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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第8回 1994-1997

どうも。

 

では、今日も「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、行きたいと思います。

 

今日は第8回目。こんな感じです。

 

 

1993年から97年の間の10枚ですね。

 

この頃になると、もう世界的にも「オルタナティヴ・ロック以降」という感覚が当たり前になり、ヒップホップやエレクトロのシーンも活性化していくことになりますが、非英語圏ではどのようなものが出てきたのでしょうか。早速、見ていきましょう。

 

 

Kauf Mich/Die Toten Hosen(1993 Germany)

 

 

 最初はドイツで行きましょう。ディー・トーテン・ホーゼンです。

 

 ドイツというのはロックの始まりがよその先進国より遅かったものの、クラウト・ロックから始まって、70年代のうちにはエレクトロの国、メタルの国になった話はしましたが、90sには同時に「パンクの国」にもなります。それを牽引したバンドこそ、トーテン・ホーゼンです。

 

 彼らの場合、結成そのものは80年代の前半で人気が出はじめるのが80sの後半です。なのでイメージとしては、日本におけるブルーハーツみたいな感じで、「時代的にちょっと遅れてブレイクしたパンクバンド」という感じでした。そうしたこともあり、90s以降に顕著になるメロコアのバンドと違って「型どおりのパンク」を必ずしもやっていたわけではなく、「パンクを基調に色々やってた」というのが実際には正しいです。

 

 そんな彼らがドイツで国民的バンドの座を確保したのが、通算で8枚目に当たるこのアルバムですね。このアルバムは全編通して資本主義社会への皮肉や、この頃すでに台頭しつつあったネオナチや極右思想への徹底した批判が展開されたコンセプト・アルバムで、パンク・オペラ的な要素をこの時期に展開していますね。

 

 彼らは90s前半にアメリカにも進出しているんですが、このアルバムのプロモーションの際に全米ツアーした際、前座で同行したのがグリーン・デイなんですよ。ちょうど、「ドゥーキー」を出すか出さないかの頃の。この両バンドはその後もツアーを行っていて、トーテン・ホーゼンが前座でワールド・ツアーしたこともあるくらいなんですが、もしかしたらグリーン・デイが「アメリカン・イディオット」を作る源になったのもトーテン・ホーゼンからの影響だったりするかもしれません。

 

 トーテン・ホーゼンは現在も、同じく大ベテランのディー・アルツテというバンドと並んで、ドイツのパンクを牽引しています。

 


And She Closed Her Eyes/Stina Nordenstam(1994 Sweden)

 

 

 続いてスウェーデンに飛びます。女性シンガーソングライターのスティーナ・ノルデンスタムです。

 

 1994年頃のスウェーデンといえば、もうすでにカーディガンズを筆頭としたスウェディッシュ・ポップが日本を皮切りに注目されつつあった頃ですが、この年に生まれたスウェーデンの名盤といえば、少なくとも本国ではこのアルバムで、同国のオールタイム企画では必ずトップになるアルバムです。彼女は「スウェーデンの音楽の殿堂」でも、2014年の第1回目の投票で最年少で殿堂入りしています。

 

 1969年生まれのスティーナにとって、これが通算2枚目に当たるアルバムなんですが、このアルバムが画期的だったのは、その「無音空間」の活かし方ですね。彼女は儚げでデリケートな吐息交じりの歌声をしているのですが、その美的な脆弱性を生かした声の出し入れが実に絶妙なんですよね。声の力がただでさえ強いのに、楽器の音数を極度に削り、無音になった後も沈黙を長めとってあるから、聞いててすごく緊迫感が高まるんです。「これ、いったいどう展開するんだろう?」と、聞いてるこちら側の注意を妙に刺激するんですよね。

 

 こういう作り方って、例えばビヨークでいうと97年の「ホモジェニック」以降に展開されるものでもあったりするわけですが、それより3年先駆けている上に、ビヨークほど難解で聞きにくいわけでもない。緊迫感溢れると同時に、ポップな大衆性のバランスもすごく取れている。その意味で、すごく絶妙な均衡の上に成立した作品でもあります。それは彼女自身のキャリアにおいても同様なようでして、この後、フォークトロニカ的な方向に発展して、エレクトロ色を強めたりもしますが、そういうことをする方がかえってありきたりになってオリジナリティが後退したりもしています。

 

 彼女は、一般露出をほとんどしないミステリアスな存在で、2004年以降はアルバムも出しておらず、楽曲自体も2007年から出ておらず伝説化してるといいます。果たして復活はあるのでしょうか?

 

 

Re/Cafe Tacvba(1994 Mexico)
 

 

 続いてメキシコに行きましょう。カフェ・タクーバです。

 

 このカフェ・タクーバこそ、メキシカン・オルタナティヴというか、ラテン・オルタナティヴの象徴的なアーティストですね。彼らを機に、スペイン語圏のロックのイメージが一転した印象があり、その新鮮さゆえに英語圏の国でも紹介され、日本でもアルバムがリリースされていたほどです。

 

 1992年にデビューした彼らですが、何が印象的だったかといえば、そのサウンドの折衷感覚ですね。彼らはメキシコのフォーキーな伝統音楽をルーツに持ちながらも、そこにパンクやスカ、ヒップホップにエレクトロ、時にはハードロックをも交えさせることのできる、いわば「ラテン・ミクスチャー」的な感覚を表現することができました。このセカンド・アルバムはそれができた最初の作品で、メキシコではリリース20周年の際に大きく再注目もされていましたね。

 

 これまでのメキシコのロックといえば、格好はすごくムサいメキシコ人っぽいセンスではあるんだけど、やっていること自体は割と英米のそれと変わらないオーセンティックなロックだったりすることが少なくなかったんですが、ここで展開されているカフェ・タクーバの場合は、メキシコらしさにしっかりと主眼が置かれつつも、その発展のさせ方自体は世界的にも先端を行くようなミクスチャー感覚で、しかもすごく文科系っぽいんですよね。しかも、すごくアーバンっぽくてオシャレでね。曲にもよりますけどボッサっぽいネオアコ調の曲とか、メロディカ使った渋谷系っぽい曲があったり。リードシンガーのルーベン・アルバランの高い鼻声も可愛らしい感じがするから、そこがまた、マッチョ臭くないオシャレっぽさを醸し出したりもしてます。

 

 彼らはこれを皮切りにメキシコ本国ではもちろん、中南米全般で非常に大きなバンドになり、2000年から始まったラテン・グラミー賞ではロック部門、オルタナティヴ部門の常連中の常連となります。それは彼らの実力によるところがもちろん最大なのですが、アルバム共同制作者のグスタヴォ・サンタオラヤという人も無視できません。彼は70年代からのアルゼンチン・ロックシーンの重鎮で、プロデューサーとして、アルゼンチン、メキシコ、チリの人気バンドを次々手がけるだけじゃなく、映画音楽家としてもアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画音楽の担当で受賞歴も多い人です。

 

 

In A Bar Under The Sea/dEUS(1995 Belgium)
 

 

 続いて、これまで紹介したことのない国、行きましょう。ベルギーで、dEUS(デウス)です。

 

 このdEUSですが、ヨーロッパ圏では2000年代には「ヨーロッパ大陸の大物バンド」として有名でしたね。日本ではそんなことなかったですけど、英語の音楽サイトなんかを調べると、無意識のうちによく見るグループ・ロゴでもあったし、「デカいらしいよ」というのは伝わってきましたね。

 

 ベルギーという国は小さいので地味ですけど、元々、片方はオランダ、もう片方はフランスの文化圏でもあったことからロックは早くから盛んで、とりわけ「スタジオ・ブリュッセル」という国営ラジオ局は、パンク/ニュー・ウェイヴ色の強いアートなロックを押すことで世界的に有名な局です。またロック・フェスも「ロック・ヴェルフター」という老舗のロック・フェスが70年代の半ばには存在して今日でも名物フェスとして知られています。

 

 dEUSはそんな状況から登場した、すごく、この国らしいタイプのバンドですね。イメージとしてなんとなく近いのはREMみたいなフォーク・ロック調のカレッジ・ロックバンドではあるんですけど、彼らの場合はそこにジャズやブルーズの要素も入れて、独自に実験的なことを展開していたバンドです。これがブレイク・スルーとなったセカンド・アルバムなんですが、およそポップな要素があるわけじゃないのにベルギーでは2位まで上がるヒットになり、イギリスでも70位台まで上がるヒットになってるんですよね。

 

 このアルバムに関してはプロデューサーが、キャプテン・ビーフハートのバンドの後期メンバーだったエリック・ドルー・フェルドマンで、ゲストにガールズ・アゲインスト・ザ・ボーイズやモーフィンといった、この当時のアメリカのインディ・ロックをかなり掘り下げた人じゃないと知らないマニアックなバンドのメンバーが参加するなど、その音楽への造詣ぶりに思わず脱帽してしまいます。

 

 彼らはこのアルバムの後にフランスやドイツでも成功するようになったことでヨーロッパを代表するバンドになりました。ただ、理由はよくわからないんですが、逆にイギリスでウケなくなったことで、英語圏にアピールするチャンスを失ってしまったのが残念でもありました。エレクトロとかロックンロール回帰とか、そういうトレンドになった方向性とリンクする方向に行かなかったからかな。

 

Fuzao/Faye Wong(1996 China)
 

 

 続いては、これも今回初めての国ですね。中国で、フェイ・ウォンです。

 

 90年代は、市場開放により、中国にもロックのシーンが生まれたことも話題を呼んだものです。これまでのパターンであれば、中国政府と戦ってきたタイプのツイ・ジェンみたいな人か、あるいはあの当時話題となった中国メタルあたりをやるという手もありました。ただ、僕自身があの当時に台頭した中国のロックをクオリティ的にあまりピンと来なかったこと。そして、中国本土ではないけれど、70sの時点ですでに香港ではロックっぽいアレンジの曲があって、すでに映画などで使われていたのも知ってもいたので、「中国のロックの初め」をどこに置くかがちょっと見えにくくなってしまったんですよね。

 

 僕としては、「中国のロックのはじまりがどこか」ということよりは、90sにおけるこの人のインパクトと存在感の方に惹かれていたのが事実です。それがフェイ・ウォンなんですけど、彼女の場合は、「こういうオルタナティヴな感覚の女性が中国にいるんだ!」ということがとにかく驚きでしたね。そのファッション感覚と存在感の独自性は、世界的に大ヒットしたウォン・カーワイの映画「恋する惑星」への主演で世界的に知られることになりましたが、彼女自身が歌ったクランベリーズの「Dreams」のカバーもかなり話題になりましたね。市場を解放したばかりの中国で、あの当時の女の子のオルタナティヴ・ロックで世界的にヒップなものの一つび見られていた存在に飛びつく感覚があるのかと驚いたものです。

 

 彼女はこうして急激に注目されたこともあってか、年にアルバム発表を乱発する傾向があり、聞くこちら側も、「どれが本当に力入れた作品なの?」と受け止めに困ることも少なくなかったのですが、アルバムで1枚ならこれでしょうかね。なぜなら、このアルバムで彼女は、自身の憧れのアーティストでもあるコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーが提供したオリジナル曲2曲をここで歌い、それがアルバム全体のイメージにつながっているから。ぶっちゃけて言って、「Dreams」のイメージには近いんですけど、あのカバーが単なる思いつきのものではなく、彼女が歌いたいイメージの根底にあった「儚げな透明感」とつながる必然的なものであったことをこのアルバムは示してますね。コクトー・ツインズは伝説のインディ・レーベル、4ADの初期のイメージを象徴するバンドとしてだけではなく、今や「ドリーム・ポップの元祖」としてインディ・ロック界隈での再評価が進んでいる最中ですが、このアルバムはそのドリーム・ポップの文脈でも名盤として評価されそうな感じがします。

 

 1999年の「ファイナル・ファンタジー」の挿入歌の大ヒットでヒップなイメージが後退して、その後、活動休止期間が長かったことで90sの時のオーラがちょっと忘れられている観もありますが、ちゃんと評価したい人です。

 

 

El Dorado/Aterciopelados(1996 Colombia)
 

 

 続いても、トンがった女性、行きましょう。南米のコロンビアのアテルシオペラードスです。

 

 今でこそ、音楽でも、テレビドラマでも、さらにはサッカーでも、ブラジルやアルゼンチンに負けない、もしくは勢いで上回ることさえあるコロンビアなんですが、そうした動きが始まったのは90年代に入ってからですね。音楽では、このバンドが非常に大きな存在です。

 

 

 この、ヴィデオの撮り方も、曲調も、ファッションも、もういかにも、90s半ばのアメリカのMTVでガンガン流れていたオルタナティヴ・ロックの感じそのまんまなんですが、このモダンさにおいて、アテルシオペラードスはコロンビアだけじゃなく、南米全体でも頭一つ抜けてますね。さらに言えば、このバンドのフロントウーマン、アンドレア・エチェヴェリの存在感ですね。デビュー当時はいかにもパンクスな坊主頭で、このセカンド・アルバムの際もツンツンの金髪の短髪だったですが、彼女が南米のオルタナティヴな志向の女の子たちのオピニオン・リーダーにもなります。

 

 これ以降、バンドは4人編成だったところからアンドレアとエクトル・ビタルゴによる男女2人組になり、サウンドも、アメリカ直系のインディ・ギター・バンドといったところから、どんどん中南米の民族色を濃くしていきます。それに伴いアンドレアのファッションもガラっと変わり、サイケ柄のヒッピーっぽい衣装に、腰までのロングヘアになってました。その時期が長いこと続いてたんですが、最近、ちょっとまた初期のパンクっぽさが戻って、アンドレアの髪型も「前から見たらカラーリングしたボブ、後ろは全部刈り上げ」という、かなり過激な50代に突入してますね(笑)。

 

 コロンビアからはその後、シャキーラやフアネスなど、ロックの影響を受けたポップシンガーが登場し、アメリカをはじめ世界的に成功していますが、そのための扉をこじ開ける役目を果たしたのもアテルシオペラードスです。実際、シャキーラはアンドレアから受けた影響を公言もしてますからね。

 

Roots/Sepultura(1996 Brazil)
 

 

 続いて、これも南米ですね。ブラジルです。

 

「セパルトゥラがブラジルのヘヴィ・メタル・バンド」ということ自体は、これが出る数年前から知ってはいました。この少し前から、この当時、NHKでラテン音楽の番組担当だった僕は、なんとなくブラジルのことが気になっていた僕は、ちょっとこのバンドのことが気になってはいました。ただ、思い切りデス声で歌われると、どうしても引いてしまう自分がいる。パンテラまでは聞けるようにはなってはいたんですけど、なかなか踏み切れずにいました。

 

 ただ、このアルバムが出る頃には、メタル系のメディアのみならず、インディのメディアまで結構褒めたんですよね。それで、「何事?」と思い、踏ん切りつけて聞いたんですけどこれが衝撃でしたね。これ、「ヘヴィ・メタルと、南米のポリリズムの融合」で、乱れ打ちされるラテン・パーカッションのグルーヴ感がなんとも心地よいんですよね。そこにダウン・チューニングされたヘヴィなギター・リフが乗るとさらにグルーヴィーで。

 

 あの当時、もう既にミクスチャー・ロックなるものはかなり盛んになってはいたんですけど、ここまでリズミックなものを聞いたのは、後にも先にもこれが最初で最後かもしれません。この数年後にスリップノットが、同じく複数の打楽器が生むポリリズミックなグルーヴをウリにして出てきはしたんですけど、セパルトゥラほど前のめりにはノレなかった。この差異に関しては、南米人の血によるところのものをなんか感じてしまいましたね。

 

 このアルバム、プロデュースを手掛けたのはロス・ロビンソンなんですよね。これと前後してKORNとかリンプ・ビズキットもプロデュースしてるんですけど、その都合上、それらのバンドメンバーも参加してますね。まだ、この当時は、こうしたロス・ロビンソン系の人たちもまだ音楽性で注目され、フレッド・ダーストが復古させようとした反動的なバッドボーイ・イメージはそんなに表面化してない頃でしたね。なお、打楽器で参加したカルリーニョス・ブラウンという人は、この当時ブラジルで人気のあったアシェーという、「モダン・サンバ」みたいな音楽のアーティスト兼プロデューサーみたいな立場の人でブラジルだと今もよく見ますね。

 

 こうして80年代半ばのデビューから10年かけて到達点に達したセパルトゥラでしたが、直後にフロントマンのマックス・カバレラ、2000年代の中頃に彼の弟でドラマーのイゴールが脱退してしまいます。セパルトゥラはメンバー・チェンジをして活動を続けていますが、このアルバムでイギリス、ドイツ、北欧、オーストラリアでトップ10に入った国際的成功が嘘のように、本国だと嘘みたいに小さい会場でライブしてたりと、ちょっと寂しい活動を継続しているのはすごく残念です。

 

 

Hai Paura Del Buio?/Aftehours(1997 Italy)

 

 

 続いてイタリアに行きましょう。アフターアワーズです。

 

 イタリアを扱うのは1981年以来なんですが、あげ損なっていただけの話で、この国にもニュー・ウェイヴのシーンはありました。同じ時期のスペインとか中南米、東欧、日本に比べるとやや規模が小さくはあったんですが、ゴス・バンドのジアフラマ(このバンドは最終選考まで残ってました。すごくいいです)をはじめ、いいバンドはいました。ただ、「イタリア国内に強力なインディ/オルタナティヴ・ロックのシーンを築いた」となると、このアフターアワーズの影響力が大きいです。

 

 このバンドですが、結成そのものは80年代のうちにされていて、デビュー・アルバムをリリースしたのは1990年です。ちょうど、アメリカでグランジ/オルタナティヴのバンドが結成され、最盛期を迎えていくのがこの時期なんですが、このバンドはそうしたアメリカのインディのシーンと歩調を合わせたような、ノイジーなインディ・ギター・サウンドを聴かせてくれます。

 

 5枚目に当たるこのアルバムは、彼らにとってのブレイクスルー・アルバムで、これで彼らはイタリアのオルタナティヴ・ロックのシーンに立ったと言っても過言ではありません。このアルバムですが、パッと聴いた感じだと「遅れてきたグランジ・バンド」の印象もないわけではなく、それはそれで完成度も高くカッコいいです。ポスト・グランジ的な鈍い音の塊で終わることな、う、かなり鋭角的にガリガリしてますからね。

 

 

 

さらに、彼らがある意味、アメリカのグランジ・バンド以上に優れていたのは「グランジの先にあるもの」を見据えたサウンドも展開できたことです。彼らの場合、尖ったギター・サウンドから離れることこそしませんでしたけど、楽曲のダークで空間的な広がりを持ったソングライティングということで言えば、この後のレディオヘッドに通じるものはある気がします。攻撃的な曲調も多くはあるものの、よりファンタジックな曲調の広がりもしていきますからね。これは本来、グランジのバンドがとるべき方向性だったと思いますね。

 

 そして彼らは、アメリカの同時代のコアなインディ・アーティストへの憧憬が非常に強いですね。2000年代に入るとアフラン・ウィッグスのグレッグ・ドゥリのプロデュースでアルバムを出してます。さらにドゥリが元スクリーミング・トゥリーズでQOTSAのフィーチャリング・シンガーでもあったマーク・ラネガンとプロジェクト、ガッター・ツインズを組んだ時にバックバンドも務めていたのもアフターアワーズですからね。こんなマニアックなバンドがイタリアで徐々に人気を上げていき、近作はアルバムが初登場1位になるほどの大物バンドになり、フォロワーも多く生み出している状況です。

 


Isola/Kent(1997 Sweden)

 

 

 続いて今度はスウェーデンに行きましょう。ケントというバンドです。

 

 90sの半ばから後半というと、ブリットポップの時代です。あの時代は同時に、イギリスでグラストンベリー、レディング、Tイン・ザ・パーク、Vフェスティバルの4大フェスが確立され、ヨーロッパ全土でもフェスをするようになったことから、イギリスの人気バンドって、ヨーロッパ全土で影響力を持ちやすくなったんですよね。そんなブリットポップに対するスウェーデンからの回答が、このケントですね。

 

 このバンド、何の情報もないまま、ただ黙って聞いたら、あの当時のイギリスのバンドと勘違いする人、少なくないでしょう。実際、このアルバムも含め、90sにはイギリス進出を狙って英語でアルバムも作っていましたからね。これ聞くと、レディオヘッドとかスウェードとかトラヴィスとか、あの当時のちょっと湿っぽいUKロックのバンドを思わせるようなところがあるんですが、このバンド、世代的にはそうしたイギリスのバンドと全く同世代だし、別にパクったわけじゃなく、たまたま同じ時期に似たような音楽性だっただけなんですよね。国が違って同じ世代だから「ものまね」と誤解されがちなんですけど、その当時にもしイギリス人としてイギリスで活動してたら、そこそこの結果を残せるバンドになっていたような気も、しないではありません。

 

 彼らはかなり早いペースで、遅くとも2年に1枚のペースで作品を出すものだから、ディスコグラフィを追うのは決して楽ではありません。で、そのアルバムが本国スウェーデンではことごとく1位になっていて、もう、かの国では押しも押されぬトップバンド。さらに言えば、ノルウェー、フィンランド、デンマークでも同様に高い人気を誇っているので、「バルト海周辺では神格化されたBSンド」になっています。なんか、マイティ・ソーみたいな感じですけどね。

 

 ただ、21世紀以降の作品は、エレクトロっぽくはなったけれど、全体的にアダルト・コンテンポラリーっぽくて刺激がちょっと薄いかな。「UKっぽい」と言われようが、この時期の作品の方が衝動とひらめきがあったように思います。

 


Homework/Daft Punk(1997 France)

 

 

 シメはフランスになります。ご存知。ダフト・パンクです。

 

 ダフト・パンクをはじめて聞いた時のことはハッキリと覚えてますね。1997年といえば、エレクトロのビッグ・イヤーですよ。プロディジーとかケミカル・ブラザーズを筆頭としたビッグ・ビートのブームもあったし、エイフェックス・ツインは変幻自在にカリスマだったし、ドラムン・ベースがホットなものとしてシーンを席巻中だったし。ポーティスヘッドとかのトリップホップも依然強かった。これまでロック一辺倒だった僕も、この時期はかなりエレクトロものを聞いたものでしたが、そんな中、ダフト・パンクの存在というのは全く異質でした。初めて聞いたのは「Da funk」でしたが、「なんだ、この脱力した、ヘナチョコな感じは!」と、意表を突かれた感じで驚きましたね(笑)。だって、これまでイギリス勢がとことんクールなイメージで攻めてきていたのに、フランスから、突如エイティーズに戻ったような、人懐っこいダサカッコ良いものが突然出てきたのだから。あまりにもタイプが違いすぎたので、それで頭から消えなくなりましたね。

 

 ただ、まさかここがフランスの新しい音楽ムーヴメントの台頭の始まりになったことや、フランスがエレクトロのシーンをリードするような存在になるとまでは全く予想もできませんでしたね。今、冷静にこのアルバムを聞き返すと、鋭角的で音のガッシリと太くて、エレクトロとしての完成度自体もしっかりしてたのがわかるんですけど、やっぱり彼らの場合は唯一無二の独自のメロディ感覚と、楽曲のコンセプトというか物語性。これらの訴える力が強いんだな、と言うこともこの時点でハッキリと分かります。それがより具体的なイメージを伴って社会現象に至るまでになったのは次作の「Discovery」や、2013年度のグラミー賞最優秀アルバムにまで輝いた「Random Access Memories」ですけどね。

 

 この翌98年には、ある時期まで彼らのライバルのように言われていた、ファンタジックでレトロなエレクトロ・デュオのエール、さらに2000年頃からは、ダフトの2人のかつてのバンドメイトで、ダフト・パンクの持つポップ感覚をバンドに還元したようなフェニックスが登場。彼らもその10年後には世界的なインディ・ギターバンドになリましたしね。さらには2000年代半ばには、ダフト・パンクの影響を直に感じさせるジャスティスのようなフレンチ・ハウスのブームがあったり、さらに同じ時期にカニエ・ウェストにサンプリングされる形でその影響はヒップホップにまで及んだり・・。社会的な影響力で考えた場合、90sの非英語圏アーティストで一番すごいかもしれませんね。

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 13:21
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