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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第1回 1960-1966

どうも。

 

 

いよいよワールドカップと並行の当ブログの大型企画「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、始まります。いや〜。緊張しますね。何せ、スタートまでに5ヶ月かけた企画なんてやったことがなかったですからね。

 

 

でも、「英語が母国語じゃない国で、ロックは世界にどのように把握されていたか」という、これまであまり語られずにきたテーマをあえてやってみるのはたり甲斐がありますね。ワールドカップ出場国と同じ全32国、101枚のアルバムで、約60数年のロックの歴史を追っていこうと思います。

 

 

では、第1回の10枚はこれです!

 

 

こんな感じです。西暦にして1960年くらいから1966年までです。

 

では、行きましょう!

 

 

Live In Germany/Tielman Brothers(Indonesia Circa 1960)

 

 

 まずはこのバンドから始めましょう。ティールマン・ブラザーズ。この人たちはインドネシアのバンドで、1950年代から活発に活動していました。驚くべきは、まだロックンロールが生まれたてで、エルヴィスとかチャック・ベリーの時代でビートルズさえいない頃に、遠く離れたインドネシアにすでにカッコいいロックンロール・バンドが存在していた、ということです。

 

 この動画を見てください。

 

 

1960年の時点で、こんなにパンキッシュで速いロックンロールがインドネシアで存在していたのですよ!これ、結構有名な動画で、これが彼らの知名度をyoutube時代になって押し上げる理由にもなっています。

 

 では、なぜそれが可能だったのかを語ることにしましょう。彼らはもともと、「クロンチョン」と呼ばれる、インドネシアに代々伝わる音楽をやっていたんですね。その音楽の編成が、すでにギターとベースに打楽器と、ロックバンドの編成に根本部分で似てたので、ロックンロールに入りやすかったようなんですね。で、インドネシアというのは第2次大戦後に独立するまではオランダ領だったわけですが、オランダの前はポルトガルの植民地でした。その時代に、ギター発祥(というか発展)の地のイベリア半島からギターがこのインド洋の島に渡ってきたんですね。そこで、ヨーロッパ音楽とアジアの伝統音楽をミックスした音楽が代々ここではプレイされていたようです。

 

 そしてメンバーいわく、そこに1950年代にロックンロールが、フィリピンの米軍キャンプの米軍放送から入ってきた、とのことなんですね。そこで感化されてロックンロールをやり始めた、ということだそうです。

 

 彼らの才能はアメリカでこそ発見されませんでしたが、宗主国だったオランダでは発見されました。その結果彼らは、オランダ、そしてドイツでライブ・ツアー活動を行い、そこで話題になったようです。1960年くらいと言ったら、ビートルズがちょうどハンブルグで修行を始めた頃ですから、ひょっとしたら彼らはティールマンの存在を知っていたかも知りません。未確認情報ですが、ポール・マッカートニーのヘフナーのベースはティールマンのベースから来た、なんて説もあったりします。

 

 ただ、いずれにせよ、早すぎた存在ですよね。

 

 

Los Teen Tops/Los Teen Tops(1961 Mexico)

 

 

 続いてはメキシコに飛びます。ロス・ティーン・トップス。

 

 非英語圏の国で最初にロックンロールのムーヴメントがあった国の一つにメキシコがあります。この国はロカビリーの時代かそれがあって、無数のロックンロールのアーティストが50年代後半から生まれています。

 

 その理由は二つ考えられます。一つは、ロックンロール発祥の国、アメリカと国境を接しているから。かの「ラ・バンバ」のヒットで有名なリッチー・ヴァレンスはカリフォルニアのメキシコ移民だったし、バディ・ホリーを生んだテキサスもメキシコと非常に距離が近いですからね。二つ目は、上述のティールマンと同じ理由なんですが、メキシコはもともとスペイン領だったわけですから、イベリア半島からのギターの文化が昔から根付いていた。ロックンロールに入りやすかった背景がここにあります。

 

 そのシーンのトップにいたのがロス・ティーン・トップスなわけなんですが、このバンド、というかシーンそのものが画期的だったことが2つあります。一つは、それまでだったら「〇〇&ザ・XXズ」みたいな、シンガーとそのバックバンドというのがロックンロールの基本的な演奏パターンでした。ところが、ティーン・トップスをはじめとしたメキシコのバンドは、そのシンガーの名前を抜いて、バンド名だけで自分たちを紹介したんですよね。このやり方はのちにイギリスで基本となり、それが以後まで続きます。

 

 そして二つ目が、彼らがスペイン語で歌い始めたこと。ロックンロールというのはアメリカが生んだ文化で、それゆえに英語で歌う、ということをする人たちも珍しくなかったのですが、彼らはそのレパートリーの大半がリトル・リチャードなどのカバーだったんですが、それをスペイン語のヴァージョンで歌ってます。それによって、「母国語のロック」という習慣の先駆けとなったわけです。

 

 メキシコのこの時期のバンド、他にはロス・ロコス・デル・リトゥモ、ロス・レベルデス・デル・ロック、ロス・アプソン、ロス・カミザス・ネグラス、ロス・エルマーノス・カリオンなどがいました。

 

 

Furore/Adriano Celentano(1961 Italy)

 

 

 今度はイタリアです。この国の当時、というか以後もショービズ・キングになります、アドリアーノ・チェレンターノです。

 

 1950年代後半から60年代初頭にかけて、多くの国でエルヴィス・フォロワーが生まれます。それがイギリスの場合がクリフ・リヤード、オーストラリアだったらジョニー・オキーフ、そして非英語圏にも生まれてイタリアの場合は彼なんですが、それはこの名画の中でも象徴されます。

 

 

 

イタリアの巨匠、1950〜60年代には世界のカリスマ監督でしたフェデリコ・フェリーニの名作映画「甘い生活」の中で、ロックンロールを歌い始めるロカビリー・シンガーの役で登場します。

 

 数多いた当時のエルヴィス・フォロワーの中でも、チェレンターノの声の伸びとシャウトのアタックの強さは抜群ですね。彼はアメリカからのロックンロールのカバー曲が多いのですが、そのどれもが当時としては完成度が高い。こと50sのカバーに関しては、彼のが一番良いとさえ思います。

 

 同時に彼もイタリア語でのロックンロールも流行らせ、それもヒット。彼の登場以降、イタリアは「ロックンロールの影響をアイドル」の時代になりまして、ボビー・ソロだとか、女性のミーナとかがそのシーンを盛り上げます。チェレンターノのオリジナル曲では、選んだアルバムの中の曲ではないですが「24000回のキッス」が日本でもカバーされてヒットしていますし、ボビー・ソロ、ミーナは「イタリアン・ポップス」として、この当時日本でもかなり人気を呼んでいます。

 

 まだ、この当時、エンタメ業界はその後みたいに「アメリカだけの独占」ではなく、フランスもイタリアも、「カルチャー発信国」として大きかったのです。音楽も、映画も、ファッションも。だからイタリアが、すぐにアメリカからの新しい若者カルチャーにすぐ反応し対抗しようとしたのはよくわかります。

 

 チェレンターノですが、この当時のエルヴィス・フォロワーの特徴でもあるんですが、歌に映画にマルチに活躍します。ただ、ロックンロールの時代が終わると「大人のバラード」の路線となり、むしろ主演のコメディ映画のイメージの方が目立つようにもなります。そんな彼は1998年、還暦を迎えた頃にミーナとのR&B調の大人のデュエット・アルバムを出して「こんなにも若々しいとは!」とリスナーを驚かせるカムバック・ヒットを飛ばしていたりもしています。

 

 

Tous Les Garcons Et Les Filles/Francoise Hardy(1962 France)

 

 

 続いてはフランス。そして女性で行きましょう。フランソワーズ・アルディです。

 

「フランスはシャンソンの国なのでロックは・・」なんて記述をたまに見かけたりもしますが、それは正しくありません。50年代後半から60年代にかけて、この国でもロックンロールのカバー・バンドが生まれています。そして、この当時のアメリカや日本同様、ロックのリズムに乗った若いアイドルがたくさん生まれ、それは「サルー・レス・コパン」という人気ラジオ番組で紹介されていました。そんなアイドルの中にはフランス・ギャルやシルヴィー・ヴァルタンなどもいましたが。このフランソワーズ・アルディも大きな存在でした。

 

 とりわけフランソワーズが大きかったのは、「自分で曲も作るアイドル」としてのアイデンティティでした。この当時、似たようなアイドル・ポップのシンガーは世界中にたくさんいましたが、自分で曲も作れた人となると少ないし、女の子となるとなおさらです。ただフランソワーズはそのソングライティング能力を持って、ブームが去った後でも生き延びていきます。

 

 このデビュー作の頃は、「ちょっとフォークがかったアイドル・ポップ」の趣ですね。シーンの中でひときわ「才女」的な異彩を放つのには十分な作品だと思います。ただ、この後彼女はさらに進歩して行って、68年にはバート・バカラックを思わせるソフィスティケイトされた最大の代表曲「さよならを教えて」をリリース。以後も、フォーク、ロック、ソウル/ディスコ、80sポップと来て、90年代後半はエレクトロにジャズの要素なんかも加えてリリースのペースまで上がります。そして最新作は今年リリースですでに彼女は74歳。それでも依然としてフランスでは初登場2位。デビューから55年以上経ても全くの衰え知らずです。

 

 

Sukiyaki And Other Japanese Hits/Kyu Sakamoto(1963 Japan)

 

 

そして続いては、いよいよ日本に行きましょう。やはり「上を向いて歩こう」、国際的には「SUKIYAKI」で全米1位を獲得した坂本九です。

 

日本も実はロカビリーのブームが50年代の後半からありました。この国の場合は、アメリカからの進駐軍と米軍放送の影響でロックンロールが流れていたのが影響したわけですが、そこで平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの「ロカビリー3人男」などが出てきます。坂本九はそのムーヴメントの中では後発組。なんですが、そのハスキーな声のリズムのキレといい、エモーショナルになった時のアタックの強さといい、ファルセットの響きといい、申し訳ないですがロカビリー3人男よりは圧倒的に上だし、この当時の日本のシンガーの中では図抜けていますね。あの独特の、空気を含んだハヒフヘホな歌い方、あれも本人が明確にエルヴィスやバディ・ホリーを真似しているうちに生まれたものであることを認めています。そういうわけで彼は立派にロックの系譜なのです。

 

 ただ、この曲が全米1位になった異形の価値を当時の日本の音楽界がわからなかったこと。そして、「ロックンロール」という音楽が「数多ある音楽の一つに過ぎない」と思われていたことが、彼の音楽性を微妙に定めにくくしていたことは否めないですね。この「SUKIYAKI」を収録した国際向けの彼のベストヒット集でも、そのあたりの焦点の定まらなさは聞き取れます。ただ、それでも、いざロックンロールしてみた時の鋭い声とリズムの切れ味といい、同じ時期のボビー・ダーリンのような器用さ・多彩さを感じさせる点はさすが。同時期の日本で、ここまでソフィスティケイトされた垢抜けたエンターティナーはやはりいなかったと思います。

 

 でも、だからこそ、「全米ナンバーワン」という肩書きをもっと生かしたキャリアを積んで欲しかった。僕が小学生の時に覚えている彼なんて「なるほどザ・ワールド」のレギュラー解答者ですからね。あと、中高年向けの番組の司会とか。もっと、あの、全身をバネに使ったような弾けるような躍動感の歌をもっと聞きたかったですね。もしかしたら85年に日航機墜落で亡くなっていなかったら、90年代あたりに大きなリバイバルがあったんじゃないか。そんなことまで思わせます。

 

 

Tages/Tages(1965 Sweden)

 

 

ロカビリー〜アイドル・ポップの時代を経て、ここからはいよいよビートルズを筆頭としたブリティッシュ・ビートの影響を受けたバンドたちを。

 

 まず最初に紹介するのはスウェーデンのシーンの雄、ターゲスです。スウェーデンは現在、ダンス・ポップから、メタルやらパンクやらで実に多彩なポップ・アーティストの輩出国として知られていますが、そのルーツこそ、この世界でも屈指に早かった、イギリス以降のバンド・ブームにこそあります。さしずめ「スウェディッシュ・ビート」とでもいうべきか。

 

 その中で最も人気があったのがヘップ・スターズ。のちのABBAのキーボード担当のベニーが同じくキーボードを担当していたバンドですが、彼らが同国空前のアイドルとなりヒット曲を連発します。ターゲスはさしずめ、その最大の硬派な対抗馬、といった感じですね。ヘップスターズは勢いポップすぎでナヨナヨとさえ聞こえて、ロックンロールとしてのガッツ溢れる骨っぽさに欠ける印象があったのですが、このターゲスは、このデビュー・アルバムの頃からガレージ・ロック的な疾走感があり、さらにはストーンズ的なブルージーな黒っぽさもあった。この当時の北ヨーロッパでそうしたフィーリングが表現できるバンドが存在したことに驚きますがその意味で当時のイギリスのロックバンドたちはしっかり研究されていたのかなと思いますね。

 

 そんな彼らは1967年12月、「スウェーデンのサージェント・ペパーズ」とも一部で呼ばれている5枚目のアルバム「Studio」を発表して解散します。まあ、どっちかというと「リボルバー」ですけど、これもかなりのアルバムです。60年代のスウェーデンのロックでは一番良い作品かもしれません。

 

 ただ、残念ながら、ヘップスターズのベニーがABBAで成功したようなのちのキャリアは彼らにはなかったんですが。

 

 

Mejor/Los Brincos(1965 Spain)

 

 

 続いてはスペインのバンドブームに行きましょう。

 

 フランスやイタリアといった国はロックの取り入れ自体は早かったのですが、アイドル・シンガーがそのままビートルズの時代にも人気で彼らがそうしたギター・ロックを歌いバンド・ブームが遅れています。ところが同じラテン系ヨーロッパの国でもスペインではバンド・ブームが起こっています。そこはさすがイベリア半島の国。文化としてギターがあった国ではロックが起こりやすかったようです。

 

 その中で最も人気のあったバンドが、このロス・ブリンコスです。国際的ヒットで言えば、彼らのライバルだったロス・ブラヴォスの「Black Is Black」という曲がこの当時、イギリスやアメリカも含め世界的にヒットしていますが、こと、スペイン国内での人気はこっちだったようです。

 

 もう、1965年ということもあって、時代はもうエレキ化したボブ・ディランやザ・バーズなども出ていた時代ですが、このアルバムのタイトル曲にもなっている「Mejor」は、かなりアメリカの動きを敏速にキャッチアップした見事なフォーク・ロックで、きらびやかなアルペジオのギターと美しいハーモニーが堪能できます。

 

 この時期、スペインには本当にバンドが多かったようで、ブリンコスやブラヴォスの他に、ロス・ペケニケス、フォーミュラーV、ロス・シレックス、ロス・ムスタング、ドゥオ・ディナーミコといったバンドが人気だったようです。スペイン、この当時、まだ第二次世界大戦前からのフランコ総統から続く独裁国家の時代なんですけど、もう晩年で若者のはやりまではコントロールできてなかったのかな。 

 

Revolution/Q65(1966 Netherland)

 

 

 続いて、60年代から70年代にかけて、この国も大事です。オランダ。

 

 このオランダでは、前述したインドネシアからのティールマン・ブラザーズがやってきて人気を博していたわけですが、その影響もあってか、この国でも早いバンドブームがやってきています。

 

 その中では最大の人気バンドだったゴールデン・イヤリングを始め、モーションズ、アウトサイダーズ、カビー&ザ・ブリザーズ、サンディ・コーストなどが人気で、こうしたバンドは「ネーデルビート」とも呼ばれていました。そのネーデルビートの中で一つアルバムを挙げるとなると、Q65のこれになるでしょうか。

 

 なぜ、これなのかというと、このバンドはネーデルビートの中で最も骨があるから。オーティス・レディングのカバーなどもアルバムでやってる通り、基本かなりソウル・ミュージックの影響が強い上に、ギターはかなりハードで、66年のこの時点で、この翌年にイギリスで猛威を振るうことになるクリームやジミ・ヘンドリックスのようなサイケデリックなブルーズ・ハードロックに対応できてる先駆性もあります。オランダ本国ではかなりの人気を集めたようですが、これが国際的に知られなかったのは惜しいところです。

 

 残念ながら彼らは、リードシンガーのドラッグ及び軍隊への招集を持って68年に解散してしまいます。ただ、彼らが撒いた種はその後のオランダのバンドに受け継がれ70年代前半に花が咲きます。それは「ヴィーナス」や「哀しき鉄道員」の世界的ヒットで知られたショッキング・ブルーや、「ヘイロロ、ヘイロロ〜、ラッパパ〜」の呪文フレーズで有名な「ホーカス・ポーカス」でおなじみのプログレ・バンドのフォーカス、「My Bell Ami」の全米ヒットで知られるティー・セット、「Little Green Bag」の世界ヒットで有名なジョージ・ベイカー・セレクション、そしてネーデルビートから成熟し、70sに「レイダー・ラヴ」、80sに「トワイライト・ゾーン」の世界的ヒットを飛ばしたゴールデン・イヤリング。彼らのこうした国際進出は「ダッチ・インヴェージョン」とも実際に呼ばれていました。

 

 

それほどの国が今は振るわないのが不思議ですけどね。オランダには同じ時期にサッカーの天才、ヨハン・クライフも出ていますが、すごい文化の波があったんでしょうね、きっと。

 

The Album No.1/The Spiders(1966 Japan)

 

 

そして、日本にもブリティッシュ・ビートの影響を受けたバンドブームはありました。それが俗に言うグループ・サウンズ(GS)なわけですが、その中の先駆者にして、最高の人気バンドの一つだったのがザ・スパイダーズです。

 

 彼らは1966年、GSブームの1年前にすでにデビュー・アルバムも出して、これと共にワールド・ツアーまで行うという、当時の日本のバンドとしては画期的なことをやっていました。

 

 スパイダーズの何がすごかったかって、ポイントが3つ4つあります。一つは、ソングライター、当時かまやつひろし、後のムッシュかまやつの、この当時としては抜群に洗練された音楽性ですね。この当時の日本のGSでソングライターをバンド内で自前で抱えていたバンドはただでさえ稀少だったのに、スパイダーズには本場イギリスのそのニュアンスを絶妙に嗅ぎ取れるソングライターがいた。しかもブルーズ・ロックのカバー・センスまで実は絶妙と来ている。ムッシュのこの感覚がこの時の日本のロックのハードルを確実にあげています。

 

2つ目は、本格的なガレージ・ロックンロールを体現できる優秀なプレイヤーがいた。それがギタリストの井上尭之であり、キーボードの大野克夫であり。この2人は、70s以降に、ドラマのサウンドトラックでソウル・ミュージックの影響を受けたファンキー・グルーヴを試したり、ジュリーのバックバンドのメンバーとしてグラマラスなロックンロールを実践したりもしていますが、その意味でも歴史的に重要なサイドマン、アレンジャーです。

 

 3つ目はフロントマン。タイガースのジュリーや、テンプターズのショーケンほど美しくはなかったものの、堺正章と井上順の、ソフィスティケイトされた軽妙なユーモアのセンスと話術の才能。これは70s以降の日本のバラエティの司会進行の基礎にさえなりました。そして4つ目がドラムの田辺昭知の存在。彼は音楽で言うところのプレイング・マネージャー。彼がのちに田辺エージェンシーの社長にもなるわけですが、バンド内にマネージメントに長けた経営者的手腕を抱えていたことも特筆に値します。

 

 サウンドのエッジや演奏者の技巧的なことで言えばモップスやゴールデン・カップスが上かもしれないし、人気ではタイガースやテンプターズのアイドル性の方が優っていたかもしれない。しかし、こののちのロックはもちろん、その後の日本のエンタメ界における様々な「原型」を残していった意味では、やはりスパイダーズこそがナンバーワンだったと思います。

 

 

La Generation Perdue/Johnny Hallyday(1966 France)

 

 

 そして今日のラストはフランスに戻ってジョニー・アリデイ。

 

 ジョニー・アリデイといえば、フランソワーズ・アルディのところでも触れたように、この当時のフレンチ・ポップスの最大のアイドルの一人で、シルヴィー・ヴァルタンの元夫としても有名なんですが、この時代のフランスの最高のポップスターこそジョニーであり、同時にこの当時のフランスの最高のロックンロール・シンガーでもありました。

 

 彼はフランスにおけるエルヴィス・フォロワーの代表格で、当初はエディ・ミッチェルと並んでフランスのロカビリーを牽引します。二人して名前が英語風なのは、この当時のフランスのアメリカン・カルチャーへの憧憬を示すものです。この当時はフランス映界、トリュフォーやゴダールがヌーヴェルバーグのブームを巻き起こしていた時期と時代がかぶるのですが、この両監督も熱心なアメリカ映画の大ファンだったことでも有名。そういう、外への強い憧れを持った人たちが、この当時のフランスのカルチャーを築いていった、ということにもなるでしょうか。

 

 そしてジョニーが偉大だったのは、ロカビリーもアイドル・ポップも超え、普遍的に残り続けていったことです。前述もした通り、フランスではなかなか”バンド”というものが浸透しなかったのですが、そのかわり、ブリティッシュ・ビートや、サイケ、ソウル、ハードロックは、ジョニーによって見事なまでに歌われていきました。彼の声はトム・ジョーンズのような大きなバリトン・ヴォイスなのですが、その声でワイルドにシャウトするんですが、でも、どんな曲にも対応出来る器用さも同時にあった。アニマルズの「朝日の当たる家」のカバーをうまく決めたかと思えば、この「失われた世代」と題された66年の最高傑作のひとつでは、「ラバー・ソウル」から「リボルバー」に至る頃のビートルズのサイケデリック・サウンドにソウルフルに挑戦しています。あの当時のロックの激動の変化にもちゃんとついて行けていたわけです。

 

 そして60年代後半にはジミヘンのカバーもヒットさせ、60年代末くらいになると、ザ・フーのロジャー・ダルトリーばりのハードロックのシャウターになります。この当時、ジョニーに曲を書いていたのが、のちにフォリナーで有名になるミック・ジョーンズでもありました。

 

 ジョニーはその後も、時代時代に対応したサウンドとパワフルな歌声で常にトップクラスの人気を保ちましが、ただ、時が流れれば流れるほど、大仰なロッカバラード調になっていき、なんとなく西城秀樹っぽい感じにもなっていきます。ただ、その人気は絶大で、それは2017年の突然の死まで続くことになりました。

 

 

次回、第2回は、おそらく来週の火曜あたりになります。

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 14:00
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