンズ、アウトキャスト、エミネム、カニエ・ウェストといった圧倒的に秀でた実力とわかる人たちとそうじゃない人たちの乖離がR&B/ヒップホップで激しくなってしまった。もう、僕はこの当たりになると、限られたリリース以外は全くこのジャンルに興味を持たなくなってしまいましたね。「ぶっちゃけ例外除きゃ思い切り過大評価なのに、なんでここまで売れてるんだよ」と不思議でしょうがなかったですからね。でも、本当に評価されるべきものが売れなかった時代を知らず、いきなり水増しされて売れたものを聴いて知ったリスナーにはそれが伝わらない。その意味で90年代末期や2000年代に「R&B/ヒップホップはロックなんかより全然クリエイティヴだ」などとトンチンカンなことを言う連中をロック側から見つけたりすると、胡散臭くて仕方なかったですね。


その後、R&B/ヒップホップをめぐる状況は日本でもかなり改善されてきたと思うし、本場アメリカのソレでも、ここ最近のウィークエンドとかオッドフューチャー系とかドレイクみたいなオルタナティヴでインディな感じのヒップホップが出て来たことで「90s前半までにあったクリエイティヴな空気が戻ってきつつあるんだな」と感じられて、それはそれで面白くあります。「日本人もしっかりブラック・ミュージックを理解出来てるじゃん」と最近は思います。ただ、だからこそ、90s代半ばくらいに「ラップは日本人の感性にあわない」とか言って、くっだらない一発屋とか当てに行ってた当時の洋楽業界がちょっと腹立たしいです。


次回はそのあたりについて語りましょう。
 
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 14:35
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Comment
9/30付と同じ者です。すごく面白いです。自らの来し方も整理できるみたいでうれしいです。スパイク・リーは面白かったけど、そこからリアルタイムな方にはついて行けず、沢田さんが挙げていらっしゃる「源」の方(その他、ビル・ウィザーズが特に好き、アレサ、エッタ、ニーナ・シモン、ダイナ・ワシントンなど女性ボーカルも好き)に行ったきりになってました。コミットメンツは今でも繰り返し見てます。で、リアルタイム方面はどうでも良くなっていたのですが、ジョス・ストーンが好きになり、エイミー・ワインハウス、アデルと聴いてくる過程でこちらのブログに漂着しました。今ごろになってメアリーJブライジは格好良かったな、と思ったりして。続きも(その他の投稿も)大変楽しみにしております。
匿名希望, 2013/10/08 11:18 PM









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