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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第10回(最終回) 2010's

どうも。

 

では、ワールドカップの開幕とともにはじまった「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」。今回でいよいよ最終回。最後はこういう並びです。

 

 

 まさに現在。2010年代の非英語圏のロックを紹介したいと思います。今の世の中、英語を母国語としない地域でおもしろいロックとは一体何か。早速行きましょう。

 

 

Matloob Zaeem/Cairokee(2011 Egypt)

 

 

まず、初めは、最終回にして初登場の国です。エジプト。カイロキーというバンドです。

 

「エジプトでロック」というのは、なかなか存在しなかったものです。エジプトではポップ・ミュージックそのものの歴史は古く、1910年代にはレコーディングが行われ、ウム・クムスームという女王みたいなシンガーがいて、彼女が70年代の半ばになくなるまで、いわゆるアラブ民謡みたいな曲しか受け付けない感じでした。その後、エジプトのポップ・ミュージックはモダン化はされましたが、取り入れたのはディスコであり、ロックでは決してありません。中東の場合、イスラム教が西欧文化を受け付けない傾向が強いので、その象徴とも言えるロックはなかなか受け付けられませんでした。

 

 そんなエジプトで、カイロキーのようなロックバンドが出てこれた背景には「アラブの春」があるようです。アラブの春とは、2000年代の終わりに、まずチュジニアで民衆が立ち上がって独裁政権を終わらせたのをキッカケに、その輪がアラブのイスラム教の国々に広がったものです。エジプトでも、30年以上独裁政権を続けていたムバラク大統領の政権に終止符が打たれます。

 

 カイロキーは、この「アラブの春」の際に一役買ったバンドとして知られています。2003年にカイロで結成された際は英語で歌っていたそうなんですが、やがて、「自分たちの国の言葉で歌おう」ということでアラビア語に切り替えたところ、ちょうど時代が「打倒ムバラク」に差し掛かっていました。彼らは政治色の強いメッセージ・ソングで民衆の心を打ちはじめるわけです。このアルバムにも入っている最初のヒット曲「Sout El Horeya」はその名も「自由の声」という意味で、これが「アラブの春」のある種のテーマソング的存在となります。これをキッカケにカイロキーは、アラブ圏内で最もダウンロードされるアーティストとなり、アラブのロックを代表するバンドとなりました。

 

 そんな彼らなんですが、サウンドの方は歌い方やメロディには多少アラブ・テイストが感じられなくもないですが、基本は「ビューティフル・デイ」から後のU2とかコールドプレイとか、21世紀に入ってからのフェスのヘッドライナーの一つの定番パターンでもある「良識優等生」な感じのタイプのアラブ版、という感じですね。ミディアム調の曲でのキラキラした感じのギター・ソロなんか特にそうですね。

 

 エジプト国内での自由な空気は、ムバラクを打倒した大統領の政権がクーデターで倒されるなど挫折もあったりはしますが、カイロキーは依然、facebookでのファンが250万人を超す大物バンドとして活動中です。

 


Outlaw Gentlemen & Shady Ladies/Volbeat(2013 Denmark)

 

 

 続いてデンマークに行きましょう。ヴォルビーツです。

 

 デンマークという国は、90年代に差し掛かる頃に、自国のロックシーンがかなり活発になります。以前、ここで紹介したDADを初め、ハードロック方面にもインディにもかなりの数のバンドが生まれています。90年代にもデンマークで記録的に売れ、日本でもブレイクしたディジー・ミス・リジーが出ましたし、00年代に入るとジュニア・シニアやレヴォネッツ、MEWといったインディ・バンドがイギリスでヒットしましたし、デンマーク本国でもレディオヘッドみたいなカシミールとかエレポップのネフューが国民的なバンドになりました。2010sでも、ソウル・バンド、ルーカス・グレアムが「7 Tears」の世界的ヒット・シングルを出しています。

 

 ただ、そんな中で最も国際的に成功したと言えるのはヴォルビートじゃないかな。彼らは区分こそラウドロックに入れられていますが、いわば「なんでもあり」なデンマークらしく、とにかく雑多な要素が彼らのサウンドの中には含まれています。だって、あえて言ってしまうとこのバンド「メタリカmeetsグリーン・デイmeetsエルヴィス&ジョニー・キャッッシュ」ですよ。「なんだ、それは?」って感じですよね(笑)。

 

 でも、実際、本当にそうなんですよね。彼らは、エルヴィスのモノマネも非常に上手なレザー・ジャケットのリーゼント野郎、マイケル・ポールセンがとにかく歌の上手い芸達者な人で、基本、グリーン・デイみたいな王道ポップ・パンクを骨太に歌いはするんですが、その昔にコピーでもしていたのか、時々思い出したようにスラッシュ・メタルをプレイしはじめ、さらにはウッドベースをバックにロカビリーのリズムをはじめ、ジョニー・キャッシュのごとく、「旅人の孤独」を語りはじめたり・・。ぶっちゃけ、こんなバンド、世界のどこにも存在しないし、「ここまでバラバラでまとまるの?」とも思うんですけど、不思議なことにちゃんと統一感もって聞かせられるんですよね。

 

 さらに言ってしまえば、どのアルバムもそこまで内容に大差もありません。一貫して同じようなことをやっています。デンマークでのローカル・バンドの時から、世界的に成功した今日でもそれは同じ。このアルバムは通算で5枚目で、今作でデンマークはもちろん、ドイツでも1位、スウェーデンやアメリカでもトップ10入りし国際的な足がかりを掴んだ作品なのですが、これも「いつも通り。ただ、他のアルバムより幾分ポップ」くらいなものです。芯がぶれない強烈な個性があれば普遍的な成功も可能、ということでしょうか。


Darmaduman/Duman(2013 Turkey)
 

 

 続いて、これも最後で初登場ですね。トルコで、ドゥマンというバンドを。

 

 実はトルコでは、2000年代にかなり大きなロック・ブームが起こっています。しかもそれがニュー・メタルのサウンドとファッションで起こってます。トルコには70年代から「アナトリアン・ロック」という、サイケデリックの影響を受けた独自のロックが存在してはいたもののシーンとして商業的に成功したかどうかが今ひとつよくわからなかったんですが、この年代のブームは本当に大きかったようで、モル・ヴェ・オテシやマンガといったバンドや、「トルコのエヴァネッセンス」みたいなゴス女王のシェブネム・フェラなどが人気です。こう言うシーンが起きた理由の一つには、ドイツにトルコ系の移民が多いことが関係してるようです。前回ラムシュタインのところで「ノイエ・ドイッチェ・ハルテ」の話をしましたが、おそらくドイツ経由で、このテのロックの人気がトルコに飛び火したんでしょうね。

 

 そんな勢力の中において、この四人組バンド、ドゥマンはひときわクールなカリスマ性で知られるバンドですね。彼らのやってるサウンドは直球のグランジ。彼ら自身もニルヴァーナやパール・ジャムからの強い影響を公言しているのですが、もうそのサウンドはあからさまに「トルコのパール・ジャム」。ヴォーカリストの歌い方もかなりエディ・ヴェダー風です。

 

 そんな彼らはやはり社会的なメッセージを歌詞に乗せることが多いのですが、彼らの名前を一躍世界的に広めたのが、2013年に3ヶ月続いた、イスタンブールでの反政府デモ。あの当時、世界的に話題になりましたね、これ。その際に、このアルバムにも収められることになるこの曲「Eyvallah」がプロテストのテーマソングみたいな感じになりました。

 

 

先ほどカイロキーのとこでも言いましたが、「ロックとは反抗の音楽」というのが一般社会的にはだいぶ風化した概念にもなりつつあるのですが、まだ地球上では、こうやって自由を求める人たちのアンセムとして機能しているところもあるのです。そして残念なことに、トルコでもこの後、政権は反動化してるんですよね。本当は、そうしたことで戦わないのが一番理想なんですが、まだロックのプロテストの力が必要かもしれません。

 

 

 また、このドゥマンですが、ライブに定評があるバンドとしても知られています。これまでオリジナル・アルバムが6枚のところ、すでに3枚のライブ盤を出しているほどです。

 

Raasuk/Mashrou Leila(2013 Lebanon)
 

 

 そして今度も中東、行きましょう。レバノンのバンドです。マシュルー・レイラ。

 

 レバノンという国は中東の中では変わった国でして、国民の4割がカトリックなんですね。そういうこともあってか、他のイスラム教の国より西欧文化とその流通に関しては寛容な感じがありますね。中東のセクシー女性のダンス・ポップといえばほとんどイコール、レバノンだし、ハリウッドのレッド・カーペットで女性セレブが着るガウンのデザイナーにもレバノンの人が結構います。そういうところゆえなのか、マシュルー・レイラのようなオシャレなバンドも登場します。

 

 彼らはアナログ・シンセを使って、サイケデリックかつエレクトロな独自のダンス・ポップを展開する、西欧でもほとんど見ない類のかなり独自のサウンドを聞かせてくれますね。特に、アラビア地方以外で弾かれることのないであろう、弦楽器の存在がかなりのアクセントをつけています。これまでのロックになかった「第三世界からの視点」がしっかりと根付いている感じがします。そうしたこともあり、ニューヨークのエレクトロ・ユニット、ハーキュリーズ&ラヴ・アフェアに目をつけられ、2017年に彼らのシングルにフィーチャリングされます。その縁で彼らを知った人も少なくありません。

 

 そうしたこともあり、彼らはアメリカでもツアーをしていて、こういうウェブ番組にも出ています。

 

 

このスタジオ・ライブの番組で、フロントマンのハメド・シノは冒頭でこう語っています。「この曲はベイルートのクラブで起こったマス・シューティングについての曲だ。この曲で僕は、男性優位主義や、彼らのLGBTの人たちについての態度について歌ってるんだ」と語っています。いくらレバノンはまだ寛容な方だとはいえ、それでも国民の大半がイスラム教の国なわけです。ハメド自身もオープンリー・ゲイなんですけど、彼はよく「中東社会において、LGBTで音楽活動を行うことがどんなに辛い事であるか」についてよくインタビューでも語っています。こうしたところにも、まだ戦いが残されているわけです。

 

 

Chaleur Humaine/Christine And The Queens(2014 France)
 

 

 続いてはフランスです。クリスティーン&ザ・クイーンズです。

 

 フローレンス&ザ・マシーンやマリーナ&ザ・ダイアモンズ以降、一見、「女性シンガーとバックバンド」と思わせつつ実は一人の女性アーティストのソロ・プロジェクトというパターンができていますが、このクリスティーン&ザ・クイーンズも、本名がクリスティーナでもなんでもない、エロイーズ・レティシアというフランス人女性のプロジェクトです。でも、今となっては彼女、「クリス」と普通に呼ばれてますけどね。

 

 そんなクリスがかなり面白い存在であると聞かされたのは、彼女がデビューして間もない2014年に、もう早速でしたね。その当時はまだフランスでしか音源を出していなかったんですけど、「本国ですでにブームになりつつある」と聞かされて気にはなっていました。それから時は過ぎ、2016年、このデビュー作は突如イギリスに進出し、なんと全英トップ10入りまで果たしてしまいました。しかもフランス語のままで!さらに驚くべきは、結果的に2位まで上がったんですよね。

 

 その快進撃の最中、ちょうど僕がストリーミング・サービスのケータイでの使用を覚え始めた頃でもあったので早速聞いてみると、かなり新鮮な驚きでしたね。鮮度の高いエレクトロ・サウンドでもあったんですけど、それがなくても十分に通用する優れたメロディ・メイカーとしてのセンス。そして、フランス語の鼻にかかったアンニュイな響きを最大限に利用したセクシャルにそそるヴォーカル。これなんて”ズルい”とさえ思いましたからね。この魅力があれば、英語でなくても十分通用します。

 

 さらに言えば、彼女、MVでもステージでも、常に曲に合わせてダンスを踊るんですけど、その世界観が完全にコンセプトになってて、ストーリー性とコアグラフ(振り付け)の調和が完璧なんですよね。マドンナ以降、いろんな女性ダンス・アーティストは出てきましたが、ここまで個人で考えられた踊り、なかなかないですよ。それを大かがりなプロジェクトでなく、1個人の脳内世界でDIY的にできてるところが彼女のすごいとこです。

 

 クリスですが、9月に2枚目のアルバムが出ます。先行シングルはもう2曲でてますが、いずれもかなり好評で、アルバムへの期待が高まります。

 

Hasta La Raiz/Natalia Lafourcade(2015 Mexico)

 

 

続いてメキシコに行きましょう。ナタリア・ラフォルカーデです。

 

メキシコではインディ/オルタナティヴ・ロックは盛んなんですが、それを支える勢力の一つに女性シンガーソングライターの存在があります。90sにフリエタ・ヴェネガスという女性が出て、同国だけでなく中南米(彼女の場合はブラジルも含みます)でもかなり人気なんですが、それ以降にエリー・ゲーラ、カルラ・モリソン、そしてこのナタリアが続いている感じですね。

 

 ナタリアは18歳だった2002年にデビューして、メキシコで一大センセーションになるくらいに話題になります。奇しくもこの頃、世界的にアヴリル・ラヴィーンのブームもあったりしています。「10代の女の子アーティスト」というのが話題になりやすかったんでしょうね。ただ、ナタリアの場合は、オルタナティヴ・フォークという感じで、その素朴さがウケた側面の方が強そうですけどね。

 

 彼女は音楽の方向性を一つにとどめることを好まず、ある時は自身のバンド、ナタリア&ラ・フォルケティーナ名義でロック・アルバムを出したり、前述のフリエタ・ヴェネガスと共演アルバムを作ったり、ボサノバっぽい作品を作ったりと、才能は誰もが認めるものの、なかなか本人単独名義での作品にフォーカスしなませんでした。ところが2015年に出したこのアルバムは、彼女のそうした多面性が、彼女の名妓の作品でようやくまとまり、極めて高い評価を得ましたね。彼女、声は昔から舌足らずの幼さが残る歌い方なんですけど、そういう少女性を残しながらもアーティストとしては成熟。アメリカのインディ・ロックでも通用しそうなシャープな音像に乗せ、中南米のあらゆるフォーク・スタイルを飲み込んだ曲の数々は大絶賛を受け、2015年のラテン・グラミーでは5部門を受賞。最優秀アルバムを受賞できなかったことがサプライズとして話題になったほどでした。本作は中南米のみならず、イタリアやスペインでもヒットを記録しています。

 

 彼女は常にスペイン語で歌うのですが、アメリカにもファンベースがありまして、KEXPみたいなインディ・ロック専門のラジオ局ではよく曲がかかっていたりもしますね。


Meliora/Ghost(2015 Sweden)

 

 

 続いてスウェーデン、行きましょう。ゴーストです。

 

 いわゆる”北欧メタル”、”スウェディッシュ・メタル”に関しては、それこそヨーロッパの「ファイナル・カウントダウン」の頃からあるので誰で代表させようかで迷いました。ある時期までは、スウェーデンでの圧倒的な評価の高さを考えて、90sのメロディック・デスメタルの雄エントゥームド(マニアックに聞こえるかもしれないけど、本国で唯一殿堂入りしているメタルバンドが彼らです)にすることも考えたんですが、今後、北欧メタル史上で最大のバンドになりそうな予感もして、僕自身も心から大好きなゴーストにすることにしました。

 

 彼らを最初に見たのは、2013年にテレビ中継で見たロック・イン・リオでした。いきなりテレビに映った、「スリップノットみたいな、骸骨の顔した司教、ありゃ一体、なんだ?」というのが最初の印象でした。しかも風貌の割にやっているサウンドは全然メタルっぽくなく、歌ってる人の声も極めて普通。「なんじゃこりゃ?」と当惑しましたが、今から考えたら、あれは本当に見る目のあった大抜擢だったと思います。

 

 そのあとに、デイヴ・グロールがシングルをプロデュースしたり、結構名前も聞くようになったので注目してこのアルバムを聴いてみたら、ちょっとした衝撃でしたね。このバンド、同じ「悪魔」をモチーフにしたバンドでも、70s前半のニューヨークのブルー・オイスター・カルトのような、「よくそんな細かいマニアックなとこに目をつけるな」といった感じの、ロック史を裏側までしっかり学んだ感じのある重箱センスが非常にくすぐりましたね。そう。もともとヘヴィ・メタルとは、やたらめったら激しい音楽というわけではなく、「悪魔をモチーフにした気持ち悪い音楽」なんですよね。今では忘れ去られそうになっったそうした事実にスポットを当てるという通な芸風を醸し出しつつ、ステージ上ではコスチュームに身を包むという極めてキャッチーな職人芸を見せる。しかも、このアルバムのプロデューサー、はクラス・アーランド。前回紹介した、エレクトロのRobynのプロデューサーですよ!エレクトロのプロデューサーに、オールドスタイルのロックをプロデュースさせることで、同じ古いサウンドでもどこか違うように聞こえさせる(確かに音のキレ、すごくいいんです、これ)。こうしたしたたかさはすごいなと思いましたね。

 

 このアルバムで彼らは北欧のみならず、ドイツやアメリカでもトップ10入り。6月に出たばかりの新作「Prequelle」は英米、スウェーデン、ドイツ、フランス、オーストラリア、スペインでトップ10入り。次代のメタル界の頂点に立ちそうな勢いがあります。

 


Amanecer/Bomba Estereo(2015 Colombia)

 

 

いよいよ残り3つ。次はコロンビアでボンバ・エステレオです。

 

現在、全米チャートウを見ていて、「非英語圏で最もチャートインしている国」は、K-Popの韓国もそうですが、それ以上のコロンビアのレゲトンですね。Jバルヴィンとかマルーマとかの。しかし、彼らを選んでしまうと、「ロック」という部分で明らかに引っかかる。R&B/ヒップホップでも、インディ・ロックの聞き手が納得しそうにないと、そうした判断は苦しいとこありますからね。

 

 それだったら、このボンバ・エステレオを選ぶ方が断然妥当でしょう。彼らはシモン・メヒアとリー・サムエットによる2人組なんですが、サウンド・メイキング担当の男性のシモンがもともと90sにオルタナティヴ・ロックバンドをやっていた人で、彼が作り出すエレクトロ・サウンドと中南米伝統のダンス・ミュージックを融合させたサウンドが特徴です。そのエレクトロ・サウンドにはEDM的な通俗的な妥協がない上質な音なんですけど、そこにはアフロ・キューバン的なワイルドなエネルギーに溢れている。テクノロジーと人間本来の肉感性が理想的な形で融合しています。

 

 そこに加え、女性ヴォーカルのリーの猥雑で力強いヴォーカルも武器ですね。声がただでさえエネルギッシュなんですが、そこ彼女の声から歌われるのは、「ブラウンのプライド」。つまり中南米に生きるラテン女性としての誇りで、このアプローチゆえに彼女は中南米女性のロール・モデルの一人にもなっています。

 

 彼らは南米のロラパルーザを始め、中南米のロック・フェスでは常連出演者で、去年はアーケイド・ファイアのブラジル・ツアーのオープニング・アクトも務めましたね。また、欧米のフェスでもかなりお呼ばれの回数が多く、さらにはラテン・グラミーのオルタナティヴ部門の常連にもなっています。

 

 なお、彼らのデビューを後押ししたのが、前々回で紹介したアテルシオペラードスでもあり、そうした良質の連鎖もしっかり受け注がれてもいます。

 


Clashes/Brodka(2016 Poland)

 

 

 ラストから2番目はポーランドから。ブロトカです。

 

 ブロトカは、女性シンガーソングライター、モニカ・ブロトカ率いるバンドですが、彼女の経歴が実に2000年代っぽいんですよね。彼女、キャリアの始まりはリアリティTVなんですよ。しかも、あの「アメリカン・アイドル」のポーランド版、その名も「Idol」のコンテスタントだったんです。

 

 

これはこの番組の第3シーズンで、この時、彼女、16歳だったんですけど、このドアーズの「ハートに火をつけて」のカバー、自己アレンジで、その年齢にしてはかなり見事に歌えてますね。彼女はその年齢で、このアイドルっぽい容姿ながら、かなりロックっぽい選曲にこだわったコンテスタントだったようですね。

 

 彼女はこの翌年にデビューし、すぐに国民的人気になりますが、ポップな売られ方に反抗して、2006年から10年にかけて押して2010年に復活するや、インディ・ギターロックも、エレクトロも、フォークもブリースもブッ込んだ、かなり先鋭的なアーティストになって戻ってきました。この「Granda」というアルバムで、彼女は国内チャートの2位まで上がり、ダブル・プラチナムの大ヒットを記録します。

 

 そして、その間にアメリカ進出も狙ったEPを作った後、2016年にこの「Clashes」を発表し、さらなる大きな成功を彼女は手にします。

 

 路線的には、「Granda」で築いたものはブレずに成長している感じなんですが、彼女自身が自分の体も使ってだんだんかなりアートになっていきます。

 

 

 彼女に関してはこういうジョークもあります。これは「彼女は一人で『ストレンジャー・シングス』の出演者の髪型を全部やった」というものなんですけど、とにかくヘアスタイルに関しては同じ髪型で止まることがほとんどありません。今はピンクのツンツンのヴェリー・ショートかな。ファッションも斬新で、とりわけこのアルバムのツアーで頭を剃った時にはフェイス・ペインティングして、やけにモードな想像上の和服(このジャケ写でなんとなくイメージできますが)を着て歌ってましたね。彼女はファッション誌からも引っ張りだこで、検索すればたくさんのファッション・シュートも出てきます。

 

 まだ30代になりたてと若いし、これから国際的に大きく注目されて欲しいです。 

 


23/Hyukoh(2017 South Korea)

 

 

 

 

 そして、いよいよラストです。最後を飾るは韓国でヒョゴです。

 

「韓国でラスト」というのは、昨今の非英語圏のポップ・ミュージックを考えた場合に、国際進出が最も著しいのが韓国だと客観的に判断したためです。前もこの話しましたけど、ちょうど。この101枚のリストを発表する直前にBTSが全米アルバム・チャートで1位になったので、それでシメることも考えないではなかったのですが、内容は悪くはないものの、でも、どう聞いてもロック風な解釈はできない。それに関しては、僕がK-Pop全体に感じているフラストレーションでもあります。R&B/ヒップホップをベースにしたポップスでも、でも、やりようによってはビヨンセくらいブッとばした、ロックよりも刺激的なこともできるんじゃないか。そんな風に考えるとK-Popって、完成度の高いものは作ってはくるんですけど、だけどひっくり返るくらい独創性のあるものがないんですよね。

 

 なので僕はあえて、他のK-Popのアーティストが集団でダンス・ポップをやる中、あえてエレキギターを手に取り、バンドをやるという選択をしたヒョゴを選んだんですよね。それ自体がなかなか気骨があるじゃないですか。

 

 さらに言うと彼らは、以前ここでも紹介した、韓国のポップ・ミュージックの潮流を大きく変えた、90s前半にミクスチャー・ロックを実践したソテジ・ワ・アイドゥルの元メンバーが運営するYGミュージック傘下のインディ・レーベルからデビューしてるんですよね。この後も、気鋭の精神性の後継が感じられます。YGって、そうじゃなくても、BIg Bangとか2NE1とか、K-Popの中でちょっと尖ったものやってる印象ありましたからね。

 

 そのヒョゴでしたが、出てきた当初はなんかマルーン5みたいというか、R&B/ヒップホップをやってる人たちのレーベルから出てくることを考えればそれらしい、でも、「それだとポップっぽくなって、ロックには聞こえないんじゃない?」と思える、ちょっとライトなアーバンっぽい曲を作ってました。ところがこのアルバムで全体的に彼らを聞くに、ちゃんとしっかりロックなんですよね。とりわけギターのセンスが好きですね。なんかブリットポップ期のギタリスト、ブラーのグレアム・コクソンあたりかな、そこに通じる鋭角さがあったりして。イム・ヒョンジェという人みたいなんですけど、いいギタリストだと思います。

 

 そして、そういうギター・ロックの上に、フロントマンのオ・ヒョクの清涼感のある高音のスモーキーな歌声と、ちょっとソウルフルなメロディが意外性ある組み合わせになって面白いケミストリー生むんですよね。また、その感じが、今年出たばかりの「24」というEPでは、さらにサイケデリックかつハードに進化もしたりして。彼らはまだ面白くなる気が僕はしてますね。

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 12:48
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第9回 1998-2008

どうも。

 

「非英語圏の101枚の重要なアルバム」、いよいよ残り2回となりましたが、最後から2番目はこんな感じです。

 

 

 今回は1998年から2008年までの10年について紹介しましょう。前回では、オルタナティヴ・ロックの存在が非英語圏でも定着したことを書きましたが、これがミレニアムから21世紀にどうなったかを書きたいと思います。

 

 

Gear Blues/Thee Michelle Gun Elephant(1998 Japan)

 

 

 では、まず日本から行きましょう。ミッシェル・ガン・エレファントです。

 

 日本のポップ・ミュージックの90年代ですが、すごかったと思います。表向きには「タイアップとV系の時代」のようにも一見見えた時代ではあったんですが、その裏のオルタナティヴな音楽文化がすごかった。渋谷系とタワーレコード、HMV、90年代前半だけならヴァージン・メガストアも加えていいと思いますが、外資系CDショップの乱立文化ができて以降、日本国内の、一般的なヒットチャートでは価値がはかることができない、まさにもう一つ(オルタナティヴの英語上の意味はこんな感じです)の音楽文化がいろんなジャンルで出来上がりましたからね。ロックだけでも、いわゆるインディ・ギターバンドだけじゃなく、メロコア、スカコア、ミクスチャーでそれぞれシーンがあったし、エレクトロでも、R&B/ヒップホップでもそれぞれシーンがあった。アメリカでのそれと比べて、足りてないシーンというのがなかったですからね。

 

 あの当時、優れたバンド、たくさんいたんですけど、一つ挙げるならこのミッシェルですね。国内シーンのここまでの層の厚さは、フジロックやサマーソニックの国内組を支え、さらにはライジング・サンやRIJといった日本のバンドのフェスを全国規模に広める役割を果たしたものですが、ミッシェルはその中で頂点の存在でしたね。とにかく、ロックンロール・グルーヴのスピードと切れ味と破壊力。そして、その爆音に込められた深い音楽的造形に裏打ちされた知性。これに関して言えば、あの当時、世界的に見て彼らのロックンロールはトップクラスのカッコよさでしたね。90sのグランジ/オルタナの時代に響かせても十分クールでしたが、今から振り返って考えても、2000sのロックンロール・リヴァイヴァルの時代をも先駆けたようなカッコよさがありましたからね。

 

 とりわけ、96〜98年くらいのミッシェルは客の熱気でライブ会場が破壊だの、これまでイス席しかなかった会場がオールスタンディングに変わるだの、全国のライブ会場に伝説を残していきましたが、頂点となったのは、このアルバムが出る数ヶ月前にやったフジロックでの炎天下での、6回だったかな。モッシュが崩れての中段騒ぎがありました。その時にチバユウスケが「お前ら絶対に死ぬなよ」って言ったんですが、あれは日本のフェスの黎明期に残る名場面でしたね。

 

 ミッシェルはこのアルバムで、シングル・ヒットも妥協もない音楽性で50万枚を売り、さらにはあの当時の日本の他の気鋭のアーティストと同じく海外でもアルバムをリリースして好評を博します。2000年にはブランキー・ジェット・シティと共にフジロックのヘッドライナーを飾りますが、日本人アーティストで同フェスのソレを務めたアーティストは今日に至るまで存在しません。それを考えても、どれだけ特別な存在だったかは明らかです。

 

 ミッシェルは2003年に解散しますが、その頃には、これまで”もう一つの”流れでしかなかったシーンはかなり一般的なものとなり、今では日本で”バンド”といえばインディ・ギターバンドっぽいイメージにもなっているようですけどね。ただ、それもやはり、あの90sの時のような巨大なマグマあってこそのものだと思いますけどね。

 


Agaetis Byrjun/Sigur Ros (1999 Iceland)
 

 

 続いてはアイスランド、行きましょう。シガーロスです。

 

 時代が21世紀に差し掛かる頃、彼らの登場もかなり衝撃的なものがありましたね。全編にわたって何語なのかさえわからない謎めいた言語を終始ファルセットで歌われるのもかなりミステリアスでしたが、それを、その歌声にピッタリな、壮大ではあるのだけれど同時にすぐに壊れてしまいそうでもある繊細でファンタジックな音像で築き上げた、まるでどこか他の世界からやってきたかのような不思議な音楽。初めて生で体験したのは2000年、富士急ハイランドで行われた時のサマーソニックで、冷房のない小さな体育館みたいなところで体操座りしながらでしたが、うだるような汗をかきながら、気持ちが昇天していたことをしっかり覚えています。

 

 この当時のシガーロスは、ちょうど「キッドA」の頃のレディオヘッドからも強く推薦されていたこともあり、「旧来のロックを解体して前に進める存在」として、かなり高く期待されていましたね。時代はちょうどポストロックの時代。アメリカでグランジ/オルタナティヴ、イギリスでブリットポップと、大きなムーヴメントが終わった後だっただけに、そのある種の失望感もあって、「どうやったらロックは現状を打破できるか」と、その先を求める一部メディアやファンからの期待を受けていたものです。

 

 ポストロックのブームそのものは、日本でとりわけ熱中した人が多かったですね。日本人の場合、音楽でもなんでも「型」を求めるタイプの人が多いし理屈っぽいところがあるからそうなりやすかったのかもしれません。ただ、観念的すぎてわかりやすさに欠ける音楽性ゆえか、あるところまでで行き詰まってブームそのものもいつの間にか終わっていたものでした。

 

 シガーロスが良かったのは、そうした理念だったりとか、計算されたインストとかとはかけ離れた、あくまで雰囲気だったりイメージで勝負できたバンドだったことですね。そこのところが、理屈で聞きたがる人以外に、もっと気楽に「ファンタジックで素敵な空気感」をインテリア感覚で感じたいような人にも強くアピール出来ましたから。これ、ビヨークもそういうところあったんですが、やはり「アイスランド」という、「北の果てのミステリアスな小さな国」、という地域の印象が彼らの音楽が持つ神秘性を印象操作で演出していたことは否めないですね。

 

 そして、このシガーロスの登場から後に、アイスランドからワールドワイドな活動を展開するアーティストは激増し、今や同国は、良質ポップ・ミュージックを求める人たちにとっての経緯の対象にまでなっています。

 

 

Zemfira/Zemfira(1999 Russia)
 

 

 続いてはロシアに行きましょう。ゼムフィーラです。

 

 80sに開花したロシアン・ロック・シーンですが、90年代の末から21世紀は完全に女性シンガー、ゼムフィーラの時代です。1976年に生まれた、ゼムフィーラはこんな感じの人です。

 

 

デビュから今日に至るまで、ほぼずっと、こういうイメージの人です。そんな彼女は、「ロシアン・ロック第2世代」というべき存在で、学校でクラシック音楽の英才教育を受けながら、同時に、ここでも紹介したキノーやアクアリウムといったロシアン・ロックの立役者を聞いて育ち、コピーもやっていたということです。当初はバスケットボールのロシアチームの中学生代表のキャプテンを務める程の腕前だったらしいのですが、やがて西欧のロックにものめり込む感じで音楽に没入したようです。

 

 ゼムフィーラは1999年にこのデビュー・アルバムを出すや否や、一大センセーションになり、そこからトップ・アーティストになります。その理由は幾つかありますね。一つは、彼女の書く曲の洗練され加減ですね。これまでロシアン・ロックって、かなりダークでモソモソ歌う印象があったんですが、彼女の場合は、極めてよく通って伸びるアルト・ヴォイスを生かしたスケール感の大きな、リズミックなロックを歌う印象があります。そして二つ目は、彼女が女性シンガーであったこと。これまでロシアのロック界というのは、かなり男性上位の世界で女性の入り込む余地がなかったらしいのですが、彼女がそうしたロシアのロックの地図を完全に書き換えてしまったようなのですね。

 

 あと、ゼムフィーラでもう一つ特筆すベきは、彼女がレズビアンであることがあります。彼女はレナータ・リトヴィノーヴァという、本国ではかなり大物の女優さんと長きにわたり恋愛関係にあることでも知られているのですが、プーチン政権下のロシアがLGBTに非常に不寛容であることはロシアW杯の際にも報道されてましたが、非常に悪名高いです。そんな世の中で、まず堂々とステージでユニセクシャルな雄姿で歌い、更に私生活でも信念を通す生き方を貫いているわけです。彼女が他の国のアーティストであったとしてもかなりロックなアティチュードだと思うのですが、それをロシアでやるわけですからね。2003年頃に、ロシアからは全世界的にブームになった少女デュオ、t.a.t,uが出ましたが、ああいう作り物でなく、筋の通った本物ならちゃんと存在したわけです。

 

Veni Vidi Vicious/The Hives(2000 Sweden)
 

 

 続いてスウェーデンです。ご存知の方も多いでしょう。ザ・ハイヴスです。

 

 2000年代前半。まだ、イギリスのメディアが「ブリットポップの次に来るもの」を模索していた時代に、ザ・ハイヴスはタイミングよく登場しました。「初心に戻ったアーティなロックンロール」、ロックンロール・リバイバルがザ・ストロークスやザ・ホワイト・ストライプス筆頭に起こり、それに気を良くしたNMEは当時、”ニュー・ロック・レヴォルーション”と称して、新世代バンドのイベントもロンドンでよく打っていたものでしたが、ザ・ハイヴスもそこに加わり、イギリスだけでなく、アメリカでもかなりの注目を集めたものでした。

 

 あの頃のメディアが言うには、この新世代のバンドは名前に古めかしい「The+複数形」を冠し、ドレスアップして、荒削りな音で短い尺のシンプルなロックンロールを演奏する、というものでしたが、ザ・ハイヴスこそはまさにその見本中の見本でした。実際、60年代っぽいスーツ姿で、あの当時のミック・ジャガーみたいなステージでの煽りとジャンプをしてましたからね。まさに”ひょうきん”という古めかしい表現がぴったりのギャグ連発のフロントマンと、汗っかきのデブ・ギタリストに、ハゲ&ヒゲの老けたベーシスト。それがゆえにコミック・バンド扱いされることも実際ありました。

 

 ただ、それでも彼らの存在というのはかなり斬新でしたよ。一見、シックスティーズの焼き直しをしてるようで演奏のベースにあるのはハードコア・パンクだったりするし、キレがあってダンサブルなグルーヴは、ヒップホップやエレクトロのアーティスト達からも気に入られていましたからね。実際、あの当時、ファレル・ウイリアムスとかティンバランドとは共演もしているし、彼ら自身の楽曲でもエレクトロの要素を加えた”これからのロックンロール”の姿も提示されていましたからね。ブームが去った後でも、グリーン・デイやアークティック・モンキーズのワールド・ツアーでオープニング・アクトの抜擢も受けてたりもするんですけど、どうもあの時の「時代の徒花」的に誤解されているのは僕としても非常に残念です。

 

 ただ、このアルバムの名曲「Hate To Say I Told You So」「Main Offender」「Die Alright」が普遍的なロックンロール・アンセムである事実は変わらないし、彼らとザ・ヴァインズ、ジェットの存在が、北欧やオーストラリアのインディ・バンドたちに世界進出の希望を与えたことも紛れも無い事実です。

 

 

Mutter/Rammstein(2002 Germany)
 

 

 続いてドイツ、行きましょう。ラムシュタインです。

 

 日本も実際そうだったし、全世界的に見ても、オルタナティヴ・ロックの台頭は、それ以前のヘヴィ・メタルと音楽の境界線をハッキリと分けた印象がありました。たとえそれが、メタルの影響が絶対にあると思われるかなりハードなサウンドでも、ヒップホップやエレクトロ・ノイズなんかが入っていた場合、それは”オルタナティヴ・ロック”と見なされ、メタルとはみなされませんでした。ただ、そうすることによってやがて矛盾も生じ、「やってる側の気持ちはメタルバンドのままなのに、手法が新しいからって、それがインディの文系のロックと一緒くたに語られるのは、それってどうなのよ?」と疑念を抱く人も2000年代に入るとかなり増えてきたものでした。

 

 ただ、ドイツはその辺りの事情の飲み込みが早かったようですね。この連載でも4回目くらいから入っているように、ドイツは70sからエレクトロやダンス・ミュージックの国でしたから、『メタルのバンドがエレクトロの要素を入れる』ことも何ら不思議なことではなかったようで、そこでこのラムシュタインみたいなバンドも出てくることになります。彼らは1997年にセカンド・アルバムを出した頃にはドイツでは最大の人気バンドになり、こうしたサウンドをドイツで人気にし、それはノイエ・ドイッチェ・ハルテ(ニュー・ジャーマン・ハード)と呼ばれる流れになりました。

 

 彼らと似たようなサウンドならアメリカでもナイン・インチ・ネールズやマリリン・マンソンも先にやっていたのですが、ドイツでは彼らはラムシュタインが当たった後にブレイクしてるんですね。さらにKORNやリンプ・ビズキットみたいなミクスチャー系のバンドもそれは同様です。なので、アメリカで”ニュー・メタル”とこの後に呼ばれるようになったサウンドがドイツではそのままノイエ・ドイッチェ・ハルテに当てはまるようになりました。

 

 このアルバムは、彼らが本格的に国際進出を目指したアルバムでしたが、かなり成功しました。この当時、何が驚いたかって、彼らがドイツ語の歌詞のままで世界的に成功したことです。メタルがどれだけ国際的になっても、「英語で歌う」ことがこインターナショナル・ヒットの絶対条件と思われていたところが、それを打ち破ったわけですからね。さらに、ここのシンガーの声と、ドイツ語のRの巻き舌が妙にクセになるんですよね。あと、とにかく炎が大好きな過激なライブ・ショーね。僕も一回見たことがありますが、もう一つの曲芸として立派なものでしたね。言葉の壁はあっても乗り越えるだけのアクの強さがあったということでしょう。

 

 その後、アメリカでは2000s後半にニュー・メタルがエモに人気を取って代わられ人気が下火になりましたが、ドイツでは相変わらずノイエ・ドイッチェ・ハルテは大人気で、今やドイツはニュー・メタル・バンド(オールド・メタルも同様ですが)の商業的な拠点となりました。ラムシュタインは2011年から活動を休止していましたが、現在、新作をレコーディング中みたいですよ。

 

 

Tocotronic/Tocotronic(2002 Germany)
 

 

続いて、今度もドイツ行きましょう。トコトロニックです。

 

ドイツのロックのメインストリームでノイエ・ドイッチェ・ハルテが大きなものとなった反面、文科系なインディ・ロックもその対抗馬としてかなり強いものとなります。それを支えたのが「ハンブルガー・シューレ」と呼ばれたシーンです。

 

 「ハンブルグ学校」という意味のこのシーンは、文字通り、「ハンブルグでのインディ・ロック・シーン」という意味でしたが、これは日本で言うところの渋谷系、アメリカで言うところのグランジ/オルタナ、イギリスで言うところのマッドチェスターからブリットポップを意味するインディ・バンドのシーンでした。このシーンはブルムフェルドというバンドをリーダー格にして、数多くのバンドを90sの半ばに生み出しますが、その中で最も商業的に成功したのがトコトロニックです。

 

 1993年にハンブルグの大学生4人で結成されたトコトロニックですが、当初は思いっきりその当時のUSインディ・ロック、そのまんまをやってましたね。ペイヴメントとかダイナソーJrとか、曲までソックリでしたからね。しかも、演奏は超ド下手。良くも悪くも「アメリカの最先端に憧れるドイツの学生」といった感じでした。ただ、それでも、もうドイツではその当時からコアな層にはカリスマだったんですよね。それだけ、センスの良さを買われていたということでしょうか。

 

 そして、僕が彼らの作品を通して聴いて、「ここがターニング・ポイントだな」と思ったのが、2002年リリースのこのアルバムですね。ちょうど、この前に初期ベスト盤が出てるんですけど、そこで気持ち的に一区切りがあったのか、ここからの作品はそれまでのような”ロール・モデル”を背後に感じさせる作品ではなく、彼ら独自のオリジナルなインディ・ギター・ロックが聞かれるようになります。この時点でようやくドイツのチャートでトップ10に入るようになってきたんですが、2000年代の終わりくらいには遂にドイツのチャートで1位を記録。今や、ドイツ、オーストリア、スイスのドイツ語圏では大物バンドになってますね。

 

 そんな彼らの最新作は今年の初めに出てまして、これもドイツで初登場1位を記録しています。

 

 

Ventura/Los Hermanos(2003 Brazil)

 

 

続いてブラジルに行きましょう。ロス・エルマーノスです。

 

ブラジルでも、2000年代には、「ラウド・ロック」と「文科系インディ」のバンドがハッキリ分かれるような状況になりましたが、後者の代表的存在がリオの4人組、ロス・エルマーノスですね。

 

 このバンドは1999年、「Ana Julia」という、ウィーザーのファースト・アルバムの曲に雰囲気が似たナンバーで、シングル・チャートの1位取るくらいに大ヒットするんですよね。それで勢い”一発屋”みたいな見られ方もされるときがあるんですが、彼らがアーティストとしての確かな成長を見せたのは、それ以降のアルバムです。

 

 そんな彼らの最高傑作と言われているのが、2003年発表のこのサード・アルバム。このアルバムはバンドの2人のフロントマン、マルセロ・カメロとロドリゴ・アマランテの二人の個性の台頭が著しいアルバムですね。マルセロはウィーザーぽさを持ってた人なんですが、甘美なギター・ロックのセンスを、よりシンガーソングライター的に職人的なポップセンスで細密画のように細かいアレンジの曲を作るようになります。それはギターのコード進行のセンスから、アナログ・キーボードやホーン・セクションのアレンジに至るまで。60年代のところで紹介したカエターノ・ヴェローゾみたいなセンスの持ち主ですね。

 

 一方、もう一人のロドリゴの方は、マルセロと似たようなセンスも持ちながらも、この当時に彼が傾倒していたザ・ストロークスのようなギター・ロックで強みを見せます。ストロークスのあのひび割れたようなギターとメトロノームみたいなスネアをそっくり自分のものにしているのに加え、歌声までジュリアン・カサブランカスにそっくりですからね、彼(笑)。実際、この数年後に彼は、当のストロークスのドラマー、ファブリツィオ・モレッティとユニット、リトル・ジョイまで組むほどになります。ファブリツィオも生まれ、ブラジルなんですけどね。

 

 彼らはブラジルのインディ・シーンでは誰もが認めるトップバンドになります。ライブでの熱狂ぶりとかすごいですよ。こんな感じですからね。

 

 

 

2000年代の後半、ブラジルからはCSSが登場し、日本でも人気でしたが、彼らの口からも「ロス・エルマーノスこそ最高のバンド」という発言が実際に出てましたからね。ただ、残念なことにエルマーノスは2007年に活動休止。以降はごくたまにツアーはやってますけど、作品は作らずじまいでソロでの活動が続いています。

 


Robyn/Robyn(2005 Sweden)

 

 

 続いてスウェーデンに行きましょう。Robynです。

 

 2000年代のニューヨークやロンドンをはじめとして、英米やヨーロッパだと、インディ・ロックで踊るクラブが、エレクトロを並行してかけて盛り上がる流れがありました。それは初期だとニューヨークのエレクトロクラッシュだったり、イギリスだとポストパンク・リバイバル以降のニュー・レイヴのバンドだったり、フレンチ・ハウスだったりしましたが、その中の一つにスウェーデンからのエレクトロもありました。

 

 その代表的なアーティストとしては男女デュオのザ・ナイフ(現在はソロ名義のフィーヴァー・レイとして有名か)がまず挙げられますが、こと人気で行ったらこのRobynの方が上ですね。

 

 Robynですが、彼女、元々はスウェーデンの人気アイドルだったんですよね。90sに10代でデビューしてて、当時からトレードマークのハイトーンのねちっこい歌い方そのものは同じなんですが、曲調は、あの当時のTLCとかモニカ、ブランディみたいなアメリカのR&Bみたいな感じだったんですよね。その頃、日本でもアルバムが出てたので耳にしてはいたんですけど、「スウェーデンだと人気かもしれないけどね」といった感じで、そこから先にウケるような印象はなかったですね。

 

 ただ、それがガラリと変わったのが、この4枚目のアルバムですね。ここでRobyn女は、サウンドを押し付ける前のレーベルと決別して、自分の求めるサウンドで勝負し始めます。彼女はこの頃のニュー・レイヴ系で人気のあったテディベアーズのクラス・アールンドをソングライティング・パートナーにつけ、硬質でクールかつ鋭いエッジの電子音に乗った、感情抑えめなエレクトロ・ポップを展開します。唯一感情的なのは、曲のサビ近くから顕著になる、彼女の喉から強引に振り絞られる、甘さと痛々しさの両方を感じるヴォーカルのみ。とりわけ、語尾の粘っこい伸ばし方は聞いててクセになります。

 

 このアルバムはイギリスで11位まで上昇し、「Who's That Girl」など4曲のシングル・ヒットが出たことで一躍国際的に注目されます。それはさらに、2010、11年にリリースされた2枚の連作EP(のちに合体しアルバムに)「Body Talk1&2」の批評的大絶賛され、エレクトロの世界では見逃せない女性になります。また、マドンナやケイティ・ペリーをファンにつけたことで、彼女らを通じてよりポップな方向性でファンをつかむことにも成功します。

 

 これ以降、ちょっと沈黙していたのですが、2018年、いよいよ新作が出るようですよ。

 


Le Dimensioni Del Mio Caos/Caparezza(2008 Italy)

 

 

 続いてイタリアに行きましょう。ラッパーのカパレッツァです。

 

 カパレッツァは「イタリアのエミネム」の異名をとるほどに、本国では物議とともに国民的人気のラッパーとして有名です。そんなカパレッツツァは、イタリアの片田舎、「南北問題」と言った時に必ず貧困が話題となる南部のプッリャ州出身。90年代に一度、別名義で「ラップもできるR&Bシンガー」みたいな感じでデビューもしていましたが、2000年代に入って、本性を現すべく、アルター・エゴ、”カパレッツァ”として生まれ変わります。

 

 ここから「アウロヘア&無精髭」が強烈なトレードマークとなったカパレッツァは、ユーモア感覚とともにイタリア社会や同国の音楽界をぶった切るラップで人気を獲得し始めます。2003年には既にイタリアのチャートでアルバムがトップ5に入るほどの人気になっていました。

 

 このアルバムは2008年に発表された、彼の最高傑作と目される1枚です。このアルバムはコンセプト・アルバムなんですが、これが良い意味ですっごく変なストーリーです。それは、よく言えばタイムスリップ・ラヴ・ロマンス。1968年にジミ・ヘンドリックスに狂っていたヒッピー女性ラリアが、ひょんなことでタイム・トラベルして2008年の現在に飛びます。そこでラリアはジミヘンと同じアフロヘアのカパレッツァに興味を持ちますが、カパレッツァも、まだイタリアが性大国だった60年代だった頃の感覚を持つラリアと出会うことで、今日の抑圧されたイタリアに疑問を投げかけるようになる・・・みたいな話です。そうしたコンセプト上の影響もあり、このアルバムではかなりハードロック・ギターのサンプリングが目立ち、トラックそのものもジャンルを超越した自由さが目立ちますね。さしずめ、2000年代前半の頃のアウトキャストに近い縦横無尽な自由さが溢れています。

 

 以後、カパレッツァはイタリアではカリスマ中のカリスマで、2017年後半に出た最新作を含め、ここ2作連続してアルバムがイタリアで1位を獲得しています。現在のイタリアを知りたいなら見逃せない存在になっていますが、そんな彼のリリックは、イタリアのポップ・カルチャーにかなり突っ込んだものでもあるとか。そうしたイタリアのサブカルチャーも知ってみたいですけどね。

 


Los De Atrás Vienen Conmigo/Calle 13(2008 Puerto Rico)

 

 

 今回のラストはプエルトリコです。アーティストはラップ・グループ、カイエ13(トレーセ)です。

 

 80年代にはロックがスペイン語を共通言語として中南米に拡大したという話はここでもしていますが、その20年後にはヒップホップで同じことが起きています。どこの国でもスペイン語によるヒップホップのシーンはありますが、その中で最も影響力を持っているのがプエルトリコのこの3人組です。

 

 彼らはラップ担当のレジデンテ、トラックメイキング担当のヴィジタンテ、女性バック・ヴォーカルのイレアナの3人から構成されますが、とりわけ注目されているのがレジデンテの社会的なラップですね。彼のラップ・スタイルはいわゆるギャングスタ・ウォナビーから距離を取ったもので極めて’珍しく(中南米はドラッグ・ディールの世界的な本場ですからね)、それよりはむしろ激しい社会批判や風刺に満ちたもので、その社会を見る目は常に高く評価されていますね。同時に「政治家になりたいか?」との問いには「そんな存在になってしまったら終わりだ」と語っているほど、「自分のやるべきこと」に対しての強い自覚を持っている人です。

 

 そして、ヴィジタンテによるトラックメイキングも秀逸です。彼はエレクトロやロックからサンプリング・ソースを持ってくるだけでなく、”ラティーノ・ヒップホップ”の自覚が非常に強い人で、サンバやサルサ、フォルクローレに至るまで、中南米の伝統音楽から引用を持ってくるのが得意な人です。

 

 3枚目に当たるこのアルバムでは、彼らのそんなラティーノ・アイデンティティが頂点に達した作品ですね。ここでは前回紹介したメキシカン・オルタナティヴ・ロックの雄、カフェ・タクーバ、そしてパナマが誇るサルサ王、ルーベン・ブラデスとの共演を行うなど、中南米の他のジャンルの大御所たちと組むことで、ヒップホップの枠を超えた新たなラテン・ミュージックの創造を行っています。

 

 このアルバムで彼らは2008年のラテン・グラミー賞で最優秀アルバムを含む5部門で圧勝。彼らはこの次のアルバム「Entren Los Que Quieran」では、マーズ・ヴォルタのオマー・ロドリゲス・ロペス、アフリカン・ミュージックのキング、フェラ・クティの息子セウン・クティと共演し、その視野をさらにグローバルに広げ、2011年のラテン・グラミーでは9部門を制覇する偉業を成し遂げています。

 

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 07:40
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第8回 1994-1997

どうも。

 

では、今日も「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、行きたいと思います。

 

今日は第8回目。こんな感じです。

 

 

1993年から97年の間の10枚ですね。

 

この頃になると、もう世界的にも「オルタナティヴ・ロック以降」という感覚が当たり前になり、ヒップホップやエレクトロのシーンも活性化していくことになりますが、非英語圏ではどのようなものが出てきたのでしょうか。早速、見ていきましょう。

 

 

Kauf Mich/Die Toten Hosen(1993 Germany)

 

 

 最初はドイツで行きましょう。ディー・トーテン・ホーゼンです。

 

 ドイツというのはロックの始まりがよその先進国より遅かったものの、クラウト・ロックから始まって、70年代のうちにはエレクトロの国、メタルの国になった話はしましたが、90sには同時に「パンクの国」にもなります。それを牽引したバンドこそ、トーテン・ホーゼンです。

 

 彼らの場合、結成そのものは80年代の前半で人気が出はじめるのが80sの後半です。なのでイメージとしては、日本におけるブルーハーツみたいな感じで、「時代的にちょっと遅れてブレイクしたパンクバンド」という感じでした。そうしたこともあり、90s以降に顕著になるメロコアのバンドと違って「型どおりのパンク」を必ずしもやっていたわけではなく、「パンクを基調に色々やってた」というのが実際には正しいです。

 

 そんな彼らがドイツで国民的バンドの座を確保したのが、通算で8枚目に当たるこのアルバムですね。このアルバムは全編通して資本主義社会への皮肉や、この頃すでに台頭しつつあったネオナチや極右思想への徹底した批判が展開されたコンセプト・アルバムで、パンク・オペラ的な要素をこの時期に展開していますね。

 

 彼らは90s前半にアメリカにも進出しているんですが、このアルバムのプロモーションの際に全米ツアーした際、前座で同行したのがグリーン・デイなんですよ。ちょうど、「ドゥーキー」を出すか出さないかの頃の。この両バンドはその後もツアーを行っていて、トーテン・ホーゼンが前座でワールド・ツアーしたこともあるくらいなんですが、もしかしたらグリーン・デイが「アメリカン・イディオット」を作る源になったのもトーテン・ホーゼンからの影響だったりするかもしれません。

 

 トーテン・ホーゼンは現在も、同じく大ベテランのディー・アルツテというバンドと並んで、ドイツのパンクを牽引しています。

 


And She Closed Her Eyes/Stina Nordenstam(1994 Sweden)

 

 

 続いてスウェーデンに飛びます。女性シンガーソングライターのスティーナ・ノルデンスタムです。

 

 1994年頃のスウェーデンといえば、もうすでにカーディガンズを筆頭としたスウェディッシュ・ポップが日本を皮切りに注目されつつあった頃ですが、この年に生まれたスウェーデンの名盤といえば、少なくとも本国ではこのアルバムで、同国のオールタイム企画では必ずトップになるアルバムです。彼女は「スウェーデンの音楽の殿堂」でも、2014年の第1回目の投票で最年少で殿堂入りしています。

 

 1969年生まれのスティーナにとって、これが通算2枚目に当たるアルバムなんですが、このアルバムが画期的だったのは、その「無音空間」の活かし方ですね。彼女は儚げでデリケートな吐息交じりの歌声をしているのですが、その美的な脆弱性を生かした声の出し入れが実に絶妙なんですよね。声の力がただでさえ強いのに、楽器の音数を極度に削り、無音になった後も沈黙を長めとってあるから、聞いててすごく緊迫感が高まるんです。「これ、いったいどう展開するんだろう?」と、聞いてるこちら側の注意を妙に刺激するんですよね。

 

 こういう作り方って、例えばビヨークでいうと97年の「ホモジェニック」以降に展開されるものでもあったりするわけですが、それより3年先駆けている上に、ビヨークほど難解で聞きにくいわけでもない。緊迫感溢れると同時に、ポップな大衆性のバランスもすごく取れている。その意味で、すごく絶妙な均衡の上に成立した作品でもあります。それは彼女自身のキャリアにおいても同様なようでして、この後、フォークトロニカ的な方向に発展して、エレクトロ色を強めたりもしますが、そういうことをする方がかえってありきたりになってオリジナリティが後退したりもしています。

 

 彼女は、一般露出をほとんどしないミステリアスな存在で、2004年以降はアルバムも出しておらず、楽曲自体も2007年から出ておらず伝説化してるといいます。果たして復活はあるのでしょうか?

 

 

Re/Cafe Tacvba(1994 Mexico)
 

 

 続いてメキシコに行きましょう。カフェ・タクーバです。

 

 このカフェ・タクーバこそ、メキシカン・オルタナティヴというか、ラテン・オルタナティヴの象徴的なアーティストですね。彼らを機に、スペイン語圏のロックのイメージが一転した印象があり、その新鮮さゆえに英語圏の国でも紹介され、日本でもアルバムがリリースされていたほどです。

 

 1992年にデビューした彼らですが、何が印象的だったかといえば、そのサウンドの折衷感覚ですね。彼らはメキシコのフォーキーな伝統音楽をルーツに持ちながらも、そこにパンクやスカ、ヒップホップにエレクトロ、時にはハードロックをも交えさせることのできる、いわば「ラテン・ミクスチャー」的な感覚を表現することができました。このセカンド・アルバムはそれができた最初の作品で、メキシコではリリース20周年の際に大きく再注目もされていましたね。

 

 これまでのメキシコのロックといえば、格好はすごくムサいメキシコ人っぽいセンスではあるんだけど、やっていること自体は割と英米のそれと変わらないオーセンティックなロックだったりすることが少なくなかったんですが、ここで展開されているカフェ・タクーバの場合は、メキシコらしさにしっかりと主眼が置かれつつも、その発展のさせ方自体は世界的にも先端を行くようなミクスチャー感覚で、しかもすごく文科系っぽいんですよね。しかも、すごくアーバンっぽくてオシャレでね。曲にもよりますけどボッサっぽいネオアコ調の曲とか、メロディカ使った渋谷系っぽい曲があったり。リードシンガーのルーベン・アルバランの高い鼻声も可愛らしい感じがするから、そこがまた、マッチョ臭くないオシャレっぽさを醸し出したりもしてます。

 

 彼らはこれを皮切りにメキシコ本国ではもちろん、中南米全般で非常に大きなバンドになり、2000年から始まったラテン・グラミー賞ではロック部門、オルタナティヴ部門の常連中の常連となります。それは彼らの実力によるところがもちろん最大なのですが、アルバム共同制作者のグスタヴォ・サンタオラヤという人も無視できません。彼は70年代からのアルゼンチン・ロックシーンの重鎮で、プロデューサーとして、アルゼンチン、メキシコ、チリの人気バンドを次々手がけるだけじゃなく、映画音楽家としてもアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画音楽の担当で受賞歴も多い人です。

 

 

In A Bar Under The Sea/dEUS(1995 Belgium)
 

 

 続いて、これまで紹介したことのない国、行きましょう。ベルギーで、dEUS(デウス)です。

 

 このdEUSですが、ヨーロッパ圏では2000年代には「ヨーロッパ大陸の大物バンド」として有名でしたね。日本ではそんなことなかったですけど、英語の音楽サイトなんかを調べると、無意識のうちによく見るグループ・ロゴでもあったし、「デカいらしいよ」というのは伝わってきましたね。

 

 ベルギーという国は小さいので地味ですけど、元々、片方はオランダ、もう片方はフランスの文化圏でもあったことからロックは早くから盛んで、とりわけ「スタジオ・ブリュッセル」という国営ラジオ局は、パンク/ニュー・ウェイヴ色の強いアートなロックを押すことで世界的に有名な局です。またロック・フェスも「ロック・ヴェルフター」という老舗のロック・フェスが70年代の半ばには存在して今日でも名物フェスとして知られています。

 

 dEUSはそんな状況から登場した、すごく、この国らしいタイプのバンドですね。イメージとしてなんとなく近いのはREMみたいなフォーク・ロック調のカレッジ・ロックバンドではあるんですけど、彼らの場合はそこにジャズやブルーズの要素も入れて、独自に実験的なことを展開していたバンドです。これがブレイク・スルーとなったセカンド・アルバムなんですが、およそポップな要素があるわけじゃないのにベルギーでは2位まで上がるヒットになり、イギリスでも70位台まで上がるヒットになってるんですよね。

 

 このアルバムに関してはプロデューサーが、キャプテン・ビーフハートのバンドの後期メンバーだったエリック・ドルー・フェルドマンで、ゲストにガールズ・アゲインスト・ザ・ボーイズやモーフィンといった、この当時のアメリカのインディ・ロックをかなり掘り下げた人じゃないと知らないマニアックなバンドのメンバーが参加するなど、その音楽への造詣ぶりに思わず脱帽してしまいます。

 

 彼らはこのアルバムの後にフランスやドイツでも成功するようになったことでヨーロッパを代表するバンドになりました。ただ、理由はよくわからないんですが、逆にイギリスでウケなくなったことで、英語圏にアピールするチャンスを失ってしまったのが残念でもありました。エレクトロとかロックンロール回帰とか、そういうトレンドになった方向性とリンクする方向に行かなかったからかな。

 

Fuzao/Faye Wong(1996 China)
 

 

 続いては、これも今回初めての国ですね。中国で、フェイ・ウォンです。

 

 90年代は、市場開放により、中国にもロックのシーンが生まれたことも話題を呼んだものです。これまでのパターンであれば、中国政府と戦ってきたタイプのツイ・ジェンみたいな人か、あるいはあの当時話題となった中国メタルあたりをやるという手もありました。ただ、僕自身があの当時に台頭した中国のロックをクオリティ的にあまりピンと来なかったこと。そして、中国本土ではないけれど、70sの時点ですでに香港ではロックっぽいアレンジの曲があって、すでに映画などで使われていたのも知ってもいたので、「中国のロックの初め」をどこに置くかがちょっと見えにくくなってしまったんですよね。

 

 僕としては、「中国のロックのはじまりがどこか」ということよりは、90sにおけるこの人のインパクトと存在感の方に惹かれていたのが事実です。それがフェイ・ウォンなんですけど、彼女の場合は、「こういうオルタナティヴな感覚の女性が中国にいるんだ!」ということがとにかく驚きでしたね。そのファッション感覚と存在感の独自性は、世界的に大ヒットしたウォン・カーワイの映画「恋する惑星」への主演で世界的に知られることになりましたが、彼女自身が歌ったクランベリーズの「Dreams」のカバーもかなり話題になりましたね。市場を解放したばかりの中国で、あの当時の女の子のオルタナティヴ・ロックで世界的にヒップなものの一つび見られていた存在に飛びつく感覚があるのかと驚いたものです。

 

 彼女はこうして急激に注目されたこともあってか、年にアルバム発表を乱発する傾向があり、聞くこちら側も、「どれが本当に力入れた作品なの?」と受け止めに困ることも少なくなかったのですが、アルバムで1枚ならこれでしょうかね。なぜなら、このアルバムで彼女は、自身の憧れのアーティストでもあるコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーが提供したオリジナル曲2曲をここで歌い、それがアルバム全体のイメージにつながっているから。ぶっちゃけて言って、「Dreams」のイメージには近いんですけど、あのカバーが単なる思いつきのものではなく、彼女が歌いたいイメージの根底にあった「儚げな透明感」とつながる必然的なものであったことをこのアルバムは示してますね。コクトー・ツインズは伝説のインディ・レーベル、4ADの初期のイメージを象徴するバンドとしてだけではなく、今や「ドリーム・ポップの元祖」としてインディ・ロック界隈での再評価が進んでいる最中ですが、このアルバムはそのドリーム・ポップの文脈でも名盤として評価されそうな感じがします。

 

 1999年の「ファイナル・ファンタジー」の挿入歌の大ヒットでヒップなイメージが後退して、その後、活動休止期間が長かったことで90sの時のオーラがちょっと忘れられている観もありますが、ちゃんと評価したい人です。

 

 

El Dorado/Aterciopelados(1996 Colombia)
 

 

 続いても、トンがった女性、行きましょう。南米のコロンビアのアテルシオペラードスです。

 

 今でこそ、音楽でも、テレビドラマでも、さらにはサッカーでも、ブラジルやアルゼンチンに負けない、もしくは勢いで上回ることさえあるコロンビアなんですが、そうした動きが始まったのは90年代に入ってからですね。音楽では、このバンドが非常に大きな存在です。

 

 

 この、ヴィデオの撮り方も、曲調も、ファッションも、もういかにも、90s半ばのアメリカのMTVでガンガン流れていたオルタナティヴ・ロックの感じそのまんまなんですが、このモダンさにおいて、アテルシオペラードスはコロンビアだけじゃなく、南米全体でも頭一つ抜けてますね。さらに言えば、このバンドのフロントウーマン、アンドレア・エチェヴェリの存在感ですね。デビュー当時はいかにもパンクスな坊主頭で、このセカンド・アルバムの際もツンツンの金髪の短髪だったですが、彼女が南米のオルタナティヴな志向の女の子たちのオピニオン・リーダーにもなります。

 

 これ以降、バンドは4人編成だったところからアンドレアとエクトル・ビタルゴによる男女2人組になり、サウンドも、アメリカ直系のインディ・ギター・バンドといったところから、どんどん中南米の民族色を濃くしていきます。それに伴いアンドレアのファッションもガラっと変わり、サイケ柄のヒッピーっぽい衣装に、腰までのロングヘアになってました。その時期が長いこと続いてたんですが、最近、ちょっとまた初期のパンクっぽさが戻って、アンドレアの髪型も「前から見たらカラーリングしたボブ、後ろは全部刈り上げ」という、かなり過激な50代に突入してますね(笑)。

 

 コロンビアからはその後、シャキーラやフアネスなど、ロックの影響を受けたポップシンガーが登場し、アメリカをはじめ世界的に成功していますが、そのための扉をこじ開ける役目を果たしたのもアテルシオペラードスです。実際、シャキーラはアンドレアから受けた影響を公言もしてますからね。

 

Roots/Sepultura(1996 Brazil)
 

 

 続いて、これも南米ですね。ブラジルです。

 

「セパルトゥラがブラジルのヘヴィ・メタル・バンド」ということ自体は、これが出る数年前から知ってはいました。この少し前から、この当時、NHKでラテン音楽の番組担当だった僕は、なんとなくブラジルのことが気になっていた僕は、ちょっとこのバンドのことが気になってはいました。ただ、思い切りデス声で歌われると、どうしても引いてしまう自分がいる。パンテラまでは聞けるようにはなってはいたんですけど、なかなか踏み切れずにいました。

 

 ただ、このアルバムが出る頃には、メタル系のメディアのみならず、インディのメディアまで結構褒めたんですよね。それで、「何事?」と思い、踏ん切りつけて聞いたんですけどこれが衝撃でしたね。これ、「ヘヴィ・メタルと、南米のポリリズムの融合」で、乱れ打ちされるラテン・パーカッションのグルーヴ感がなんとも心地よいんですよね。そこにダウン・チューニングされたヘヴィなギター・リフが乗るとさらにグルーヴィーで。

 

 あの当時、もう既にミクスチャー・ロックなるものはかなり盛んになってはいたんですけど、ここまでリズミックなものを聞いたのは、後にも先にもこれが最初で最後かもしれません。この数年後にスリップノットが、同じく複数の打楽器が生むポリリズミックなグルーヴをウリにして出てきはしたんですけど、セパルトゥラほど前のめりにはノレなかった。この差異に関しては、南米人の血によるところのものをなんか感じてしまいましたね。

 

 このアルバム、プロデュースを手掛けたのはロス・ロビンソンなんですよね。これと前後してKORNとかリンプ・ビズキットもプロデュースしてるんですけど、その都合上、それらのバンドメンバーも参加してますね。まだ、この当時は、こうしたロス・ロビンソン系の人たちもまだ音楽性で注目され、フレッド・ダーストが復古させようとした反動的なバッドボーイ・イメージはそんなに表面化してない頃でしたね。なお、打楽器で参加したカルリーニョス・ブラウンという人は、この当時ブラジルで人気のあったアシェーという、「モダン・サンバ」みたいな音楽のアーティスト兼プロデューサーみたいな立場の人でブラジルだと今もよく見ますね。

 

 こうして80年代半ばのデビューから10年かけて到達点に達したセパルトゥラでしたが、直後にフロントマンのマックス・カバレラ、2000年代の中頃に彼の弟でドラマーのイゴールが脱退してしまいます。セパルトゥラはメンバー・チェンジをして活動を続けていますが、このアルバムでイギリス、ドイツ、北欧、オーストラリアでトップ10に入った国際的成功が嘘のように、本国だと嘘みたいに小さい会場でライブしてたりと、ちょっと寂しい活動を継続しているのはすごく残念です。

 

 

Hai Paura Del Buio?/Aftehours(1997 Italy)

 

 

 続いてイタリアに行きましょう。アフターアワーズです。

 

 イタリアを扱うのは1981年以来なんですが、あげ損なっていただけの話で、この国にもニュー・ウェイヴのシーンはありました。同じ時期のスペインとか中南米、東欧、日本に比べるとやや規模が小さくはあったんですが、ゴス・バンドのジアフラマ(このバンドは最終選考まで残ってました。すごくいいです)をはじめ、いいバンドはいました。ただ、「イタリア国内に強力なインディ/オルタナティヴ・ロックのシーンを築いた」となると、このアフターアワーズの影響力が大きいです。

 

 このバンドですが、結成そのものは80年代のうちにされていて、デビュー・アルバムをリリースしたのは1990年です。ちょうど、アメリカでグランジ/オルタナティヴのバンドが結成され、最盛期を迎えていくのがこの時期なんですが、このバンドはそうしたアメリカのインディのシーンと歩調を合わせたような、ノイジーなインディ・ギター・サウンドを聴かせてくれます。

 

 5枚目に当たるこのアルバムは、彼らにとってのブレイクスルー・アルバムで、これで彼らはイタリアのオルタナティヴ・ロックのシーンに立ったと言っても過言ではありません。このアルバムですが、パッと聴いた感じだと「遅れてきたグランジ・バンド」の印象もないわけではなく、それはそれで完成度も高くカッコいいです。ポスト・グランジ的な鈍い音の塊で終わることな、う、かなり鋭角的にガリガリしてますからね。

 

 

 

さらに、彼らがある意味、アメリカのグランジ・バンド以上に優れていたのは「グランジの先にあるもの」を見据えたサウンドも展開できたことです。彼らの場合、尖ったギター・サウンドから離れることこそしませんでしたけど、楽曲のダークで空間的な広がりを持ったソングライティングということで言えば、この後のレディオヘッドに通じるものはある気がします。攻撃的な曲調も多くはあるものの、よりファンタジックな曲調の広がりもしていきますからね。これは本来、グランジのバンドがとるべき方向性だったと思いますね。

 

 そして彼らは、アメリカの同時代のコアなインディ・アーティストへの憧憬が非常に強いですね。2000年代に入るとアフラン・ウィッグスのグレッグ・ドゥリのプロデュースでアルバムを出してます。さらにドゥリが元スクリーミング・トゥリーズでQOTSAのフィーチャリング・シンガーでもあったマーク・ラネガンとプロジェクト、ガッター・ツインズを組んだ時にバックバンドも務めていたのもアフターアワーズですからね。こんなマニアックなバンドがイタリアで徐々に人気を上げていき、近作はアルバムが初登場1位になるほどの大物バンドになり、フォロワーも多く生み出している状況です。

 


Isola/Kent(1997 Sweden)

 

 

 続いて今度はスウェーデンに行きましょう。ケントというバンドです。

 

 90sの半ばから後半というと、ブリットポップの時代です。あの時代は同時に、イギリスでグラストンベリー、レディング、Tイン・ザ・パーク、Vフェスティバルの4大フェスが確立され、ヨーロッパ全土でもフェスをするようになったことから、イギリスの人気バンドって、ヨーロッパ全土で影響力を持ちやすくなったんですよね。そんなブリットポップに対するスウェーデンからの回答が、このケントですね。

 

 このバンド、何の情報もないまま、ただ黙って聞いたら、あの当時のイギリスのバンドと勘違いする人、少なくないでしょう。実際、このアルバムも含め、90sにはイギリス進出を狙って英語でアルバムも作っていましたからね。これ聞くと、レディオヘッドとかスウェードとかトラヴィスとか、あの当時のちょっと湿っぽいUKロックのバンドを思わせるようなところがあるんですが、このバンド、世代的にはそうしたイギリスのバンドと全く同世代だし、別にパクったわけじゃなく、たまたま同じ時期に似たような音楽性だっただけなんですよね。国が違って同じ世代だから「ものまね」と誤解されがちなんですけど、その当時にもしイギリス人としてイギリスで活動してたら、そこそこの結果を残せるバンドになっていたような気も、しないではありません。

 

 彼らはかなり早いペースで、遅くとも2年に1枚のペースで作品を出すものだから、ディスコグラフィを追うのは決して楽ではありません。で、そのアルバムが本国スウェーデンではことごとく1位になっていて、もう、かの国では押しも押されぬトップバンド。さらに言えば、ノルウェー、フィンランド、デンマークでも同様に高い人気を誇っているので、「バルト海周辺では神格化されたBSンド」になっています。なんか、マイティ・ソーみたいな感じですけどね。

 

 ただ、21世紀以降の作品は、エレクトロっぽくはなったけれど、全体的にアダルト・コンテンポラリーっぽくて刺激がちょっと薄いかな。「UKっぽい」と言われようが、この時期の作品の方が衝動とひらめきがあったように思います。

 


Homework/Daft Punk(1997 France)

 

 

 シメはフランスになります。ご存知。ダフト・パンクです。

 

 ダフト・パンクをはじめて聞いた時のことはハッキリと覚えてますね。1997年といえば、エレクトロのビッグ・イヤーですよ。プロディジーとかケミカル・ブラザーズを筆頭としたビッグ・ビートのブームもあったし、エイフェックス・ツインは変幻自在にカリスマだったし、ドラムン・ベースがホットなものとしてシーンを席巻中だったし。ポーティスヘッドとかのトリップホップも依然強かった。これまでロック一辺倒だった僕も、この時期はかなりエレクトロものを聞いたものでしたが、そんな中、ダフト・パンクの存在というのは全く異質でした。初めて聞いたのは「Da funk」でしたが、「なんだ、この脱力した、ヘナチョコな感じは!」と、意表を突かれた感じで驚きましたね(笑)。だって、これまでイギリス勢がとことんクールなイメージで攻めてきていたのに、フランスから、突如エイティーズに戻ったような、人懐っこいダサカッコ良いものが突然出てきたのだから。あまりにもタイプが違いすぎたので、それで頭から消えなくなりましたね。

 

 ただ、まさかここがフランスの新しい音楽ムーヴメントの台頭の始まりになったことや、フランスがエレクトロのシーンをリードするような存在になるとまでは全く予想もできませんでしたね。今、冷静にこのアルバムを聞き返すと、鋭角的で音のガッシリと太くて、エレクトロとしての完成度自体もしっかりしてたのがわかるんですけど、やっぱり彼らの場合は唯一無二の独自のメロディ感覚と、楽曲のコンセプトというか物語性。これらの訴える力が強いんだな、と言うこともこの時点でハッキリと分かります。それがより具体的なイメージを伴って社会現象に至るまでになったのは次作の「Discovery」や、2013年度のグラミー賞最優秀アルバムにまで輝いた「Random Access Memories」ですけどね。

 

 この翌98年には、ある時期まで彼らのライバルのように言われていた、ファンタジックでレトロなエレクトロ・デュオのエール、さらに2000年頃からは、ダフトの2人のかつてのバンドメイトで、ダフト・パンクの持つポップ感覚をバンドに還元したようなフェニックスが登場。彼らもその10年後には世界的なインディ・ギターバンドになリましたしね。さらには2000年代半ばには、ダフト・パンクの影響を直に感じさせるジャスティスのようなフレンチ・ハウスのブームがあったり、さらに同じ時期にカニエ・ウェストにサンプリングされる形でその影響はヒップホップにまで及んだり・・。社会的な影響力で考えた場合、90sの非英語圏アーティストで一番すごいかもしれませんね。

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 13:21
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第7回 1989-1993

どうも。

 

 

今日は本来なら全米映画興行成績の日ですが、こちらを優先します。「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」の7回目。

 

今回はこんな感じです。

 

 

1989年から93年にかけてですね。ちょうど、エイティーズまでの「華やかなるロックスターによるロック」の時代が終わり、ロックがよりオルタナティヴに新しい方向へと向かっていく時期のアルバムですね。どんな感じなのでしょうか。早速見てみましょう。

 

 

Blue Blood/X Japan(1989 Japan)

 

 

 まず最初は日本から行きましょう。X Japanです。

 

 ご存知の通り、何かと色々あるバンドですが、僕は全面的にでこそありませんが、ある程度の側面は評価してます。そのポイントのまず一つが、彼らが1989年当時の日本において、スラッシュ・メタル(「紅」)と、パワー・バラード(「Endless Rain」)と、これまでの日本のヒット曲のパターンになかった概念の曲を2タイプもヒットさせてしまったことですね。これは、その後の30年見ても、そこまで極端な例外ヒット出せたアーティスト、いないんじゃないかな。そこのところは当時から客観的にすごいことだなと思っていました。

 

 あと、同じ時期にガンズ&ローゼズも全盛期を迎えていましたが、両者に共通して言えることは、「セックス、ドラッグス&ロックンロールの美学を信じた最後のバンド」ということですかね。ロックンローラーがスキャンダラスで尊大で、日常に起こる一つ一つのことがことごとくドラマになった・・。そういう生き方を実践した洋邦の最後の両巨頭だったのかもしれません。

 

 彼らの場合、日本では、BURRN手厳しく批判されたために、ヘヴィ・メタルとして語られるのがタブー視みたいな感じになっていた時もありました。そこにメタルそのものの凋落と、本来脇役的存在だったhideのセンスが手助けとなって「V系」というアイデンティティで生きながらえたイメージがあったものですが、ただ、もう昨今の欧米での評価は完全に「メタル」ですね。それは2007年の再結成以降、遅まきながら達成できた海外進出の成功でも明らかです。欧米だと「パワーメタル・バンド」としての評価で、僕が2011年に縁あって見に行ったサンパウロ公演にきていた客層も日系人のV系のソレはほとんどいなくて、ほとんどが普通のブラジル人のメタル・ファンで、その人たちが日本語でバラード合唱してましたからね。あの光景、生で見ると、ちょっとした衝撃ですよ!

 

その後もドキュメンタリー映画「We Are X」のサントラが2016年にイギリスで23位まで上がったのをはじめ、世界的にヒットもしましたしね。80sのリアルタイムでならラウドネスがアメリカ、VOW WOWがイギリスに進出して成功も収めていたんですが、今あえてX JAPANの方を優先したのも、今日でのこうした欧米での評価があるためです。

 

 

Puta’s Fever/Mano Negra(1989 France)

 

 

 続いては、これは一応”フランス”ということになるんでしょうね。

 

 こういう言い方をしたのは、このマノ・ネグラを「国」という小さなカテゴライズの仕方をするのがふさわしくないからです。このバンド、生まれたところこそフランスですが、主要メンバーはキューバの血もひくスペイン系移民で、歌う言語もフランス語、スペイン語、英語の3つです。ここまで国際的に雑種なアーティストも、今回のこの企画では他にいません。

 

 その多国籍なキャラクター通り、サウンドも実に多様です。基本となっているのは一応はパンクですが、そこにはスカやレゲエも、アフロ・ファンクも、ヒップホップも、さらにはフラメンコまで混ざるという雑種ぶりです。とりわけ、このアルバムからのシングルになった「King Kong Five」なんかは、成熟度で言えばビースティ・ボーイズよりもむしろ早かったんじゃないかな。アイデアをただ提案するだけでなく、完成度もかなり高いものでもありました。

 

こうした音楽性は、ちょうど80年代前半にクラッシュが実践したものですが、彼らのボーダレスな音楽アプローチは本当に言語や国境を超えた場所や人々に影響を与え、こうして非英語圏から理想的な回答を得たわけです。このアルバムの10年近く後にクラッシュの中心人物ジョー・ストラマーはソロ作を出しますが、なんか「マノ・ネグラみたいだな」と思わせるものだったりしますからね。自分が影響を与えた人たちに、逆に自分が影響を受けたような趣さえあります。

 

 このマノ・ネグラですが95年に残念ながら解散します。しかし、中心人物のマヌ・チャオはソロに転じ、より民族音楽色を強め、今やフランスをはじめとした南欧ではチャートのトップクラスの成功を収め、英米でもヒットを飛ばすほどになっています。

 

 

Set/Youssou N’dour(1990 Senegal)

 

 

 続いてアフリカはセネガル行きましょう。ユッスー・ンドゥールです。

 

 80年代、ちょっとしたアフリカ・ブームが起こります。キッカケになったのはフェラ・クティやキング・サニー・アデと言ったアーティストがインターナショナル契約を行ったりしたからでしたが、彼らは英語圏のナイジェリアのアーティストなので今回は残念ながら対象外。しかし、同じくギニア湾近くのフランス語圏の国の優れたアーティストが、この時代に紹介され、アフリカ移民の多いフランスを中心にしてヨーロッパ中に広がっていきました。

 

 そんなアーティストの代表がマリのサリフ・ケイタであり、セネガルのユッスーでした。ユッスーの場合は84年に発表した「Imigress」というアルバムで注目され、その2年後にはピーター・ゲイブリエルのヒット曲、「In Your Eyes」でフィーチャリング・シンガーに抜擢され、一躍世界的にその名を知られることになります。

 

 ちょうどこのころ、ゲイブリエルもそうだし、ポール・サイモンがアルバム「グレイスランド」でアフリカ音楽に接近。さらにはアパルトヘイト反対運動も世界的な流れとなったために、アフリカにはすごくスポットライトが当たりやすくなっていたんですよね。

 

 そんなタイミングでユッスーも本格的にインターナショナルなキャリアを積んでいくことになります。89年には「The Lion」というアルバムで世界デビューを図ります。ただ、この「The Lion」があんまり良くない意味で西欧ウケするようにポップな味付けがされ、評判が良いとは言えないものだったんですよね。

 

 そこへ行くと、その次に出たこの「Set」は理想的なインターナショナル・アルバムでしたね。アフリカの民族音楽的なプリミティヴなエッジはしっかり残しつつ、それでいて単なる民族音楽で終わることもしない。そこにはロックやR&Bという、欧米社会の音楽要素が、甘口にならない程度に、欧米文化とうまい具合に溶け合う姿が表現されています。「らしさ」がありながらも、しっかりと聞きやすい作品となっています。

 

 ユッスーは94年にネネ・チェリーとのデュエット「7 Seconds」がヨーロッパ中の国でトップ5以内に入る大ヒットを記録。2012〜13年にはセネガルで大臣職も務めたりもしています。

 

 

Senderos De Traicion/Heroes Del Silencio(1990 Spain)

 

 

 続いてスペイン行きましょう。エロエス・デル・シレンシオです。

 

 80年代にスペインで一大バンドブームが起こったことは前回で語りましたけど、その総決算的な立場にあるバンドこそ、このHDSですね。「沈黙の英雄」という意味の名を冠するこのバンドは、デビューこそ80年代の終わりと、「ロック・エン・エスパニョール」のブームの後発組だったわけですが、セカンド・アルバムに当たるこのアルバムでシーンの頂点に立ち、メキシコ、アルゼンチンをはじめとした中南米ツアーも大成功。90年代前半はスペインと南米圏のトップバンドになります。

 

 彼らですが、このジャケ写しだけを見ると、この当時のメタル・バンドみたいに見えなくもないんですが、サウンドの方にメタル臭は皆無で、むしろ前回紹介したブラジルのレジアオン・ウルバーナみたいな、ちょっとザ・スミスみたいな繊細なアルペジオ・イターで、スケールの大きな歌いっぷりはU2のボノを意識した感じですね。いうなれば、「ニュー・ウェイヴのイメージのままでアリーナ・バンドを目指した」感じですね。そうしたことから彼らは、これも前回で紹介しました、アルゼンチンのソーダ・ステレオとの比較をかなりされてもいました。確かにヴォーカルの声、ソーダのグスタヴォ・セラッティに似た高音張り上げ系ですからね。

 

 HESは90年代半ばに4枚目のアルバムを出した後に解散。ヴォーカルのエンリケ・ブンブリーは97年からソロに転じますが、今日に至るまで、スペインのロックシーンでは常にリーダー格で、中南米でも作品を出せば必ずチャートの上位に入り続け、フェスでもヘッドライナーでい続けていますね。

 

 

Doctor Head’s World Tower/Flipper’s Guitar(1991 Japan)

 

 

 続いて、今度もまた日本で行きましょう。フリッパーズ・ギターです。

 

 彼らの存在は、日本で初めて本格的に「オルタナティヴなインディ・カルチャー」が生まれた瞬間だった気がしますね。もう、ロックそのものがすっかりメインストリームになってしまった後、バンドブームそのものがすっかり「ギターを抱えたカラオケ・ボックス」みたいになってしまい、そこに音楽そのものへの深い造詣や愛が損なわれていた、そんな1990年代前夜。東京の輸入盤文化で育った当時まだ大学生相当の年齢だった小山田圭吾と小沢健二の2人は、そうした動きを冷ややかに無視するかのように、自分たちのセンスを全開にさせたマニアックな音楽を開花させていました。そうしたアティチュードが渋谷系カルチャーの始まりでしたね。

 

 僕自身はこの当時、音楽的にこそそこまでのめり込みはしませんでしたが、この2人がやろうとしていることには共感してはいましたね。そこにはやはり、あの当時の狂騒的で表層的なバブル時代に対する徹底した違和感が根底に感じられたし「他人と同じことで安直に満足」しがちだった、あの当時の若者のマジョリティに対してのアンチテーゼはしっかり感じられましたからね。しかもそれを熱い方向性でやるのでなしに、すごく斜に構えて醒めた風にやるあの感じ。当時の2人のインタビューなんかでの毒吐きまくりの言動なんかも、今から考えれば形を変えたセックス・ピストルズみたいでスリリングでしたね。

 

 この3枚目のアルバムは、そんな彼らが到達した最高点であるだけじゃなくて、「日本ロック史における最大の早熟アルバム」として語られるべきものですね。だいたい、仮に音楽やってる大学生に、「ビーチボーイズとルー・リードとスライ&ザ・ファミリー・ストーンをサンプリングして何か作品を作るように」との課題を出したとして、このアルバム以上に独創的な作品を作ってくる人なんて、2018年までの27年もそうだし、今後も間違いなく出てこないでしょう。しかも彼らの場合は、そのサンプリング・ソースを自らピックアップもしているわけだからなおさらです。

 

 加えて、ワールドワイドに先進的なものへのキャッチアップが驚異的に早いですね。彼らは「パクリ名人」とも揶揄されていたわけですが、その元ネタそのものが、当のイギリス人でさえマニアくらいしか知らなかったようなものを即座に引用してきたわけでしょ。そんな鋭敏さ、それ以前にも、それ以降もないですよ。その結果、このアルバムのリリースが、元ネタの一つとされていたプライマル・スクリームが傑作「スクリーマデリカ」を出すよりも数ヶ月先のリリースになってしまったという、伝説的な事実まで生まれています。

 

 この早熟な2人はこの翌年には早くも解散。小山田はコーネリアスを通じて国際的に先進的なアーティストして評価され、小沢の方はその卓越した言語センスと時代感覚で、90s前半の日本のサブカルを象徴する寵児となりました。

 

 

Qui Seme Le Vent Recolte Le Tempo/MC Solaar(1991 France)

 

 

 続いてはフランスに行きましょう。MCソーラーです。

 

 90年代にヒップホップが強い勢力となったのはアメリカだけではありません。ヨーロッパでも、アメリカからの直輸入という形をとらない、それぞれの国の言語によるラップが自己表現として取り入れられ人気となります。そして、そのキッカケを作ったのは、やはり白人ではなく黒人であり、さらに言えば、フランスに移り住んだアフリカからの移民でした。

 

 その先駆者とも言えるのが元フランス領、セネガルからの移民であるMCソーラーですね。セネガルやマリといったギニア湾近くのフランス語圏の国というのはユッスーのところでも言いましたけどただでさえ音楽どころですが、そこの国民が宗主国だったフランスに渡って、黒人の間で強いヒップホップを流行らせるのは自然な流れではあります。

 

 このアルバムはそんなソーラーがリリースした最初のアルバムですね。驚くべきは、このアルバムがもう既に「ヒップホップ黎明期」的な、サウンド・プロダクションの粗い作品では全くなく、もう既にかなり完成された、いかにもこの時期の洗練されたヒップホップだったことです。イメージとしては、あの当時のトライブ・コールド・クエストみたいな、ジャジーなサンプリングを使った凄くクールな感じのトラックですね。このあたりは、50sのクール・ジャズがひときわ人気だったフランスっぽさも感じさせますね。

 

 フランスでのヒップホップ自体は、これから5年くらい後に国を挙げての大ブームがきます。ソーラーももちろんその中の一つだったし、トップ・アーティストとなったI AMなんかも、もうウータン・クラン直系といった感じでかなりの完成度でした。このフレンチ・ラップを皮切りに、ヨーロッパでもヒップホップが広がっていくことになります。

 

 

El Silencio/Caifanes(1992 Mexico)

 

 

 

 

 

続いてメキシコに行きましょう。カイファーネスです。

 

このカイファーネスは、エイティーズの「ロック・エン・エスパニョール」のブームと、90sのメキシカン・オルタナティヴのちょうど中間みたいな位置にいるバンドで非常に重要視されています。

 

 前回でも言いましたように、80年代にはスペインやアルゼンチンの人気バンドが積極的にスペイン語圏の国にツアーを行ったことで、スペイン語の大きなロック圏ができたのですが、それに影響されて再生した当時のメキシコのロックシーンの中で最もビッグになったバンドがこのカイファーネスですね。80sの後半にデビューした当初の彼らは「メキシコのU2」とも呼ばれ、その良心的なカリスマ性で人気を集めていました。

 

 ただ、92年発表のこのアルバムで、彼らはガラリとイメージを変えました。U2っぽさは一応残しながらも、もっとフリーキーな楽曲で、時には凄くメキシコのトラディショナルな雰囲気もだしたりもして。これ、プロデュースしたのがエイドリアン・ブリューなんですよね。ボウイのベルリン三部作の時のギタリストでもあり、トーキング・ヘッズや復活キング・クリムゾンでポスト・パンク風ギターを響かせていた鬼才ギタリストとしておなじみですが、彼がドラスティックなプロデュースをした成果もあって、このバンドが良い意味で捕らえどころがなくなり自由な表現ができるようになりました。国を代表する人気のバンドがここまでの実験を恐れずやることが凄く大事です。

 

 カイファーネスは95年に解散し、そのあと、リードシンガーのサウル・エルナンデスはハグアレスというバンドを組んでこれも成功していましたが、2011年に再結成してツアーやライブを時折やってますね。

 

 

Tostaky/Noir Desir(1992 France)

 

 

 続いて、今度もフランスに行きましょう。ノワール・デジールです。

 

 1992年といえば、もう世の中は世界的にグランジ(日本を除く)になっていましたが、フランスでその回答となったのがノワール・デジールだとよく言われています。このバンドは結成自体は1982年と古くて、パンクにレッド・ツェッペリンやザ・フーの影響なども受けたアグレッシヴなアプローチは予てから行われていましたが、まだロックンロールでウケていたフランスのバンドが前々回で紹介したテレフォンくらいしかなかったフランスでは、その人気に火がつくのは時間がかかりました。

 

 それを逆転させたのが1992年に発表した4枚目のこのアルバムですね。ここでの彼らは、ブルーズをベースにして、それをすごく鋭い音にしてハードかつパンキッシュにロックンロールしたんですが、それがグランジの世の中にすごくハマッたんでしょうね。このアルバムはフランス国内のチャートでは最高位が40位とそれほど高くないものでしたがロングヒットすることで人気を高めていきました。

 

 

 

これは僕もすごく好きな曲ですね。このアルバムはフランスのロックのオールタイムものだと軒並み上位なんですが、これが長く売れたことで、この次のアルバムの頃にはフランスでナンバーワン・アルバムを2枚連続で出すほどの国民的人気バンドにもなります。

 

 ただ、2003年、最悪なことが起こります。フロントマンのベルトラン・カンタが酔った勢いで、交際中だった女優のマリー・トランティニャンに暴力をふるい、その傷が原因で彼女が亡くなってしまうんですよね。マリーは、かのフランスの超大物俳優のジャン・ルイ・トランティニャンの娘でもあったわけなので、大騒動に発展します。この罪でベルトランは翌年に実刑判決を受け、2010年に出所しますがバンドはその年に正式に解散。ベルトランは昨年にソロ・アルバムを出しまして復活はしているんですが、やはり後味は悪く、実際の話、Me Too運動的に非常に苦しい立場にもなっています。起こしてしまったことに同情はしませんが、ロックの才能は本当にあった人だけにすごく残念な話です。

 

 

Tata Kazika/Kult(1993 Poland)

 

 

 続いてはポーランドに行きましょう。

 

 ベルリンの壁が崩壊した1989年前後、東欧で民主化が進みました。ポーランドももちろん例外でなく、前々回で語った労組「連帯」を率いていたレフ・ヴァレンサ氏(日本ではワレサ議長とも呼ばれていました)が大統領につき民主化を進めるなどの動きを見せました。

 

 ただ、ロックの世界に関して言えば、前々回のマーナムのところでも語ったように、80年代前半の時点で「四天王」が存在したほどのバンドブームを迎えていたポーランドは、民主化以降の90年代は、もはや「メインストリームに対するアンチテーゼ」、つまりインディ/オルタナティヴのカルチャーが進んだ時期でした。そして、その最大の裏カリスマこそがKULT(カルト)でした。

 

 KULTは結成自体は1982年と古いんですが、当時は堂々と放送禁止の過激な歌詞を書くことで注目され、80年代の後半にはアンダーグラウンドの人気バンドとなり、今回紹介するアルバムの一つ前の作品からナンバーワン・ソングが生まれ始める状況となりました。

 

 そして93年発表のアルバムで、彼らは押しも押されぬポーランドでのトップバンドとなりました。サウンドの方は、パンクを基調にはしていますが、楽曲の世界観はフロントマンの歌い方を含めトム・ウェイツで、歌われる世界観もそのまんま「三文オペラっぽいですね。そこのところは昔ながらのポーランドの妖艶な退廃美を象徴しているようにも思えます。

 

 KULTは20世紀を超えて現在に至るまで、アルバムは出せば常にチャートのトップを飾り、さらに言えばフロントマンのカジックのソロ・アルバムもずっと1位を取り続けるなど、ポーランドのロック界最大のカリスマであり続けています。これくらいアクの強い存在が国で一番売れるという状況というのもなかなか刺激的です。

 

 

Seo Taiji And Boys II/Seo Taiji And Boys(1993 South Korea)

 

 

 

 

 そして今回のラストを飾るのは韓国です。アーティストは、ソテジ&ザ・ボーイズ、ハングル読みだとソテジ・ワ・アイドゥルです。

 

 韓国でのロック史は1960年代から始まっていたとは聞きます。さらに言えば韓国のポップ・ミュージックのオールタイムでも、80年代のバンドが上位に入ったりもします。ただ、僕もそれらの情報を頼りに聞いてはみたものの、なんか日本におけるニュー・ミュージックみたいというか、その域にまでもいかない感じで、まだ80年代までなら「ロックはまだ難しいかな」と思える瞬間も決して少なくなかったです。

 

 そんな韓国がポップ・ミュージックの立場を一気に逆転させる契機が90sの前半に訪れます。それがソテジ・ワ・アイドゥルでした。彼らは90sの初頭に、当時アメリカでかなり人気に火がつきつつあったR&Bやヒップホップのサウンドを韓国のポップ・ソングに大胆に取り入れ、結果的にそれが韓国のポップ・ミュージックそのものを大きく変えてしまうことになります。

 

 とりわけ、93年に発表されたこのセカンド・アルバムからのシングル「ハヨガ」の存在は極めて大きなものでした。

 

 

 これ、この当時、友達から聞かされた時、衝撃受けましたね。だって、この当時、日本でレッチリとかフェイス・ノー・モアって本当に限られた人しか聞いてなかった時代に、韓国では、ハードロックをサンプリングしたミクスチャー・ヒップホップが200万枚を超えるヒットになってたんだから。日本でのドラゴン・アッシュのブームの5年も前にですよ。これは驚きましたね。オケヒットの連打だけが、あの当時の日本のビーイング系みたいで、メロディもどことこなく韓国歌謡っぽくはあったんだけど、あまりにも大胆に攻めた楽曲アプローチは今聴いてもかなり新鮮です。

 

 実際、韓国ではこれ以降、アイドルがアメリカの最新型のR&Bやヒップホップを意識したポップスを歌うことがお家芸となりました。そう考えると、ソテジのこれこそが、現在につながるK-POPの扉をこじ開けたんじゃないかという気もします。

 

 それもそのはず、メンバーの一人だったヤン・ヒョンソクは96年の解散以降にプロデューサーに転向し、YGエンターテイメントを立ち上げます。そこでBIG BANGや2NE1などを成功させ、K-POPブームを牽引したわけですからね。既にその種子はこの時点で蒔かれていたのです。

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 11:03
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第6回 1985-1988

どうも。

 

では、「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、6回目行きましょう。こんな感じです。

 

 

今回は、1985年から88年にかけての10枚。世界的にバンドブームが起こった時期です。この頃にはどういうアーティストが活躍したのでしょうか。みてみましょう。

 

 

 

BOOWY/BOOWY(1985 Japan)

 

 

 まず最初は日本からです。ご存じBOOWYですね。

 

 80年代後半、日本で空前のバンド・ブームが起こります。人によっては80年代突入直後の東京ロッカーズを重要視したり、80年代半ばの”インディーズ御三家”を神格化したりはするものですが、リアルタイムを生きてきた感覚からして、それは「当事者」には大きかったかもしれませんが、「それによって全国の少年少女がギターを持ったか?」ということになると、残念ながらそのような事実はありません。実際にその、いわば「革命」を起こしたバンド、それはBOOWYでしたね。

 

 忘れもしません。1986年。僕が高2の時です。福岡の高校でしたが、高校の文化祭で、前年までコピーバンドのステージは9話方洋楽で当たり前でした。それがこの年にいきなり邦楽が大逆転を起こしたんですよね。その時にほとんどのバンドがコピーしたバンドこそ、このBOOWYでした。

 

 彼らに関してはこの86年の後半に出した「Beat Emotion」というアルバム、またはそのさらに翌年の「Psycopath」というアルバムからの、それぞれ「B.Blue」、「マリオネット」のシングルの成功で一気に現象になった印象があったのでそちらを選んでもよかった気もします。しかし、あの頃の学祭のバンドもそうだったし、その後に一般に聴き継がれているBOOWYナンバーが最も多いのが、85年の前半に発表された、このサード・アルバムでしたね。

 

 実際、このアルバムはBOOWYにとっての大きな分岐点でした。これまでも東京の一部ではそれなりの集客を集めるも、それをア温源の形でうまくパッケージできていなかった彼らが、名プロデューサー、佐久間正英との出会い、そして彼とのドイツのハンザ・スタジオでのレコーディングにより、ニュー・ウェイヴ・ギターバンドらしいソリッドさと、そこに乗るにはややギャップもあった、歌謡曲的なメロディ。このコントラストを絶妙に生かした独自のロックンロールを生み出しました。

 

 これはすぐに人気に火がついたわけではなかったですが、「Dreamin'」「ホンキートンキークレイジー」「Cloudy Heart」といった楽曲は口コミで愛されましたね。そして忘れちゃいけない「Bad Feeling」。この曲のイントロで弾かれる布袋寅泰のファンキーのカッティング・ギター。これはこの当時のバンド少年たちにとっての一つの登竜門みたいなフレーズにもなっていましたね。このアンセムの詰まったアルバムから、翌年前半のアルバム「Just A Hero」を経て、前述したようなセンセーションを巻き起こしていくわけです。

 

 彼らはシングルがチャートの1位になり始めた矢先の87年暮れに突然解散を発表してしまいますが、80年代いっぱいまで続いたバンドブームの中心的存在であり続け、その痕跡は90s以降になってもヴィジュアル系にも一部継承され続けることになり、氷室京介、布袋の双頭も長きにわたりソロで影響を与え続けていくことになります。

 


Hunting High And Low/A-ha(1985 Norway)

 

 

続いてはノルウェーに行きましょう。a-haです。

 

80sという時代は、この当時に台頭したMTVの存在によってミュージック・ヴィデオの時代になり、それを通じてニュー・ウェイヴのアイドル・バンドが多数生まれた時代ですが、それの総決算とも言えたのが、この北欧の3人組でしたね。漫画と実写の2つを駆使したロマンスのヴィデオで、「テイク・オン・ミー」は一躍世界的人気となり、ヴォーカルのモートン・ハルケットも一躍国際的なハートスロブになりました。

 

 また、そんな彼らが「ノルウェーからやってきた」というのも、当時はやはりかなりのインパクトがありましたね。この当時、MTVを通じて、メン・アット・ワークやインエクセスといったオーストラリアのアーティストが紹介され、ネーナのようなドイツのアーティストが全世界のチャートでトップ争いを演じた後に現れたのが、これまでヒットチャートにおいて存在を聞いたことのないノルウェーのバンドだったわけですからね。「おいおい、なんだそれは」ということにもなったわけです。

 

 a-haの場合、今日でもそうですが、「テイク・オン・ミー」の印象があまりに大きかったが為に「一発屋」だと誤解されている節があるのですが、それは全く違います。一発屋どころか、彼らはこの当時の世界が誇る屈指の国際的ヒットメーカーです。このアルバムだけでも「The Sun Always Shines On TV」「Train Of Thought」「Hunting High And Low」と4曲のシングル・ヒットがあります。音楽性にしても、ただのエレポップでは決してなく「The Sun .. 」に見られるドラマティックな展開から、タイトル曲でのメランコリックなバラード路線まで多彩です。とりわけメランコリックな曲調は後年色濃くなってきます。

 

 このアルバムを筆頭に、少なくとも3枚目のアルバムまでは、アルバムごとに3、4曲はヒットを出していたし、その間にも007の「リヴィング・デイライツ」の主題歌もありますしね。少なくとも10曲以上はヒットがあるわけです。さらに、90sに活動を休止した後に2000sに復活しますが、その後もドイツや北欧では1位を獲得しているしイギリスでもトップ10アルバムは出してますからね。その意味で彼らは「エイティーズが生み出した一発屋」ではなく「MTVが開拓したグローバル・スター」なのです。

 

 

Dividido Por La Fecicidad/Sumo(1985 Argentina)

 

 

 続いて南米に行きましょう。アルゼンチンです。

 

 日本がバンドブームに沸く頃、その地球の真裏の国、アルゼンチンでもバンドブームが起きていました。この国では、イギリスとのフォークランド紛争の後、70年代からの軍事政権が破綻を起こして崩壊。民主政治が戻っていましたが、その「自由になったぞ」という開放的な気持ちから、多くのバンドが登場し、自己表現していきます。

 

 とりわけ強かったのはパンク/ニュー・ウェイヴです。70sには以前紹介したアルメンドラやセル・ヒランのように、フュージョンやプログレの影響の強いものが目立っていたのとはやや対照的ですが、それを牽引したバンドにスモーというのがありました。

 

 スモーは、ルカ・プロダンという、坊主頭のルックスてきにはかなりイカツい男性が結成したバンドなんですが、彼はもともとアルゼンチン出身ではなく、元はロンドンの育ちです。70年代にはパンク/ニュー・ウェイヴの洗礼を受け、その頃にレコード会社、EMIだったみたいですが、勤務もしていました。

 

 そんなルカは81年に友人を頼ってアルゼンチンにわたりますが、そこでスモーを結成。85年にはこのアルバムを出すことになります。なお、このスペイン語で「喜びに引き裂かれ」というのは、かのジョイ・ディヴィジョンを意識したものです。

 

 このアルバムでスモーは、アフロ・ファンクやレゲエといったワールドビートを展開しますが、これもこの当時のトーキング・ヘッズやザ・ポリスの流れを受けたものだと思わされますね。日本でじゃがたらみたいなバンドが出たのとなんとなく通じるものを感じさせます。この彼らが放つグルーヴなんですが、ベースがかなり太めで腹にグイグイ食い込む感じでなかなかカッコいいんですよ。かなり本格的なファンクで、ホーンのアレンジなどもかなり完成度の高いしっかりしたものですね。そして歌詞は基本スペイン語なんですが、ルカのもともとの言葉である英語でも歌われます。

 

 彼らは87年までに3枚のアルバムを出していましたが、その矢先、87年のクリスマス直前に、ルカは突如、肝硬変を原因とした心臓発作で、34歳の若さで他界してしまいます。これで彼らの存在は伝説となってしまいました。

 

 なお、スモーという不思議なバンド名は、ルカのお父さんが中国の陶器関係の仕事をしていた関係で、幼い頃から東洋の文化に興味があったためのようです。それが高じてか3枚目のアルバムのジャケ写は

 

 

このように小錦だったことでも知られています。これ、その当時、日本でニュースになってた記憶がかすかにあります。

 

 

Signo/Soda Stereo(1986 Argentina)

 

 

 

続いてもアルゼンチンです。ソーダ・ステレオ。

 

このバンドに関しては、「アルゼンチンの」というより、「スペイン語圏の大物」といった方がいいかもしれません。というのはですね、80sにロックってスペイン語圏では非常に強いものになりまして、それは「ロック・エン・エスパニョール」という動きにもなりました。それを率先したのはそもそもスペインのバンドで、彼らはメキシコやアルゼンチンの公演でも成功を収めたのですが、これに他の国の人気バンドも旨みを感じ、自国での成功後に中南米にツアーの規模を広げてビッグになっていきました。

 

 ソーダ・ステレオはこの恩恵を最も受けたアルゼンチンのバンドで、86年に発表したこのサード・アルバムの成功後に中南米に本格進出して巨大なバンドになりました。ただ、そうなるだけの理由はしっかりありました。

 

 

 

ルックス的には思い切り時代は感じさせますが、ただ、このバンドのフロントマンのグスタヴォ・セラッティの歌唱力とミュージシャンシップの高さといったら見事です。ハイトーンをここまでコントロール良く力強く伸ばせるシンガーって世界的に見てもそうはいないし、彼らは根本が3ピースなんですが「南米のザ・ポリス」と呼ばれたくらいに演奏も上手いし、サウンドの方も、かなりの音楽知識に裏打ちされたグスタヴォのソングライティング能力ゆえに同時代の英米のニュー・ウェイヴ・バンドのそれと比べても遜色ないくらいですからね。

 

 このアルバムは彼らのニュー・ウェイヴ路線での最高傑作でいい曲がたくさん詰まったよいアルバムなんですが、これ以降もですね、例えば1990年の時点でアメリカでのグランジ・ブームに先駆けたアルバムを作っていたり、90sにはシューゲイザーやマッドチェスター的なものに対応していたりと、英米でのムーヴメントでのアンテナもすごく立てていたバンドだったんですよね。世が世なら、英米圏にも進出できてたんじゃないかな。

 

 ソーダ・ステレオは97年に活動を休止しますが、グタタヴォはソロとしても成功と高い評価を獲得します。2007年にはソーダの一時的再結成も行いますが、2010年、心臓発作を起こし、4年の昏睡状態の末、2014年に55年の短い生涯を閉じました。

 

 

Pop Satori/Etienne Daho(1986 France)

 

 

 今度はフランスで行きましょう。エティエンヌ・ダオです。

 

 フランスはこの時期はニュー・ウェイヴ系のサウンドの強い時期で、そこを起点として多くの新しいアーティストを生んだ時期でしたが、エティエンヌもその一人で、81年にデビュー以来、ヒットを連発し、まさにこの時代の申し子と呼んでもいいような活躍をしています。

 

 彼の特徴としては、シンセ・ポップを皮切りとして、それ以降のエレクトロ・ミュージックの進化に合わせて自分の音楽性も発展するという、イギリスでいうとニュー・オーダーみたいなタイプのアーティストでありつつ、同時にセルジュ・ゲンズブールや、フランスで人気のあるチェット・ベイカーみたいな屈折した味のあるジャジー・テイストの雰囲気や歌や声に持ち続け、そこを強いアイデンティティにしています。そういう理由からか、フレンチ・ポップの重鎮たちからも愛され、85年にフランソワーズ・アルディと共演したのを始め、彼女の夫でもあるジャック・ドゥトロンクやジェーン・バーキン、シルヴィ・ヴァルタン、ブリジット・フォンテーヌなどとの共演でも知られています。

 

 この86年に発表のアルバムは、その彼が最初に放ったビッグ・ヒット・アルバムで、フランスでの初のトップ5かつプラチナ・アルバムとなった作品です。世界的に見て、この当時でも屈指のクオリティを持つシンセ・ポップ・アルバムとなっていて、それこそニュー・オーダーとペット・ショップ・ボーイズの間をつなぐようなセンスに、独自のか細さを持つセクシーな彼の歌声がそこにワン・アンド・オンリーの色気を添えています。

 

 エティエンヌは90sに入り、セイント・エティエンヌに代表曲のひとつを「He's On The Phone」の曲名でカバーされ、イギリスで11位まで上がるヒットとなったほか、フランスのエレクトロの後輩にあたるエールからリミックスされるなど、インターナショナルなアピールも続け、むしろ2000sに入って人気をさらに上げています。

 

Dois/Legiao Urbana(1986 Brazil)

 

 

 今度は再び南米に戻りましょう。ブラジルです。

 

 80年代の南米というのは、60年代から続いていた、アメリカ主導の「キューバのような国になるのを避ける為」という名目上での右翼軍事政権が、本来の目的を見失ってただの圧政となって国民からの反感を買って破綻して崩壊した時期でもありましたが、それは1985年に同政権が終わったブラジルでも同様でした。そして、前述のアルゼンチン同様、解放感に溢れた若者から、怒涛のロック・バンドの台頭が起こり、一大ブームを巻き起こしました。

 

 レジアオン・ウルバーナはその中でも最大のバンドでした。出身はブラジオリア。1960年に、それまで何もなかった田舎に突如作られた人工的な新首都はしばらく何の文化も持ちませんでしたが、彼らが登場したことによって「国内のロックの都」というアイデンティティを持つに至りました。

 

 彼らはヘナート・フッソという、一見、「この人がロックスターなの?」という風貌を持ったカリスマてきフロントマンをようしたバンドです。メガネにヒゲの小柄な男性で、ステージでは花を持って歌う、ややゲイがかったアクションもする。そう聞くと、モリッシーみたいでもありますが、実際にこんな感じです。

 

 

 思いっきりザ・スミスでしょ?でも、これをスミスが「クイーン・イズ。デッド」を出して、まだ世界的にどこの国でもカルトスター扱いだった頃に、ブラジルではこれが国で最も売れる音楽だったわけです。その先進性には驚かされるばかりです。

 

 このアルバムは、そんな彼らが86年に発表したセカンド・アルバムで、スミスやU2に影響を受けた憂いを秘め他プロテスト・ソングから、ブラジル社会のリアリティを反映位した寓話的なナンバーを収めた、ヘナートのメロディ・メイカー、リリシストとしての才能が最も発揮されたアルバムとして知られ、ブラジリアン・ロックブームの頂点として今日まで知られている作品です。彼らをはじめとして、リオのパララマス・ド・スセッソや巨大なゲイ・アイコンとしても知られた男性シンガーのカズーサ、サンパウロのチタンスが「ブラジリアン・ロック四天王」として知られているほか、数多くのバンドがこの当時は登場しています。

 

 そんなヘナートでしたが、1996年、36歳で早逝してしまいます。理由は正式には公表されていませんがエイズ説が有力です。

 

 

Gruppa Krovi/Kino(1988 Russia)

 

 

 続いて今度はソ連に飛びましょう。キノーです。

 

 ペレストロイカを目前に控えた80年代の前半から半ばのソ連ですでに大きなロックのブームが動きつつあったことは前回のアクアリウムのところで書きましたが、そのムーヴメントにおける最大の人気かつカリスマ性を持ったバンドがキノーでした。

 

 中心人物のヴィクトル・ツォイはソ連第2の年だったレニングラード(現・サンクトペテルブルク)に生まれた朝鮮系ロシア人で、パッと見は完全に東洋人です。そんな彼は10代だった70年代からロックに興味を持ち始めバンドを結成します。当時、ソ連ではロックは違法の存在でしたので地下で活動します。1982年にはキノーは最初のアルバムを発表しますが、ソ連唯一のレコード会社「メロディア」の契約が得られなかったために、完全なるインディペンデントでの活動となります。

 

 ただ、そのカリスマティックなダークなサウンドと、ソ連に住む若者のリアリティを描いた素朴な歌詞が受け、キノーの存在はアンダーグラウンドで徐々に大きくなっていき、1988年のこのアルバム「グルッパ・クローヴィ」とともに、一気に国民的な次元で大きくなっていきました。

 

 

これがそのタイトル曲です。この中に主役で出てくる男性がヴィクトル・ツォイです。この曲、アルバムに入っている完成版の前のヴァージョンで、正式なものが聞かせられないのが残念なのですが、このようにかなり低い声でかなり暗いメロディックな曲を歌います。僕は彼のことを「レニングラードのイアン・カーティス」と呼んでいますが、ジョイ・ディヴィジョンのようなポストパンクっぽい楽曲が実際この人たちにはかなり多いです。

 

 キノーはソ連のロックブームの筆頭格としての人気を獲得しますが、その矢先の1990年8月、ツォイは交通事故によって28歳の若さで他界します。他殺説も有力視されています。ソ連が崩壊したのはこの1年後のことでした。

 

 ツォイの存在はその後、ロシアでは半ば神格化された状態で、ロシアのフィギュア・スケートの女王エフゲニア・メドベージェワがツォイの代表曲の一つである「ククーシュカ」で演技をしたことも知られています。

 

 

Life’s Too Good/The Sugarcubes(1988 Iceland)

 

 

 続いてはアイスランド、行きましょう。シュガーキューブスです。

 

 これはもう、かのビヨークがいたバンドとして有名ですよね。リアルタイムで日本でもそこそこの知名度はありましたね。このアルバムのリリースの2年後には来日もしてますからね。

 

 ただ、今でこそアイスランドといえば「インディ・ミュージックの国」として非常に有名になっていますけど、この当時はまだ「アイスランドから出てきた」というと、その聞き慣れなさに驚くことも珍しくありませんでした。ただ、その後も考えても、やはりシーンがあったからこそ彼女みたいな存在も出てくるのが可能だったわけですよね。実際の話、ビヨークは11歳でソロシンガーとしてデBYウーをしていて、その後もティーン時代に幾つかパンクバンドを組んでいて、17〜18歳の時にやっていたタッピ・ティカラスというバンドはそこそこ地元では影響力もあって、その当時に制作さfてた「ロック・レイキャビク」という、首都レイキャビクでのパンク・シーンを集めたドキュメンタリーにも出てるらしいですね。その事がもう少し突き詰められていたら、そちらを紹介していた可能性もありました。

 

 ただ、やはりその頃から才能が突出していたからなのか、その後に作ったこのシュガーキューブスは国際的な進出に成功します。このデビュー作は前衛で14位、全米でも54位まで上がる、当時のアイスランドとしては異例のヒットを記録します。

 

 ビヨークのカリスマ性はこの頃から指摘されていましたが、ただ、のちのような神秘性まではまだ生まれてなかったですね。ここで展開されているのは男性メンバーとの掛け合いヴォーカルによるギター・ロック。その掛け合い方がB52sのソレにすごく似てたんですよね。あの当時はそれでも個性的に聞こえてはいたものでしたが、のちのキャリアが偉大すぎて今ではポップすぎる聞こえ方にはなってしまってはいます。

 

 ただ、だんだん過剰に神々しくなってしまった後には、むしろこのくらいの軽さがあった方がいいと思えたことはありましたけどね。

 

 

Descanso Dominical/Mecano(1988 Spain)

 

 

続いて今度はスペイン行きましょう。メカーノです。

 

 今回、「スペインのバンドたちがメキシコやアルゼンチンで公演を行って成功することで、スペイン語圏のロック・マーケットが広がった」という話をしましたが、その中で商業的にもっとも成功したバンドがこのメカーノです。彼らは紅一点シンガーのアナ・トローハを中心とした男性2女性1のシンセ・ポップ・ユニットで、この一つ前のアルバムがスペインで史上初のミリオン・セラーを記録するメガ・ヒットを収めています。

 

 ぶっちゃけ、スペインのロックファンの間では、彼らを「ロック」と定義することに関して賛否両論があります。「ロックにしてはポップすぎる」という意見があるからです。確かに彼らの場合、シンセ・ポップだけでなく、かなり甘ったるいバラードも持ち味で、それによるヒットも多いんですね。加えてアナの歌声が、カン高くてか細い、今でいう声優さんみたいな歌い方ですからね。僕も曲によってはキツい瞬間がないわけではありません。

 

 しかし、その一方で、「そこまで成功できたのは、けっそてコンサバ・イメージなだけが理由ではないだろう」とも思える、エッジィな瞬間が同時にシングルやアルバムの半分くらいはしっかり存在するのもまたミソなのです。電子音の選択のセンスは案外かなり鋭敏だし、アナログ楽器を使ってシンセ・ポップの枠を超えたい時のアイデアが豊富(取りけカッティング・ギターの使い方は絶妙)でもありますしね。このアルバムなんてミリオンセラーの前作を受けたアルバムなのに、むしろそこに甘えないように攻めたアプローチの方が目立つし。なかなか気骨のあるポップですよ。

 

 彼らは1997年に解散。以後、アナは髪真っ白になっちゃいましたけど、昔ながらのショート・ヘアの元気イメージでソロで活躍中です。

 


No Fuel Left For The Pilgrims/D-A-D(1989 Denmark)

 

 

そして、今回のシメはデンマーク。バンドはディズニーランド・アフター・ダークことDADです。

 

このバンドに関して言えば、日本でも40代以上のロックファンの中には知っていらっしゃる人がいると思います。というのは彼ら、1989年から90年にかけて、メタル界隈でかなり強く押されてましたからね。ちょうどスウェーデンのバンド、ヨーロッパが「ファイナル・カウントダウン」の世界的ビッグヒットで北欧メタルが注目され、日本でもかなり紹介されていましたね。ノルウェーのTNTだったり、デンマークだったら全米トップ10ヒットのあるホワイト・ライオンと、このDADでしたね。

 

 DADの場合、実際はそんなにメタルメタルしているわけではなく、曲調そのものはストーンズやAC/DCの影響を受けたむしろストレートなロックンロール調のバンドでしたが、LAのグラムメタルのブーム以降に顕著なバッドボーイズ的な派手なファッション感覚での共通点から含まれていた感じでしたね。このアルバムはかなり押されていたし、実際、これを引っさげてのツアーで来日も果たしていましたね。特にこの曲はよくかかっていたものです。

 

 

当時、ロック系の番組ではよくかかっていましたね。

 

 この後、メタルブーム自体が終わり沈静化したことにより、DADの話も聞かなくなります。ただ彼ら、これで人気が凋落して解散したわけではありません。それどころか、地元デンマークでは出すアルバム出すアルバム、毎度チャートのトップを記録する地元のロックシ−ン切ってのカリスマになるんですね。90sにもグランジブームの到来後の人気が落ちず、連続1位も活動を休止する2008年頃まではずっと1位を続けていました。ちなみにホワイト・ライオンのフロントマンのマイク・トランプもDADほどではないにせよ、2000sに入ってカムバック・ヒットをソロで出して復活しています。国際的な注目がなくなったからといってキャリアが終わったわけではありません。

 

 とりわけデンマークは90s以降にロックシーンが拡大し、ハードロックからインディ・ロックに至るまで多様化もしていきます。そんな中でDADはリーダー的な役目をしっかり果たせていたようですよ。

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 13:00
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「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」第5回 1980-1984

どうも。

 

では、今日も「非英語圏の101枚の重要なロック・アルバム」、いきましょう。5回目の今回はこんな感じです。

 

 

 

今回は80年代に突入。1980年から84年の作品についてです。時代的にはパンク/ニュー・ウェイヴの時代になっていますが、それは非英語圏の国でも同様なようです。では、いきましょう。

 

 

We’re Only In It For The Drugs/Ebba Gron(1979 Sweden)

 

 

まず最初に紹介するのはエヴァ・グレン。スウェーデンにおけるパンクのオリジネーターです。

 

 イタリアやドイツをはじめ、自国の音楽ルーツに黒人音楽的なもののないヨーロッパの国々にとって、クラシックを一要素にもつプログレはバンドを始めるのに都合が良かった、という話をしましたが、パンク・ロックはそれ以上に、世界規模で人々の「バンドを組もう」というモチベーションを高めます。自分の持っている音楽的ルーツなどに関係なく、「日常の不満を歌いたい」という気持ちさえ強ければとりあえずバンドを組んで、ギターの3コードに情熱をぶつける。もう、これでオッケーになってしまったわけですから。

 

 ただ、パンクでシーンそのものが即座に転覆状態になったのが77年頃のイギリスだけで、当初アメリカでは一部のアンダーグラウンドなシーンへの浸透に止まったのに過ぎなかったように、他の国でもパンク・ムーヴメント自体が始まったのは英米のリアルタイムよりももう少し後になり80年代近くになります。このエヴァ・グレンのデビュー作もリリース自体は79年11月。クラッシュで言えば「ロンドン・コーリング」を出す頃です。

 

 そうしたタイムラグがあったが故に、このバンドのデビュー作も、「オリジナル・パンク」というよりは、もう少し過激にハードコアの影響がすでに感じられる荒削りな感じになっています。そして、より自分たちの歌いたいことをストレートに歌いたかったからなのか、歌詞が全編スウェーデン語で歌われています。その分、言葉がわからない外国人にはちょっと入りにくい感じにはなってはいますが、この母国語のアプローチ故に国内ではパンクが広がりやすい状況になったかと思われます。

 

 彼らはこの後、よりメロディックな成長を遂げ、82年のサード・アルバムの時に本国でアルバム・チャートのナンバーワンになりますが、これで活動を終えます。ただ、彼らの存在はスウェーデンでは伝説になり、その後も未発表ライブやベスト盤が出れば必ずチャートの上位に入る影響を見せつけています。そしてフロントマンだったヨアキン・タストレンはソロになり、本国では今でもアルバムをリリースすれば必ず1位を取るカリスマになっています。エヴァ・グレンは2014年、スウェーデンの音楽殿堂に第1回の選出の時点で、ABBAらとともに堂々と選ばれています。

 

Nacha Pop/Nacha Pop(1980 Spain)

 

 

 続いてはスペインに行きましょう。ナチャ・ポップというバンドです。

 

 スペインでは、割にロンドンやニューヨークに近い時期にパンクのシーンが起こっていますが、それには社会的背景との因果関係が存在しました。それは1939年から独裁政権を築いていたフランシスコ・フランコ総統が1975年11月に死去。国に民主政治が戻ってきたためです。

 

 より自由を叫びやすくなったスペインでは文化的なムーヴメントが起こりやすくなったわけですが、その中でも首都マドリッドの動きはとりわけ大きなもので、それは「ラ・モヴィダ・マドリレーニャ」と呼ばれる映画や文学を含んだものになりました。その動きの中からは、かの鬼才映画監督のペドロ・アルモドヴァルも生まれていますが、音楽でもパンク/ニュー・ウェイヴが強く、様々なバンドが出ています。

 

 ナチャ・ポップはそうしたシーンの中において、カリスマ女性シンガーのアラスカや、ニュー・ウェイヴ・バンドのラジオ・フートゥーラと並んでシーンを牽引したバンドとして知られています。このアルバムはデビュー作にあたりまして1980年にリリースされています。彼らの場合、パンクというよりは、どちらかというとパワー・ポップに近い作風ですが、その聴きやすさが故に共感を集められた感じでしょうか。

 

 スペインでは80年代前半から国内でのバンドブームが隆盛を見せ、半ばから後半になると、スペインのみならず、メキシコやアルゼンチンなど中南米のスペインの国々でも積極的にツアーを行い、ロックの話をスペイン語圏に広げていきましたが、ナチャ・ポップもその頃にはかなり大物になってこうしたツアーでも成功を収めます。

 

 彼らは80年代いっぱいで活動を終えますが、その後の2000年にアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画「アモーレス・ペロス」に曲が使われたりしています。バンドは2007年に再結成しますが、2009年にフロントマンのアントニオ・ヴェガを肺がんで失っています。

 

Ideal/Ideal(1981 Germany)

 

 

 続いてはドイツ行きましょう。アイデアルというバンド。

 

 60年代には他の国に大きく遅れをとっていたドイツでしたが、クラウト・ロックを手始めに、シンセ・ポップのクラフトワーク、ヘヴィ・メタルのスコーピオンズと共に、逆に音楽カルチャーをリードする国になりました。さらに、クラフトワークのおかげでシンセサイザーを使うのが得意になったこの国ではニュー・ウェイヴが盛んになりまして、「ノイエ・ドイッチェ・ヴェレ」(ジャーマン・ニュー・ウェイヴ)と呼ばれるムーヴメントが起きています。

 

 アイデアルはそのシーンにおける初期の人気バンドですね。このムーヴメントには派手なゴスメイクで知られるニナ・ハーゲンや、イギリスで「Da Da Da」をヒットさせているバンド、トリオなどがいますけどね。彼らは紅一点のフロント・ウーマン、アネット・フンペを中心とした4人組で、サウンドはディーヴォや日本のプラスティックスを思わせる、アナログ・シンセの、その当時ふうに言うなら”ピコピコ”した感覚をパンクロックに生かした軽妙さと痛快さを売りにしたバンドで、82年に解散するまで、同国ではトップクラスの人気バンドでした。

 

 このノイエ・ドイッチェ・ヴェレのブームはアンダーグラウンドでDAFやアインシュトルゼンデ・ノイバウテンなど、エレクトロ・ノイズ・ロックのカリスマを生み、さらにポップ方面ではピーター・シリングやネーナなどMTVのミュージック・ヴィデオ経由で世界的にヒットするアクトを出すなど、両極の方面で発展していきました。

 

 なお、アネット・ヘンペですが、アイデアル解散から20年以上たった2000年代の後半、ふたまわりほど年の離れた黒人男性シンガーと「イッヒ&イッヒ」というユニットを組み、なんとアイデアルに匹敵するくらいの商業的成功を収めカムバックし話題を呼んでいます。ここでは彼女はキーボード・プレイヤーとして年下の男性シンガーをサウンドで支える渋い役割を果たしています。

 

 

La Voce Del Padrone/Franco Battiato(1981 Italy)

 

 

 続いてはイタリアに行きましょう。フランコ・バティアットです。

 

 男性ソロ・シンガーが尊ばれるイタリアにおいて彼は、ここでも紹介済みのファヴリツィオ・デ・アンドレ、ルチオ・バティスティと並ぶ3大アーティストとして現在でも多大なリスペクトを集めています。彼の後くらいから、ヴァスコ・ロッシ、ズッケロ、ジョヴァノッティなど国際的にも有名なビッグな男性ソロの時代になりますが、ポップすぎてコアな音楽ファンからの人気がガクンと落ちますからね。

 

 このバティアットが評価されているのは、その実験性ですね。彼はもともとプログレ・バンドのキーボーディストとしてキャリアを始めていることもあり、こと、シンセの可能性を試したような音作りを行っています。70s初期の作品なんて、ほとんどプログレに分類できますからね。それがエイティーズに差しかかった頃には今度はニュー・ウェイヴの時代になりますが、ここで彼はシンセ・ポップに方向を転換。ここで絶妙にメロディックなシンセに乗って、この時代なりの新しいポップ・ソングでイタリアのファンを魅了。これと前後して、イタリアでは本格的にエレクトロ人気に火がついていくことになります。

 

 事実、つい先日、日本でも公開されて話題になった青春LGBT映画「君の名前で僕を呼んで」でも、バティアットの曲、実は流れているんですよ。舞台が1983年のイタリアなので「さもありなん」と言った感じですが、時代考証的にかなり正確ですね、この次のアルバムからの第1弾シングルだった曲が流れています。

 

 また、日本人にはわかりにくいことではありますが、彼の歌詞は非常に政治的かつ宗教的でイタリア人にとっては非常にディープなものなのだそうです。そのことでも今日に至るまで(現在も活動中)高いリスペクトを受ける理由にもなっています。

 

 

Paket Aranzman/Various Artists(1981 Yugoslavia.Serbia)

 

 

 続いては、とりわけマニアックかもしれません。旧ユーゴスラヴィア、その中でも今の国で言えばセルビアですね。

 

 ユーゴは東欧の中では南方にあたり、イタリアの東隣くらいの位置です。ここからクロアチア、セルビア、ボスニアなどに分かれるわけですが、ユーゴとしては1929年から2003年まで存在しました。

 

 このユーゴは他の東欧国と違って、第二次大戦後にソ連の影響で社会主義国になったわけではなく、それ以前から社会主義国で、さらに戦後に時のチトー大統領がスターリンと対立していたためにソ連とは関係のない社会主義路線を歩んでいました。それもあって、若者文化には早くから寛容で、ロックもビートルズの時代に自国のシーンが存在し、70sにはハードロックもプログレのシーンも存在しています。

 

 ただ、この国のロックに関しての情報を得るに、最も熱かったのは80sのパンク/ニュー・ウェイヴの時代だったと聞きます。そのことを象徴するのが、このコンピレーション・アルバムですね。これは、ユーゴのロックシーンを牽引したレーベル、ユーゴトンの気鋭の新人バンドを集めたオムニバスで、同国のロック名盤選のランキングで必ずトップ争いをする作品です。

 

ここにはエレクトリチュニ・オルガズム、イドーリ、サリオ・アクロバタの3バンドの曲が収録されていますが、これが世界的に見てもかなり先端を走っているポストパンク・サウンドなんですよね。たとえて言うならギャング・オブ・フォーとかワイアーみたいな、ガリガリと軋むギター・リフを主体とした鋭角的なロックバンドばかりで。仮に1981年にこうしたバンドのオムニバスがイギリスから出ていたとしてもかなりカッコいいものだったのに、それが東欧圏の国からなんのタイム感のズレもなく難なく現れているところが驚きです。

 

 このアルバムは、この国のシーンを形成するのにももちろん貢献したわけですが、同時にポーランドにツアーに渡って、同国のパンク/ニュー・ウェイヴ・シーンにも強い影響を与えています。その成果が2001年にポーランドで発売されたトリビュート・アルバム「ユーゴトン」で、ポーランドの人気アーティストたちが、ユーゴトンに所属していたユーゴのアーティストたち、イドーリやエレクトリチュニ・オルガズムをはじめとしたバンドの曲をカバー。これはポーランドではチャートの1位になるほど成功しています。 

 

Maanam/Maanam(1981 Poland)

 

 

 続いても東欧です。ポーランドに行きましょう。

 

 ソ連に反抗していたために、若者文化としてロックが盛んだった国としてハンガリー、チェコ、ポーランドの名をこれまでもあげてきていますが、80s以降の東欧でロックのシーンが最も盛んになったのはポーランドですね。この国では80年代初頭、労働組合「連帯」が政府による独裁政治に激しく対抗し、それが東欧そのものの民主化に進ませる道筋を作りましたが、そういう社会情勢にロックも歩調を合わせてか、80sになりバンドのシーンが活性化します。

 

 中でも「4大バンド」と称されたバンドが人気で、それがパーフェクト、レプブリカ、レディ・パンク(名前はレディですが、男性4人組です)、そしてこのマーナムでした。

 

 これらのバンドはいずれもパンク/ニュー・ウェイヴからの強い影響を感じさせる、いかにもこの時代らしいバンドでしたが、マーナムの場合はフロント・ウーマン、オルガ・ヤコウスキ、通称”コラ”のカリスマ性が売りのバンドでした。その存在はさしずめ「ポーランドのデボラ・ハリー」とも呼べるもので、サウンドの質感もブロンディのパンクっぽい時期のそれに似たものがあります。

 

 彼らは人気が長く持続したバンドで、90sにも、解散する2000sにも、そしてそれ以降にコラがソロになっても、アルバムがトップ5内に常に入り続ける人気バンドで、コラ自体も年齢を追うごとに声に凄みを増して、ちょっと怖いくらいまでになっていますね。

 

 あと、コラの場合、いろんな時期を見てもルックスがコロコロ変わってる人なんですが、このジャケ写でもそれっぽいんですが、坊主にもしてます。その影響かなんか知らないんですが、この国の女性の人気ロッカー、なぜか代々、頭を丸める例が多いという、不思議な現象も起きてたりしています。

 

 

Dure Limite/Telephone(1982 France)

 

 

 

 続いては久しぶりになるフランスです。テレフォンというバンド。

 

 60sにカルチャー的には映画も音楽もすごくカッコよかったフランスですが70sは今ひとつ決手がない感じでした。ただ、次のシーンのための種は蒔かれていたのかなと思えるのは、この国で最初の本格的なロックンロール・バンドであるテレフォンが生まれたことですね。

 

 テレフォンがデビュー・アルバムを出したのは1976年のこと。76年に出てきたというとどうしても「パンクに触発された?」みたいなことが想起されがちですが、ちょっと違います。彼らはシンプルでストレートなロックンロールを信条としていましたが、それはストーンズやザ・フーの60年代におけるソレ。同じ時代ならむしろパブ・ロックであったり、あるいはこれがもう少しハードだったらAC/DCにも近い線だったとも思います。ちょっとルー・リードも入ってるかな。

 

 そんな彼らは、レザー・ジャケットに痩身で無骨なフロントマン、ジャン・リュック・オーベールを中心に、甘いマスクのリード・ギタリスト、ルイ・ベルティニャックに紅一点ベーシストのコリーヌ・マリエノーという、華のある3人が絡みあうシンプルながら力強いロックンロール・アンサンブルを披露していきますが、1980年代が近づくにつれフランスを代表するバンドにのし上がって行き、1982年にこのアルバムが出る頃にはフランスのチャートでロックバンドとしては初の1位。50万枚を売るほどのバンドに成長します。この頃になると、アルバムのタイトル曲こそはザ・フーの「Won't Get Fooled Again」みたいではあるんですが、ニュー・ウェイヴの感覚も同時代的に取り入れ始め、言い意味で軽快さと小気味よさがうまれていますね。

 

 彼らは1984年にもう1枚アルバムを出し、人気絶頂のまま86年に解散します。その後もオウベールはソロとして成功しますがテレフォンほどのインパクトはなく、絶えず再結成が望まれ、現在も秘蔵ライブの類やベスト盤が出るたびにチャートの上位に登り続けています。

 

Radio Africa/Aquarium(1983 Russia)

 

 

 

続いては、とうとうこの国が出ましたね。現在のロシア、この当時なら旧ソ連です。

 

 なぜ、この国がこれまで出ていなかったのか。それはやっぱり、取り締まりが厳しかったからでしょう。東欧の他の国には若者文化に関して寛容だった国もあたわけですが、ソ連と言うのはそうしたものを国の外から干渉して取り締まる立場にありましたからね。どこよりも厳しかったわけです。

 

 そのような国だと、さすがに表立っておおっぴらにロックしようと思っても、見つかれば処罰もされかねません。ただ、それでもロックそのものを聞く者は存在し、演奏活動をする人たちも地下レベルで存在しました。演奏活動そのものは70年代後半にはかなりの規模になっていたというし、音源の流通もカセットテープでの音源発表で行われていたと言います。

 

 ボリス・グレヴェンシコフ率いるバンド、アクアリウムはそんなタイミングで登注目されているバンドです。ボブ・ディランやビートルズに影響を受けたボリスのバンド、アクアリウムは結成自体は大学生だった1972年くらいの話ですが、1980年3月、この国で最初のロック・フェスティバル、トゥビリシ・ロック・フェスに出演し、同性愛を表すアクションなど政府を挑発する行為を連発して注目を集めたようです。

 

 これはそんな彼らが1983年に発表したアルバムです。これまで、彼らもそうだし、他の多くのバンドも、ライブの模様を録音した作品を発表していたのですが、それはスタジオを借りて行った最初のオリジナル・アルバムでした。これで注目度が上がった彼らですが、同じ時期に他のソ連国内のバンドたちの注目度が上がり、バンドブームの様相が高まっていきます。そして86年、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカにより、ロックバンドの活動の許容が広がったことでソ連でのロック人気はさらに高まることになりました。

 

 この後、1988年、ボリスはソロでインターナショナルにレコード会社と契約。ソロ・シングル「レディオ・サイレンス」はユーリズミックスのデイヴ・スチュワートのプロデュースで世界中に紹介されました。日本でも当時、ラジオで結構かかってましたよ。

 

 このアクアリウム自体は、基本は80sのフォークロック、とりわけダイア・ストレイツっぽい感じがありながらも、メロディはロシア民謡的な独特な暗さがあって、なかなか摩訶不思議ですよ。

 

 

Musa Ukungilandela/Juluka(1984 South Africa.Zulu)

 

 

そして、この特集、初めての地域にいきます。アフリカ。それも南の端、南アフリカ共和国に行きましょう。

 

 今回の特集で僕が「しまった!」と思ったのは、「非英語圏」としてしまったことにあります。なぜなら、アフリカで音楽が盛んなところといえば、概して「公用語が英語」という国が多いから。アフリカで最もGDPの高いナイジェリアがそうだし、ケニアも、ガーナもそう。そして、今回選んだ南アフリカもそうです。

 

 では、それにもかかわらず、どうして今回これを選んだのかというと、この場合は、英語ではなく、原住民が代々使っているズールー語で歌った作品だったから。そして、そのことに強い社会的な意義があるからです。

 

 今回のこのアルバムのアーティスト、ジュルーカのリーダー、ジョニー・クレッグはイギリスからの移民白人です。彼は大学で人類学を学び、アフリカの部族の言葉にも長けていました。これを自らのルーツ音楽であるロックと融合した音楽活動を展開するべく、70年代からバンド、ジュルーカを結成します。

 

 このバンドでは黒人との混合バンドを組みますが、そのことにまず大きな意味がありました。それは当時、この国がアパルトヘイトにあったため。わずか人口15%の白人がその他の黒人に対し人種差別を行う世の中でそれは国際的にも大問題となっていましたが、そんな中、彼は意欲的に人種的融和を目指していたわけです。

 

 最初は英語で歌われていたジュルーカの歌ですが、七枚目にあたるこのアルバムで全編にわたって黒人原住民の言語であるズールー語で全編にわたって歌われ話題となりました。また、サウンドの方もシンセザイザーを導入。このアプローチも、当時のアフリカン・ポップの先端として紹介されました。

 

 ジュルーカはこのアルバムを持って解散。クレッグはこの後にサヴーカという新バンドを結成。アフロ・ポップの世界的アーティストとして活動し、世界にアパルトヘイトの撤廃をアピール。そしてそれは1990年に実を結ぶことになります。

 

 

Two Steps From The Move/Hanoi Rocks(1984 Finland)

 

 

 

 そして今回の最後はフィンランド。おなじみの人も多いハノイ・ロックスでシメましょう。

 

 ハノイですが、本国で1981年に登場したロックンロール・バンドで、イギリスを経由して82年の終わりごろには日本にも紹介されましたが、かなり熱狂的に迎え入れられたものです。風貌は「遅れてきたグラム・ロック」という感じなんですが、ニューヨーク・ドールズやジョニー・サンダーズのようなニューヨーク的退廃の美学もあり。サウンドの方はパンク的なんだけど、ハードロック的な骨太さもあって。その、「どのジャンルにもはまらない、オリジナルの魅力」がハノイにはありました。特に日本では「フィンランド」という、全く聞きなれないところからやってきたこともあり、やたらと「白夜の」という形容のされ方をしたものです。

 

 ただ、彼らの存在が世界的に大きなものとなったのは、83年にアメリカに渡ってからですね。彼らのグラマラスなロックンロールは、この当時、アメリカで勃興しつつあった、モトリー・クルーやラットをはじめとしたグラム・メタルのシーンに受け入れられつつありました。実際、84年に発表したこのアルバムもかなり高い注目を浴びたのですが、84年12月、このバンドのドラマー、ラズルが、モトリー・クルーのヴォーカル。ヴィンス・ニールの運転する車に同乗した際、交通事故で事故死。このショックでハノイは解散してしまいます。

 

 ただ、ハノイには極めて大きなファンがついていました。それはガンズ&ローゼズのアクセル・ローズ。彼が何かとハノイへの敬愛を口にしたことで、ヴォーカルのマイケル・モンローのソロ活動などもそれなりの恩恵を受けていたものです。

 

 ただ、逆にそのアメリカのグラム・メタルでの絶大な評価がゆえに、このジャンルが一気に人気を落とした90s以降、ハノイもこのジャンルの中に吸収されてしまって、彼ら本来の境界線のない独自性が見過ごされがちになってしまったのは個人的に残念ですけど。

 

 今日、ハノイの存在は、フィンランドが彼らの登場後に世界を代表するメタル大国の一つになったことでもその後への影響力は伺えます。ただ、やはりどこか、まだ評価のしたりなさを感じたりはしますけど。

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:非英語圏のロック・アルバム, 10:38
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