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ミロシュ・フォアマン死去 「カッコーの巣の上で」「アマデウス」生んだチェコの才人監督

どうも。

 

 

今日はこの訃報を語らないわけにはいきません。

 

 

ミロシュ・フォアマン監督が亡くなってしまいましたね。85歳でした。

 

僕がまだ子供から大人になるくらいにかけて、ミロシュ・フォアマンと言ったら大物でしたね。やはり

 

 

 

「カッコーの巣の上で」と

 

 

 

「アマデウス」を監督した人ですから!

 

 

オスカーの作品賞に2回輝き、しかもそれがオールタイム・ベスト映画みたいな企画で確実に上位に入る作品になっている。文句なしに実力派の監督ですよ。

 

 

 僕もこの監督は、よく主題としがちなところの、「”狂人”と思われがちな人の本当のところ」を描くのが名人級にうまかったのですごく好感を抱いていたものです。

 

 

 僕の場合は、これもありましたしね。

 

 

 

アメリカのポルノ雑誌王の波乱万丈の人生を「ナチュラル・ボーン・キラー」で注目を浴びた後のウディ・ハレルソンで描いた「ラリー・フリント」

 

 

 

70年代の伝説の破天荒コメディアン、アンディ・カウフマンの一生をジム・キャリーの主演で迫った「マン・オン・ザ・ムーン」。この主題そのものが90年代のオルタナティヴ・カルチャー的でカッコよかったんですよね。ラリー・フリントもこれも両方ともに主人公の相手役がコートニー・ラヴで、この映画に至ってはタイトル曲を始め、REMが音楽重要な役割も果たしましたしね。「ああ、この人の、人間の狂気性の主題って、90sのオルタナにも通じるところがあるのか」と思って、当時、すごく嬉しく感じながら見たものです。

 

 

 この人は、キャリアの割に作品数はそれほど多くなかったりする、あるいはちゃんと紹介された作品の数が少なかったりするからなんですが、その理由の一つが、彼が東欧の出身でハリウッド進出が遅い年齢だったからなんですね。この人、出身自体は東欧のチェコで、30代後半の60年代いっぱいくらいまではチェコで映画を作っていました。

 

 

 で、後で僕が映画史を掘り下げる作業を覚えた頃、2000年代の終わり頃ですね、その時に知ったんですが、フォアマンは60年代、

 

 

「チェコ・ヌーヴェルヴァーグを牽引する映画界のホープ!として見られていました!

 

 

 

一つがこの「ブロンドの恋」という映画

 

 

もう一つがこの「Fireman's Ball」という映画。のちのイメージと違って、すっごく60sのオシャレ・モードが強いコメディなんですよね。後者は共産圏での社会風刺もキツくて、そのせいで上映禁止にもなったようですけど。

 

 

チェコという国は、東ヨーロッパの中でも最もトンがった国だったみたいで、60sの若者カルチャーもかなり西欧にキャッチアップしてたみたいですね。何せ

 

 

 

日本でものちに渋谷系クラシックにもなった66年の映画「ひなぎく」が作られているくらいですからね。これはフォアマン作ではないんですが、共産圏の国において、ここまでエッジの強い、フランスのヌーヴェルヴァーグ的な映画が作られていたんだなと思うと、「ああ、スピリットがロックだなあ」と思って興味を抱かずには入られません。

 

 

実は僕、これがキッカケで、「この国は絶対に60年代にロックシーンがあったはず!」と思って色々調べたんですよ。そしたら、実際にそうで、この国とハンガリー。オーランドにはかなり規模の大きいシーンが存在しています。

 

 

 ちなみに、この当時のポーランド・ヌーヴェルヴァーグから出てきた監督がロマン・ポランスキーだったりもします。

 

 

 フォアマン監督の死は残念ですが、これをキッカケに、彼が生涯に残した映画がしっかり評価されることを願っています。

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 14:12
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ノーキー・エドワーズ死去 日本へのエレキギターの伝道師

どうも。

 

 

 

ヴェンチャーズのノーキー・エドワーズが亡くなってしまいましたね。これ、日本の音楽リスナーにとっては非常に大きなニュースだと思いますね。

 

 

 

1965年に来日公演を行って、日本に一大エレキブームを巻き起こします。日本でエレキギターといえば、まずはヴェンチャーズ。僕はこの時代、生まれてもなかったのですが、伝聞ではさすがに何度も聞いてきた話です。

 

 

このエレキギターが「公序良俗を乱す」というので日本では大きな社会問題になったと言います。不思議なことに、ファッションとかではなく「大きな音」が社会の敵扱いされた、というわけです。これ、アメリカの50sのロックンロールとはまた全く異なる歴史なんですよね。アメリカの場合、エルヴィスが出てきた時は「黒人の音楽を白人がやるなんて」という意味で、不良なり、悪魔なりの扱いをされたわけです。日本の場合、そうしたロカビリーはカントリー&ウェスタンの一種として入ってきて、そこまでの社会的批判を浴びてないんですね。その当時の和製のロカビリー・シンガーなんて、紅白歌合戦にも平気で出てれますしね。

 

 

 ところがエレキギターはそうはいかなかった。この後に出てきたGSなんかも、NHKでは出入り禁止になったと言いますしね。

 

 

 

 映像資料が保管されていないのが本当に残念ですが、こういう風に「勝ち抜きエレキ合戦」というテレビ番組までできて、大ブームになってますしね。もう、この当時、世の中的にはビートルズもストーンズも存在していて、もう日本でもビートルズはそれなりに人気もあったと聞いていますけれど、この当時、ことエレキギターに関して言えばヴェンチャーズだったといいますよね。

 

 

 

そして、これは世界的なヒット曲です。「急がば回れ」。映像自体も1960年のこれは「アメリカン・バンド・スタンド」ですね。

 

 

 

これもお馴染みです。「10番街の殺人」。

 

 

この「ダイアモンドヘッド」も非常にお馴染みです。

 

ノーキーはヴェンチャーズのリードギタリストで、まさに上の映像の数々では彼が主役なわけですが、1968年頃に一回脱退します。で、レコーディングに関してはよくわからないのですが、

 

 

 

メンバーの風貌もすっかり変わってますね。1968年、テレビドラマ「ハワイ・ファイヴO」の主題歌を手掛け、これが当時で言うところの久々の大ヒットとなります。

 

 

 

そして日本では、これもノーキーが絡んでるかどうかよくわからないのですが、ヴェンチャーズ名義で、渚ゆう子の「京都慕情」の作曲をし、大ヒットしています。曲調そのものは演歌なんですが、ヴェンチャーズ特有のマイナー・メロディが好まれていた、ということなのでしょうか。

 

 

ノーキー本人は元はカントリーの出身のアーティストで、その後はこんな風にスティール・ギターでも達人的な腕前を見せていました。なんとなく思うんですけど、日本の場合、ギターが文化がハワイアンやカントリーから輸入が始まっているので、そのルーツを持つノーキーのヴェンチャーズの方が、ブルースにルーツを持つギタリストよりも受け入れやすかったのかな、という気はしています。

 

 

 その後もノーキーは

 

 

 

ヴェンチャーズには出たり入ったりの活動だったようですけどね。日本にも、おそらく最も来日回数の多いアーティストが彼らなんじゃないでしょうか。とにかく毎年のように来ては、公民館みたいなところでコンサートやってるイメージありましたからね。

 

 

ただ、決して「ビッグ・イン・ジャパン」だったわけではなく、このようにしっかりと「ロックの殿堂」入りしているアーティストであることも忘れてはいけません。エレキギターの伝導師のイメージとしては、クリフ・リチャードのバックも務めていたシャドウズ(ヨーロッパではこっちの方が影響力、デカいです)と並ぶ存在だったと記しておきます。RIP

 

author:沢田太陽, category:訃報, 17:48
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クランベリーズのドロレス・オリオーダン急死

どうも。

 

 

いやあ・・。これも本当にビックリというか・・・

 

 

クランベリーズのドロレス・オリオーダンが亡くなってしまいました。まだ46歳の若さだったんですよね。彼女は僕と世代が非常に近いことから1歳下なのも20数年前から知ってました。世に出てくるときが、ちょうど僕が音楽関係の仕事を始めたばかりの時でもあっただけに、「ああ、同世代が」と思わずに入られません。グランジ 〜ブリットポップ期のスターにはそういう思いを抱かずには入られませんが、彼女もその一人です。

 

 

 ドロレスのことを知ったのは、1994年の事です。前年に出したデビュー作がアイルランドから海を渡ってアメリカに届いた頃です。あの頃のアメリカはメディアがまだ若い新世代のバンドを時代の顔にしようとする気概があったものですが、クランベリーズもその中の一つでしたね。

 

 最初に知ったのはこれです。

 

 

 

 これですね。「Linger」、この時のドロレスの髪型が、「ギルバート・グレイプ」に出てた時のジュリエット・ルイスにそっくりで、すごく時代性というか、そういうの感じてましたね。この頃ちょうど、ビヨークやらPJハーヴィーやらコートニー・ラヴみたいなタイプの新しい女性アーティストがインディっぽいイメージで出てきていた時でそれがメインストリームになりかけてた時だったんですよね。

 

 

 

そのイメージはこのフェイ・ウォンの「恋する惑星」でクランベリーズの「Dreams」が印象的に使われた時も、そうしたエッジィな感じを与えていたものです。日本だと、この「Dreams」以降なのかな。巷でドロレスの声を耳にするようになったのは。

 

 

 

このウッドストック94もよく覚えてます。イメージとしては当時まだ出てきて間もない感じだったのに、もう、アメリカではかなりの支持があってオーディエンスの盛り上がりが凄いんだな、と言うのをテレビの生中継見て実感したのを覚えています。今日的にはグリーン・デイやレッチリ、NINで語られがちなウッドストック94ですが、ドロレスの姿も確実にありました。

 

 

そして、この年の10月にはすぐにセカンド・アルバムが出たんですけど、この最大のヒット曲の「Zombie」がとにかく長く売れて、さらに世界的にヒットしましたね。この時のドロレスのイメージってすごく突っ走りすぎるキャラというか。

 

 

 

 こういう風に坊主になっちゃったりね。この頃はまだ「アイルランドのシネイド・オコーナーの後継者」的なイメージもちょっと指摘されてもいましたからね。急にスポットライト当たったことでちょっと危うい雰囲気になってる時でもありましたね。

 

 

 ちょうどこの曲がヒットしている間にオーストラリアとかフランス、ドイツでも1位になったりしてるんですよね。英米よりもウケがいいくらいで。今回の死の騒ぎは南米でもすごく大きいんですけど、この時にワールドワイドな存在になってたんですよね。

 

 

 

 

そして96年、3rdアルバムも世界的にヒットしました。ただ、このアルバムが批評的にコケて、そこから間が空いたことで、快進撃がだいぶ鈍っちゃうんですよね。

 

 

 

このくらいまでギリギリ覚えてるんですが、この次のアルバムを持って1回解散します。

 

 

 その後、ドロレスも30代になってだいぶ落ち着いて

 

 

2000年代にソロやってた時はこんな感じでしたしね。

 

 

一番驚いたのは「ザ・ヴォイス」のアイルランド版で審査員やってた時ですね。この時は随分、イメージ丸くなったなと思ったものです。

 

 彼女はクランベリーズを再結成させて、ツアーも積極的にやってましたね。

 

 

 

去年には、こういう、セカンド・アルバムのジャケ写をパロったアンプラグドのアルバムも出していましたけど、これ見てもドロレス、随分落ち着いてたように見えてたんですけどねえ。

 

 

 今回、クランベリーズはレコーディングのためにロンドンに渡ってたそうなんですが、そこでの突然の死。一体何があったのか。

 

 

 やっぱり、本来なくなるべきタイミングでない時の突然の若い死というのは悔やまれますよね。しかもそれが、僕の音楽の思い出の中でいい時代のスターの一人がなくなると、やっぱり寂しいですよね。改めてご冥福をお祈りします。RIP。

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 07:13
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AC/DCの思い出と、これから

どうも。

 

 

 

 やっぱりマルコムの死はショックですね・・・。

 

 マルコムは、この写真のように、決して表に出る人ではなかったものの、後ろでしっかりと弟アンガスとブライアン・ジョンソン(と、その前のボン・スコット)を不動のポジションで支える姿というのが一番印象的でした。あの、微塵の乱れもない彼のリフの刻みの中で、フロントの2人も自由にプレイ出来てた。あのフォーメーションこそが最高でした。

 

 

 マルコム自身の魅力については昨日再掲載した投稿で描ききっているとも思うので、今日は僕がどうやってAC/DCと出会ったかの話をしましょう。

 

 キッカケは、小学校卒業する頃ですね。その当時に、「アメリカでかなりのヒットを記録したヘヴィ・メタルのバンドがやってくる」という触れ込みで、音楽雑誌でも、地方のテレビ局でも、AC/DCって何気に紹介されていました。ただ、世界に比べて、その認知が少し遅れていたのかな。何も知らない子供心にも、どこかちょっと後追いな感じはしてましたね。

 

 初めて知ったのはこの曲でした。

 

 

 この曲は、「悪魔の招待状」という、大砲のジャケ写で知られるアルバムの先行シングルでした。これ、この当時の日本のラジオでも結構かかってましたね。ビルボードでも初めて1位になってね。「わあ、すごい人気あるんだあ」と思ってました。

 

 ただ、中学になったばかりbの子供には、ギターよりブライアンのしゃがれ声の方がやっぱり気になってたし、それからやっぱり

 

 

 

これ、この当時、買って持ってました。1982年8月号のミュージック・ライフ。このように、やっぱ主役はアンガスだったんですよね。やっぱ、この格好と、あのアクションされたら、誰でもそうはなりますけどね。

 

 

で、このあとAC/DCは一回人気が低迷するんです。オリジナル・アルバムが2枚連続でコケまして、落ち目の印象まであったんですが、1988年にこれで復活します。

 

 

 

 1988年、これが当時、僕が浪人生になる直前でしたけど、ちょっとした衝撃だったんですね。この当時、友人の影響などでメタルとかもかじってたんですけど、あの頃聞いたどれとも違って、音圧で勝負するんじゃなくて、鋭角的な切れ味とテンポの鋭い速さでグイグイ決める感じがね。これが、決定的に僕の好きなロックンロールのイメージになったんですね。

 

 

 それで、この頃にちょうどCDが廉価になり始めて、CDか作品が廉価で出始めたんですね。それで僕もリアルタイム以外のものを掘り始めたんですけど、その頃に僕の心を掴んでいたのが、もう圧倒的にエロスミスとAC/DCだったんですね。エアロも「パーマネント・ヴァケーション」じゃなくて、70sを掘り下げた時に「これだよ!」と思ったし、AC/DCでも「バック・イン・ブラック」や「ハイウェイ・トゥ・ヘル」でそれを感じて。で、この2バンドと、チープ・トリックもプラスされて遡って行ってたら必然的に60sに当たって、ザ・フーとかヤードバーズも聞くようになった、という、20歳前後でしたね。

 

 

 

 そして大学2年の時に出た「レイザーズ・エッジ」というアルバムはオーヴァープロデュースで好きじゃなかったんですけど、そのアルバムのツアーのライブ盤は本当によく聴きましたね。ちょうどその頃、グランジが流行りだして、前述した音楽趣味になっていたので移行もしやすい感じになっていたんですけど、やっぱグランジ連中もリスペクトしていただけあって、AC/DCは他のメタル系のバンドみたいなダメージって一切なかったんですよ。その時思ったものです。「ああ、普遍的なもの、選んでてよかった」と。現に下の「Big Gun」なんて、サントラの他の曲、アリス・イン・チェインズとかオルタナ色の方が強かったんですけど、これがむしろ一番カッコ良いくらいの感じでしたからね。

 

 

 そして1995年にリック・ルービンのプロデュースで70sっぽい音に戻ってね。ドラムがフィル・ラッドに戻って、スネアがパスパス言ってるのがいいんです!そこで、ますます気持ち的に盛り上がって、「ちくしょう、ライブ見てえ!!」となってきたわけで、そして次にやっと

 

 

 

2001年2月19、20日、夢にまで見たAC/DCのライブが横浜アリーナで観れたわけです!!

 

2日間、両方見ましたけど、とにかく度肝抜かれましたね!だって、2万人くらいは入るアリーナで、200人のライブハウスと同じ音が鳴ってましたからね!これ、衝撃だったんですよ!あの頃、人生で一番ライブハウスに行ってた頃でしたけど、狭いライブハウスでのケイオティックでギザギザの音の質感があの広いところで感じられるなんてこと、後にも先にも、やっぱ、これだけかなあ。ジャック・ホワイトのギターにも腰抜かしてますけど、ちょっと質感違うもんね。

 

 で、2日間、選曲もMCも演奏も、全く寸分の違いもないライブやったのに、2日目の方が感動したんですよ(笑)。それもまた、すげえなあ、プロだなあ、と思っていたく感動しましてね。

 

 そして、その時に、「前の二人もやっぱりすごいんだけど、マルコムから後ろの三人のリズム・キープ、尋常じゃないね!!」と思ったわけです。全くのブレがない、メトロノーム並にリズムの狂いのない、正確でかつ、キレ味鋭いリズムですからね。やっぱり、この、底辺でこれ以上ないほどに強力に固められたグルーヴがあってこその名人芸のあれこれなんだなと、あの時に初めてAC/DCの極意がわかったような気になりましたね。

 

 

 そして2010年3月、再び日本で見たわけです。僕の行った日は14日で、ブラジルに発つ1ヶ月前ですね。このころの日付でこのブログの過去記事探ると、感想出てきますよ。

 

 で、この時にはまさか気がつくわけもないんですけど、この「ブラック・アイス」ってアルバムのツアーを持って、マルコムがAC/DCのステージに戻ってくることはありませんでした。

 

 

 

 そして2010年6月28日のスペインのビルバオでのライブのこの曲がマルコムのステージでの最後の曲となりました。僕がライブ見た3ヶ月後がそんなことになるなんて・・。なんか信じられないですけどね・・。だって、これだけの演奏聞かせられているのに・・。

 

 この後、AC/DCは2014年に「Rock Or Bust」というアルバムを出してワールドツアーもやりましたけどね。でも、もうマルコムは引退してて、後任には、以前にもマルコムが病欠したツアーの時に代役を務めた甥っ子(と言っても、年齢ほとんど変わらない)スティーヴィー・ライトが務めました。昨日再掲載した記事でも、「AC/DCくらい大物になると、ザ・フーみたいにすぐに代役を立てられる。それくらい、本当のプロならプレイできるもの」と思って応援してたんですけど、でも、フィル・ラッドが殺人未遂でバンドを追われ、ブライアンが耳の障害でツアー離脱を余儀なくされ、アクセル・ローズが代理を務める、なんて事態までありました。でも、こうなってしまうと、「もう、そこまでしてAC/DCやらなくてもいいよ・・」という寂しい気持ちにもなりました。実は「Rock Or Bust」もマルコムの不在が気になって、あんまり聞く気が起きない感じで、そこまで聞いてなかったりもsますからね・・。

 

 

 AC/DCみたいな、「ロックンロールの原点」とも言えるサウンドは伝統芸として継承はされて欲しいんです。なので、継承者が出るまでは彼らにはステージにたち続けて欲しくはあったんです。でも、いくらアンガスが健在とはいえ、それを支える人たちがここまでいないとなると・・。そう思うとさすがにねえ・・。

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 03:44
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マルコム・ヤング追悼 再掲載:マルコム・ヤングに捧ぐ〜For Those About To Rock,We Salute You(2014.4.17)

どうも。

 

もう、マルコム・ヤングの死があまりにもショックです。

 

 僕の場合、AC/DCはかなりファンであることを声を大にして公言し続けてきたバンドでもあるし。もう、あの寸分の狂いもないリズムの刻みが聞けないのかと思うと、涙が出てきます。

 

 今回に関しては、本当は過去記事の再掲載なしでいこうかとも思ったんですけど、マルコム兄貴の病を伝えた際の記事が、すごくマルコムがどういう意味をAC/DCの中で持っているのかを、僕の思ってた以上に書けていたので、まずはこちらを読んでいただきたいと思います。

 

 実はその当時に書いたことと今で考え方が微妙に変わっているところがあるんですが、それはこの次の投稿で書こうと思います。

 

 では、2014年4月17日の投稿をぜひ読んでみてください。

 

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どうも。


本当はフジロックのアーケイド・ファイアのヘッドライナー出演の話(メチャクチャ嬉しいけど、でも正直、あんまり驚かなかったんだよね。セオリー的に条件揃ってたんで「やるでしょ」と思ってた)とかもあるんですけど、僕的にはこの話があまりにも重要なので、こちらの話をさせてください。これです。




AC/DCの実質的リーダーで、鉄壁のリフ・マスター、マルコム・ヤングが、病気療養のため、AC/DCとしての活動を無期限で離れることになりました。

このニュースは、ここ24時間以内にAC/DCからオフィシャルに届けられたものなのですが、実はその1日前に「マルコム重病説」が浮上して、「AC/DCは解散するんじゃないか」という説がまことしやかに流れていました。今回の話に関しては、その噂の内容からあまりに信憑性が高かったことから、僕もあえて騒がず「そのとき」を覚悟して待っていました。


どうやら、その解散説は、メンバー本人によって否定され、「とにかく今、自分たちのやれることをやってみる」という結論には達したんですが、でも、今回の件は決して楽観できるものではありません。


というのも今回の件はですね、こんな形で起こりました。ちょうど1ヶ月かそこら前に、AC/DCは2008年に世界的に大ヒットした前作「Black Ice」につぐアルバムのレコーディングの準備に入っていたんですね。しかし、その矢先に、マルコムが心臓発作を起こしまして。さいわい一命はとりとめたものの、その後遺症で脳に血腫が出来て、その影響で体に麻痺が出たのか、ギターが満足に弾けない状態になったんですね。そのことから、「これではさすがに解散か・・」という話になっていました・・。


マルコム・ヤングという人はですね、AC/DCの中でパッと身では、「永遠のロック児童」こと弟のアンガス・ヤングや、世界一のしゃがれ声ヴォーカリスト、ブライアン・ジョンソンほどには目立たないんですが、彼が積み上げられたアンプの前に張り付いて、寸分のズレもない、切れ味鋭いリフをミニマルに刻み続けていたから、AC/DCのロックンロールに極上のグルーヴが生まれてたんですよね。彼がベースのクリフ・ウィリアムスとドラムのフィル・ラッドの3人でガッチリ組んで、一糸の乱れもない完璧なリズムを刻み続ける様、これはまさに「職人芸」というべきものでした。ここまで磨き、鍛え上げられたロックのリズム隊を見たことは、僕自身の体験ではいまだかつてありません。


AC/DCのライヴ・パフォーマンスって、見ていてすごくサッカーなんかにも通じる組織プレーを思わせるんですよね。たとえばブライアンがゴール前で点を取るフォワード、アンガスがフィールドの端から端をかけまわる野生児的な攻撃的ミッドフィールダーだとしたら、マルコムの役目はディフェンス・ラインを統括し、さらに攻撃陣との架け橋的な役のボランチかサイドバックみたいな感じ(その場合クリフがCBでキーパーがラッドかな)というかね。こんな立体的なフォーメーションがライブ見ただけで連想出来てしまう、1人1人のメンバーに個性があって同時に強いケミストリーを起こせるライブが出来るバンドって、ロック史上でもそうはないですよ。僕が映像やこの目で確認したものでも、せいぜいレッド・ツェッペリンとザ・フー、パール・ジャム、黄金メンバーのときのレッチリくらいなものじゃないかなあ。


そういうケミストリーを起こせるバンドの影の司令塔をつとめるほど、サウンドの重要なキーを担っているわけです。さらに彼は、オーストラリアのミュージシャンとしてはもはや名門一家のヤング家(兄2人はそれぞれ、グレープフルーツやイージービーツのメンバー)で最も頼りにされてる人でもあるわけだし、AC/DC自身も彼が率先して結成したバンドです。その彼が一歩間違ったら命や障害にかかわる病気を抱えてしまったわけです。それはさすがに継続自体が危ぶまれても仕方がないと思います。


ただ、一方でこういう考え方もできます。たとえばザ・フーを見てください。彼らは、「一体誰が代わりをつとめるんだ」というほどロック史上でも屈指の個性を持ったキース・ムーンやジョン・ウェントウィッスルを失っても、遜色のないパフォーマンスを行い続けていますよね。特に、忘れもしない、ジョンがヴェガスのホテルでエッチしてるときに急死したわずか数日後の全米ツアーに、たった2、3日で代役ベーシストを入れてツアーを無事に終了までさせたという例もあるんですよね。実際、そのときの全米ツアー、僕もニューヨークまで行って見てるんですが、そのときに「ザ・フーくらいの大物バンドになると、すぐに完コピできるミュージシャンというのはさすがに多いんだろうな。熟達ミュージシャンの研究対象にされてもいそうだしね」と思ったものですが、もしかしたらマルコムにもそうした「スーパー代役」は存在するかもしれない。現に彼は1988年のワールド・ツアーは病欠して代理のギタリストがつとめていたりもしましたからね。


それでも、もちろん、マルコムには弾いて欲しいんですよ。さすがに代理のメンバーとなると、僕が自分の生涯でのベストライブだと断言出来る2001年2月19、20日の横浜アリーナ公演を超えるライブまでは出来ないかもしれません。


ただ、それと同時に、「まだAC/DCを体験していない人に、『ロックンロール』というものが音楽的に具体的にどういうものかをもっとわかってほしい」という願望があります。そのためにはアンガスやブライアンをはじめとした他のメンバーにはまだまだ頑張ってほしい、という気持ちも強くあります。ザ・フーがそう出来てるように、彼らにもそれは出来ると僕は信じて疑っていません。


とにかく今は、彼らが時間をかけてニュー・アルバムを完成させて、ワールド・ツアーを回って「ロックンロールの妙技」を出来たらマルコムと一緒に堪能させてくれることを願ってやみません。そしてマルコムの病気が回復に向かって元気になることも心から祈ってます。


では、ここは、「マルコムに捧ぐ」という意味を込めて、AC/DCのライヴの不動のエンディング曲であるこの曲でシメます。




 

author:沢田太陽, category:訃報, 09:56
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トム・ぺティ  再掲載〔10数年で3度も!トム・ペティのパクられ人気〕(2015.1.31)

どうも。

 

 

例のラス・ヴェガスの件も書いてないのに、トム・ぺティが心不全で急死という、信じられないニュースが入ってきました(その後、脳機能停止ではあるが死の判定はできないとの訂正情報あり)。いつかライブを絶対見たい、長きに渡って好きなアーティストだったので、すごくショックです。

 

 

ボウイやクリス・コーネルのとき同様、このブログの過去記事の再掲載をしたいと思います。2015年1月31日付の記事です。

 

 

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どうも。

このところ、一番気になってるのはやはりオスカーの受賞対象作を見はじめている映画なんですが、今日はこの話をしておこうかなと思い音楽ネタです。しかも話題のネタはこの人です。




トム・ペティ!

つい先日、彼のことが音楽メディアを賑わせました。それはサム・スミスの「Stay With Me」のソングライティング・チームが、グラミーを直前にして、主要部門にノミネートされている同曲を、かねてからずっと指摘されていたトム・ペティの「I Won't Back Down」に酷似していることを認め、この曲のソングライターだったトム・ペティとジェフ・リンを「Stay With Me」のソングライティング・クレジットに加えることを認めた、というものです。


これ、多分、グラミー賞を受賞してからパクリ騒ぎが大きく取り沙汰される前に先に手を打っておこう、というものだったんじゃないのかな、と思います。この件に関し、当のトム・ペティ本人は「曲作ってたら、こういうことは得てしてあるもんだよ」と、そこまで盗作を訴えそうでもなさそうだったんですよね。おそらく周囲の方がトムに気を使ってのことだったんだと思います。


たしかにこの2曲、前もここで話したことあると思うんですけど、ソックリなんですよね〜。それは



こんな、「曲のスピードをズラしたら全く同じ曲だよ」という説明動画が出回るほどでした。

じゃあ、改めて2曲、聴き比べましょうか。




「Stay With Me」がマズかったのは、サビの16小節分のフレーズがほとんど同じだったことですね。たしかパクリの基準って、小節数で決まるはずなので、そこで作った側は「ヤバい」と思って認めたのかもしれません。


ただ、不思議なことに、トム・ペティがパクられで騒がれたのは、これが最初ではありません。それどころか3度目です!

2001年にはこの曲でまず話題になりました。
 



 
2001年、この当時かなり人気でしたね。ストロークスの「Last Night」。そしてトム・ペティの1976年のデビュー・ヒット「American Girl」。これは、引っ掻いた感じの音質のギターと、2拍目を強調したつんのめるようなドラム・パターン。そして歌いはじめてもなんとなく似ている感じですね。僕はこの当時「American〜」の方は聴いたことはあったものの、ストロークスと結びつくような感じで覚えていなかったため、すごく意外に感じたものでした。そして、「こんなにパンクっぽかったんだ」と思ってトムへの好感度が上がったものでした(笑)。


そして、その5年後の2006年、これは結構パクりを指摘する声がリリースされた直後からありましたね。これです。




はい。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「Dani California」とトム・ペティの1992年の大ヒット曲「Mary Jane's Last Dance」。このときはアメリカ国内で結構話題となりました。


僕は「Mary Jane〜」は覚えてはいたんですけど、サビの方をむしろ印象深く覚えていたので、「そんなに似てるっけ?」と最初思ったものでしたが、いざ聴いてみると・・・似てました(笑)。マイナー調のイントロとトーキング・スタイルの歌いだしですね。

ちなみにトム・ペティ、この2曲に関しても、別段気にしてる様子はなく、実際に訴えてもいません。


まあ、偶然ではあるとは言え、13年で3度もパクられたことが話題になったアーティストって、ほかに聞いたことがないので、「やっぱトム・ペティってすごいんだな」と改めて見直している次第です。80sのときから好感度は高く持っていて、まさに「I Won't〜」が入っている「Full Moon Fever」というアルバムは僕の大学時代の愛聴盤でもありました。


ちなみにトム・ペティ、去年ニュー・アルバムを出しまして、60歳を超えてはじめて全米アルバム・チャート1位を制したことで話題を呼んでいました。これも年齢のことなど全く感じさせない、キレのいいロックンロール・アルバムで「お見事」と思ってもいました。そこからの曲でシメますが、なんか遠くないうちにまたなんかパクられそうな気がしています。



 

author:沢田太陽, category:訃報, 05:48
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