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ローグにベルトルッチ・・。映画界の巨匠、続々と逝く

どうも。

 

 

本当なら、今日からオスカーの前哨戦が始まるので、そのことについて書くつもりでしたが、映画監督の訃報で無視できないものが続いたので、そちらの方向で生かさせていただきます。

 

 

まず

 

 

イギリスのカルトな巨匠ですね。ニコラス・ローグが亡くなりました。彼と言えば

 

 

僕みたいな音楽ファンの多くの人にとってはやっぱりこのデヴィッド・ボウイの「地球に落ちてきた男」だと思うんですけどね。ただ、僕自身はこの映画はそんなに好きじゃなくて(汗)。やっぱり、その、ボウイ様の演技力の、この当時(だけじゃないけど、笑)の限界がどうしても気になってしまいましてね。

 

ローグといえば、やっぱりこっちですよ。

 

 

この「Dont Look Now」。「赤い影」ですね。1973年の傑作ホラー。心のトラウマというか呵責に漬け込んだホラーとしては、これかなり一級品です。おばあさんがすごい怖いキャラなのと、モチーフに使われる赤がこんなに怖くなる映画もなかなかないです。ドナルド・サザーランドの役者としての最高傑作でもあると思います。

 

 

それから

 

 

イタリアの巨匠、ベルナルド・ベルトルッチも亡くなってしまいました。77歳でした。

 

ベルトルッチは僕が高校の頃に一回ブームみたいのがありまして、

 

 

この「ラスト・エンペラー」でオスカーの作品賞を受賞したときに、かなり日本でも話題になりました。主演のジョン・ローンもあの当時エラく人気があったものです。その余波もあって、この後の「シェルタリング・スカイ」とか「リトル・ブッダ」も公開時にかなり宣伝されましたね。

 

ただ、やっぱりベルトルッチといえば

 

 

ムッソリーニのファシズムの時代の、イタリアに生きる男の、時代空気そのもののアイデンティティを投影した傑作「暗殺の森」。非常に文学性が高く、歴史的検証の価値も高い作品ですが、僕はそれ以上に

 

 

 

やっぱり、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」なんですよね。

 

この映画、やたらとその、当時としての過激な性描写で語られる映画なんですけど、これ、僕は「文学ロマンス」としての大傑作だと思ってます。そこには狂気もあり、孤独もあり、そして、美しきロマンティシズムと、それに抗えない誘惑もあり。こうした要素を、この公開前年に「ゴッドファーザー」で復活したマーロン・ブランドが、その不気味な目線とあの声に全てを注ぎ込んで演ずる、あの怖いまでのカリスマ性。僕がこれまで見た男優の演技の中でも屈指のものですね。あと、ガトー・バルビエリによる、哀愁の音楽スコアが引き起こすマジックも秀逸です。

 

 

巨匠たちが亡くなるのは残念ですが、幸いにも作品は死にません。傑作を振り返ることによって、その「レガシー」を受け継いでいけたら・・と思います。RIP。

 

author:沢田太陽, category:訃報, 18:28
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スタン・リー追悼・その一生について考えたこと

どうも。

 

今日はすごく大きな訃報が入ってきましたね。僕もショックです。

 

 

 

あの”マーヴェルの父”、いや、アメリカン・コミックの父の方がいいかもしれないですね、スタン・リーが大往生しました。95歳でした。90歳を超えても元気だったし、お約束のマーヴェル作品でのカメオも続けていたので逝くのが早い気もしたのですが、天寿を全うしたと言えるのだと思います。

 

 

 僕は基本、音楽の人間で、映画でも得意なのはコメディやドラマ関係で、アメコミはどちらかというと門外漢だという意識があります。ただ、彼のバイオを改めて読んでみて、あるいは自分の中の彼の記憶を振り返っていろいろ思うことは出てきたので、そのことについて率直に書いてみたいと思います。

 

 

 まず、彼の一生に関して「気になるポイント」を4つあげてみます。

 

 

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リーは1922年生まれ。日本の元号に直すと大正11年生まれです。そういうこともあって、「アメコミ黎明期からの人」という印象を持っている人もいらっしゃるかもしれません。実は僕もそう思っていました。

 

 

 ところが、アメコミの世界って、リーが社会人になる前までに、もう既に一つの全盛期が確立されていた世界だったんですね。マーヴェルの永遠のライバルのDCコミックの最初の全盛期が1930年代の後半から1940年代の前半。スーパーマンもバットマンも、ワンダーウーマンもそうです。第二次世界大戦の真っ只中なんですよね。この辺りの話は、マイケル・シェイボンという小説家の「カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険」という作品で割と詳しく書かれてもあったので、僕もなんとなく知っていたし、時折耳にするスーパーマンやバットマンの話でも知ってはいました。ただ、リーも「キャプテン・アメリカ」という、もうモロに第二次大戦のスーパーヒーローを手がけていたわけじゃないですか。だから、混同してたんですよね、長いこと。

 

 

 確かにリーがマーヴェルを創設したのは1939年と、その最初のアメコミ全盛期だったわけですが、ただ、この時はまだリーは17歳。一方、DCは1938年にスーパーマン、39年にバットマンを全米の大ブームにしているわけです。それにティーンエイジャーが立ち向かうことは、彼にどんなに才能があったところで無理です。そういう意味では、やはりDCには大きく水をあけられていたわけですね。

 

1961〜63年の創作が神がかり的

 

 リーは第二次大戦に志願兵として参加し、終戦後にコミックの脚本家を務めます。「キャプテン・アメリカ」は彼の主導じゃなかったんですが、後から脚本家として参加したようですね。

 

 

 そういう生活を続けていたリーですが、1961年、彼が39歳の年から41歳の年までの3年間。怒涛の創作が始まることになります。

 

 キッカケは

 

 

この「ファンタスティック・フォー」のヒットです。この1961年頃に「超人ハルク」や「マイティ・ソー」も始まっています。

 

 

ただ、もっとすごいのは1963年

 

 

 

「アイアンマン」「スパイダーマン」「Xメン」をこの年に一気に三つも生み出すんですよ!

 

 

さらに言ってしまえば「キャラクター全員集合」の「アヴェンジャーズ」までこの年に出ています!

 

これはすごいですよね。

 

調べてみたら、「アントマン」が初登場が1962年、「ブラックパンサー」が1966年と、リーの60s、すごいことになっていたんですよね。これは気がつかなかった。僕、60sの文化は詳しい自負があったんですけど、アメコミで明日の社会を変えるようなことがこんなに進行していたのは恥ずかしい話、今日まで知らなかったんですよね。

 

 

DCに後塵を拝しながらも、かなり長い時間をかけて「脱アメコミ」を目指す

 

 この怒涛のマーヴェル・キャラ創造期を経たあと、リーは「脱アメコミ」を目指すべく、動きます。

 

 

 

60sはこの「スパイダーマン」を始め、「キャプテン・アメリカ」「ファンタスティック・フォー」のアニメ化に成功し、そこそこのヒットも記録するわけですが

 

 

同じ頃、DCは実写版映画「バットマン」をヒットさせます。

 

 

1977年にリーはテレビ・シリーズで「スパイダーマン」「超人ハルク」の放送にこぎつけ、

 

 

翌78年に日本でこんなトンデモな副産物も生み(見てました、笑)ますが

 

 

DCは1978年、クリストファー・リーヴの主演で「スーパーマン」を大ヒットさせます。

 

 

90年代に、マーヴェルは「アイアンマン」や「Xメン」をグレードアップしたアニメで放映しますが

 

 

DCはマイケル・キートン主演の「バットマン」で、ドル箱のフランチャイズとしての「スーパーヒーロー」ものの定番になっていました。

 

このころ思うに、リーはかなり悔しかったろうと思います。アメコミから脱したことをやろうとしても、常に先にDCの存在があったわけで。このころだと、僕はまだマーヴェルのマの字も知らない頃ですが、やはりまだマーヴェルも、アメコミによほど通じている人以外には・・と言ったとこだったんだと思います。

 

 

80歳を超えて、ようやく自分の描く世界を表現できた!

 

 そして、リーのマーヴェル・ユニバースの映画がコンスタントに公開されるようになり始めたのは2000年。すでに彼は78歳になっていましたが、これからですね。

 

 

この「Xメン」からですね。2002年にはこれに「スパイダーマン」が続きます。どちらも好評でした。

 

これ、その当時はそこまで感じなかったのですが、「おそらくリーは、これが訴えたかったのかな」と思われるものを、今日見つけたので紹介しますと

 

 

 

いつのものか定かじゃないんですが、なんと「GORO」に、多分70年代だと思うんですが、「日本のスタン・リー」こと石森章太郎

との対談が載ってなんですね。石森は、僕の子供世代のスーパーヒーローの象徴でした。何せ「サイボーク009」「仮面ライダー」「キカイダー」「イナズマン」「ゴレンジャー」な訳ですからね。その彼がリーと対談したわけなんですが、その見出し「アメリカのコミックはシリアス 日本はファンタジック」というのを見て、「あっ、リーが伝えたいものって、これだったのかな」と思ったんですね。「Xメン」だって、元は60年代の公民権運動でのマルコムXとキング牧師をモデルにしていたくらいですからね。「アメコミは社会的なメッセージも持ちうる文学性だってあるんだ」みたいなことを、彼はちゃんとした役者を使った長編映画の次元で訴えたくなったのかな、と。逆に、石森はじめ、日本にも幾多の ヒーローものがあるのに、マーヴェルみたいな成熟した発展を遂げられなかったのは、その「ファンタジック」という次元を超えられなかったのと、石森でも、その弟子の永井豪でもいいんですが、執念持ってリーのような高尚な次元で「もっとまじめになりうるもの」として漫画のスーパーヒーローの意義を証明しようとしなかったからかな、とも思います。

 

 それでもまだ、その「中身もあるドラマ」としての実写映画でも、2000年代の時点ではまだクリストファー・ノーラン擁する「バットマン」のDCに押されている気がしましたが、2010年代に入ると

 

 

 

 この「アヴェンジャーズ」を皮切りに、キャラと作品数をグッと増やしていきます。この時点で90歳前後ですよ!

 

 

そして、DCにはできない、コメディ路線で「ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー」「アントマン」「デッドプール」と立て続けに当て

 

 

 さらには「ブラックパンサー」、これまでアメコミ映画が超えられなかった「人種の壁」を超えた、黒人アートの結実ですよ。もう、この頃にはDCはかなり凌駕してますね。これで、リーが一生かけてマーヴェルで表現してみたかったことは、95歳でかなりできてたんじゃないかな。惜しむらくは「アヴェンジャーズ」の完結と、「ブラックパンサー」のオスカー・ノミネートを見て、天国に行って欲しかったんですけどね。

 

 

・・と、しんみり結ぶのは、ユーモアのセンスに溢れたlこの人らしくないので、これでシメましょう。リーといえば、やはり、映画へのお茶目なキャメオ出演。それをまとめたこの動画で改めてRIP!

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 10:11
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シャルル・アズナブール死去

どうも。

 

 

また、大きな人物がなくなってしまいましたね。

 

 

 

フランスのシャンソン界の大物、シャルル・アズナブールが亡くなってしまいましたね。94歳でした。体調を壊しながらも、わりと最近、というか今年ですね。日本公演もしていただけに残念です。僕の友人がそのライブに行って、感動を語ってもいただけに残念です。

 

 

彼と言えば、もう、あまりにもレパートリーがありすぎて、大変ではあるんですが、有名なものといえば

 

 

 

シャンソンの代表曲になってますね。この「La Boheme」とか

 

 

 

1974年に、全英でも1位を記録し、のちにエルヴィス・コステロがカバーして大ヒットさせた、この「She」ですね。これが名刺代わりの代表曲です。

 

 

また、映画ファン的にはこれも逃せません。

 

 

 

フランスのヌーヴェルヴァーグをゴダールと共に牽引した監督、フランソワ・トリュフォーの初期の傑作「ピアニストを撃て」。これに主演したことでも知られています。僕、この映画はアズナブールのことを知る前に見た作品で、後で知ってビックリのパターンでしたね。あと、この映画のタイトルをもじって、「ピアニストを撃つな」というアルバムを作ったのはエルトン・ジョンでした。

 

 

 改めてご冥福をお祈りします。

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 20:59
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追悼・アレサ・フランクリン この12曲で振り返る

どうも。

 

 

マドンナの特集の途中ですが、これはどうしても伝えておかなくてはならないことです。

 

 

 

アレサ・フランクリンが亡くなってしまいました。数日前まで重篤状態が伝えられていたので覚悟はしていないといけないなと思っていたのですが、残念なことに帰らぬ人となってしまいました。癌での闘病もだいぶ長きにわたっていましたからね。なので、わかってはいるんですけど、やっぱり悲しいですよね・・。

 

 

 おそらく、もう日本でもかなりの話題になっているのではないかと思うのですが、アレサというのは「レディ・ソウル」「クイーン・オブ・ソウル」と呼ばれていただけあって、もう、「歌の上手い女性」の代名詞みたいなところがあります。実際、「20世紀最高のシンガー」みたいな企画が組まれると、彼女、必ず5本指には入りましたからね。1位取ることも珍しくなかったですね。

 

 

 あと、彼女の場合、その歌唱力が単に「技術的に上手い」というだけにとどまらず、「女性の声」「黒人の声」「社会の声」として、単なる「歌声」という次元を超えて機能したところもすごいことです。

 

 そんな彼女ですが、もう、とにかく歌声聴いてもらうことが最大の理解だと思うので、12曲、ここで選んで次々と紹介したいと思います。

 

 まず僕が彼女を知ったのは、この曲でしたね。

 

 

 

この2曲ですね。1985年のことです。上の「Freeway Of Love」が彼女の、この当時でおよそ10年ちょっとぶりに全米トップ10、最高位3位だったかな。上がる大ヒットになったんですね。その時に「なんか過去にすごい功績があった人」ということはわかりました。

 

 で、ちょうど同じタイミングで彼女はユーリズミックの「Be Yourself Tonight」というアルバムで、この「Sisters Are Doin It For Themselves」をアニー・レノックスとデュエットします。これは、女性たちに自分の力で立ち上がることを呼びかけた力強いフェミニズム・アンセムとして一部話題になりましたけど、この時点だと、「なぜアレサの力がこの曲で必要だったのか」までは、高校1年生にはまだ分からなかったかな。

 

 面白いことに、このタイミングでアレサが復活する予兆も、それに伴う60sのソウル・リバイバルの機運もあったんですよね。82年の終わりくらいから、フィル・コリンズとかホール&オーツがモータウン調のヒット曲を飛ばし始めて、84年にはティナ・ターナーがカムバック・ヒット。で、スティーヴィー・ワンダーも「心の愛」から「ウィ・アー・ザ・ワールド」で大活躍でしょ。85年に入っても、前年の射殺されてしまったマーヴィン・ゲイへの追悼曲が2曲も連続してヒット。で、アレサに、この後、ジェイムス・ブラウンの復活まで、連鎖反応で立て続けに起こったんですよね。あれは今から考えても不思議な現象でしたね。

 

 で、アレサはこの後、ジョージ・マイケルとのデュエット曲を全米1位、エルトン・ジョンとのデュエット曲も全米トップ10に入れ、80sいっぱいまではヒットメイカーとして活躍します。

 

 

 ただ、この時点ではまだ、「昔の彼女を聞いてみたい」とまでは思っていませんでしたね。そういう風に思うようになったのは90年代の頭ですね。やっぱりスパイク・リーの映画、とりわけ「マルコムX」を見たときに、「マルコムXとキング牧師が生きた時代のソウル・ミュージックを聞いてみたいな」と思うようになって。その頃、ヒップホップのリリックがプロテスト色濃くなっていたし、80sの頃にベスト盤で聞いたスティーヴィーの70sの曲は好きだったし、ちらっと聞いたスライ&ザ。ファミリー・ストーンのファンクはすごくカッコいいと思ったし。

 

・・と思ううちに、買ってみたのがこれでしたね。

 

 

この「30 Greatest Hits」。これは彼女が黄金期を過ごしたアトランティック・レコーズでの、1967年から74年までのヒット曲を集めたベスト盤ですが、もう悪いことは言いません。

 

アレサに初心者として入るならば、間違いなくこれがベストです!

 

これは僕はもう、何度となく、繰り返して聴きましたね。これでソウル・ミュージックの大事なレガシーの一部を学んだようなものです。

 

 

 

アレサは1967年から60sにヒットを連発し、たちまち「ソウルの女王」になるわけですけど、そこには強い社会的な意義が含まれていました。

 

最初のヒットは一番上の「Respect」なんですけど、これはパッと聴きはだらしない夫に向かっての妻の怒り爆発みたいな曲に聞こえるんですが、「私が欲しいのは敬意ってヤツよ!」との一節。これはかなりの社会的フレーズになりました。1967年と言ったら「サマー・オブ・ラブ」で、いわゆるベトナム戦争に反対したカウンター・カルチャーが開花する年なんですけど、全く同じタイミングでウーマン・リヴも、公民権施行後の黒人の「ブラック・パワー」のムーヴメントも活性化していくわけです。そこで「敬意を払ってよ!」というのは、それは「女性に対して」とも、「黒人社会に」とでも解釈できたわけです。

 

 

 「Do Right Woman」も、「愛して欲しいなら当然と思わず、あなたがそれなりの行動をとってよ」というかなりフェミニスティックな主張が込められているし、のちに映画「ブルース・ブラザーズ」の有名なシーンにも使われた「Think」は「考えてもみてよ。あなたひどいことしたでしょ。私なんかに構わないで自由になったら」っていう、だらしない男に喧嘩売った曲なんですけど、これも「女性や黒人にひどいことをした人へのリベンジ・ソング」とも取れる。この当時の彼女のヒット曲って、そういう深読みがすごくそそられるんですよね。それと全く同じことは男でオーティス・レディングに感じられるんですが、二人とも、ゴスペル通過した黒人でないとできないパワフルな歌い方でそれをやるもんだから、やはり当時、かなりのインパクトあったんじゃないかと思います。

 

 

 

 

こうして黒人や女性たちにとっての「ソウル・クイーン」となったアレサですが、彼女は同時に白人の音楽とうまく融和することもできた人でもあります。その代表が、この「I Say A Little Prayer」ですね。これはバート・バカラックが彼の曲を専門に歌っていたディオンヌ・ワーウィックに提供した曲ですが、アレサのカバーの方が、小洒落感が勢い強くなりがちだったバカラックの曲世界に、これまでになかったような熱いエモーションを注ぎ込んでいますね。

 

 

 彼女は60年代末期から70sの初頭にかけて、ビートルズ、ザ・バンド、サイモンとガーファンクルなど、白人のロック、フォーク系の曲を積極的にカバーし、ここではそれまでブラック・ミュージックに興味のなかった白人のロック・リスナーまで唸らせます。

 

 

 

そして、実はこの時期が僕がアレサで一番好きだったりするんですが、70sの前半、アレサは実はシンガーソングライターみたいな時期がありました。彼女、実はソングライターとしても優秀な人で、この「Call Me」とか「Day Dreaming」というのは、彼女が単独で書いた曲なんですよね。この当時のシンガーソングライターみたいですごくいいんですよ。あんまりその側面、語られないんですけど、今日のオーガニック系のR&Bにも通じるテイストあります。

 

 それから、そのシンガーソングライター的な部分を継承して、スティーヴィー・ワンダーやカーティス・メイフィールドといった、この時代屈指のクリエイターの曲も彼女は見事に歌いこなします。スティーヴィーのヤツは、70s最後の彼女のトップ10ヒット。下のカーティスの「Something He Can Feel」は「隠れ名曲」の位置付けだったんですけど、1992年にアン・ヴォーグがカバー・ヒットさせて有名になっています。

 

 

 

で、一時期売れない時期が続いて、冒頭で述べたように80sに復活するんですけど、本音を言ってしまうと、その時期のナラダ・マイケル・ウォルデンのプロデュースした彼女の曲、僕はあんまり好きじゃないんです。なんかちょっと毒気のないポップな感じがして。そこのところはちょっと残念だったかな。ユーリズミックスのあの曲は好きなんですけど、あとのヒットはなあ。

 

 それでいうなら、1998年にローリン・ヒルのプロデュースで出たこの曲はよかったですね。後期の彼女の曲の中ではこれがベストです。これ、もう少し売れて欲しかったんですけどね。この時点で57歳だったんですけど、素晴らしい歌声ですよね。

 

 

そして近年の伝説といえば、これですね。これは2015年、ケネディ・センターで行われたキャロル・キングのミュージカルでアレサが披露した、彼女の代表曲でもありますフェミニズム・アンセム「(You Make Me Feel Like A)Natural Woman」を披露した時ですね。この時、アレサ、もう闘病してたはずで、年齢も73になっていたんですけど、これは信じられないパワーですよね。鑑賞していた当時のオバマ大統領が思わず感涙にむせんでしまったことでも非常に有名です。こういうことを可能にしてしまう歌声の魅力というのがアレサにはあったものです。

 

 今後、彼女のように歌えるシンガーというのは長い目で見れば出てくるとは思います。ただ、それがこんな風に時とケミストリーを起こして「時代の声」としてケミストリーを起こせるような存在というのは、そんなに簡単には生まれないような気がしています。

 

 僕も残念ながら生でその歌声を聞くことはなかったので非常に惜しいのですが、楽曲や動画を通して得た感動はせめて伝えていけたらなとは思っています。RIP

 

 

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 10:39
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ミロシュ・フォアマン死去 「カッコーの巣の上で」「アマデウス」生んだチェコの才人監督

どうも。

 

 

今日はこの訃報を語らないわけにはいきません。

 

 

ミロシュ・フォアマン監督が亡くなってしまいましたね。85歳でした。

 

僕がまだ子供から大人になるくらいにかけて、ミロシュ・フォアマンと言ったら大物でしたね。やはり

 

 

 

「カッコーの巣の上で」と

 

 

 

「アマデウス」を監督した人ですから!

 

 

オスカーの作品賞に2回輝き、しかもそれがオールタイム・ベスト映画みたいな企画で確実に上位に入る作品になっている。文句なしに実力派の監督ですよ。

 

 

 僕もこの監督は、よく主題としがちなところの、「”狂人”と思われがちな人の本当のところ」を描くのが名人級にうまかったのですごく好感を抱いていたものです。

 

 

 僕の場合は、これもありましたしね。

 

 

 

アメリカのポルノ雑誌王の波乱万丈の人生を「ナチュラル・ボーン・キラー」で注目を浴びた後のウディ・ハレルソンで描いた「ラリー・フリント」

 

 

 

70年代の伝説の破天荒コメディアン、アンディ・カウフマンの一生をジム・キャリーの主演で迫った「マン・オン・ザ・ムーン」。この主題そのものが90年代のオルタナティヴ・カルチャー的でカッコよかったんですよね。ラリー・フリントもこれも両方ともに主人公の相手役がコートニー・ラヴで、この映画に至ってはタイトル曲を始め、REMが音楽重要な役割も果たしましたしね。「ああ、この人の、人間の狂気性の主題って、90sのオルタナにも通じるところがあるのか」と思って、当時、すごく嬉しく感じながら見たものです。

 

 

 この人は、キャリアの割に作品数はそれほど多くなかったりする、あるいはちゃんと紹介された作品の数が少なかったりするからなんですが、その理由の一つが、彼が東欧の出身でハリウッド進出が遅い年齢だったからなんですね。この人、出身自体は東欧のチェコで、30代後半の60年代いっぱいくらいまではチェコで映画を作っていました。

 

 

 で、後で僕が映画史を掘り下げる作業を覚えた頃、2000年代の終わり頃ですね、その時に知ったんですが、フォアマンは60年代、

 

 

「チェコ・ヌーヴェルヴァーグを牽引する映画界のホープ!として見られていました!

 

 

 

一つがこの「ブロンドの恋」という映画

 

 

もう一つがこの「Fireman's Ball」という映画。のちのイメージと違って、すっごく60sのオシャレ・モードが強いコメディなんですよね。後者は共産圏での社会風刺もキツくて、そのせいで上映禁止にもなったようですけど。

 

 

チェコという国は、東ヨーロッパの中でも最もトンがった国だったみたいで、60sの若者カルチャーもかなり西欧にキャッチアップしてたみたいですね。何せ

 

 

 

日本でものちに渋谷系クラシックにもなった66年の映画「ひなぎく」が作られているくらいですからね。これはフォアマン作ではないんですが、共産圏の国において、ここまでエッジの強い、フランスのヌーヴェルヴァーグ的な映画が作られていたんだなと思うと、「ああ、スピリットがロックだなあ」と思って興味を抱かずには入られません。

 

 

実は僕、これがキッカケで、「この国は絶対に60年代にロックシーンがあったはず!」と思って色々調べたんですよ。そしたら、実際にそうで、この国とハンガリー。オーランドにはかなり規模の大きいシーンが存在しています。

 

 

 ちなみに、この当時のポーランド・ヌーヴェルヴァーグから出てきた監督がロマン・ポランスキーだったりもします。

 

 

 フォアマン監督の死は残念ですが、これをキッカケに、彼が生涯に残した映画がしっかり評価されることを願っています。

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 14:12
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ノーキー・エドワーズ死去 日本へのエレキギターの伝道師

どうも。

 

 

 

ヴェンチャーズのノーキー・エドワーズが亡くなってしまいましたね。これ、日本の音楽リスナーにとっては非常に大きなニュースだと思いますね。

 

 

 

1965年に来日公演を行って、日本に一大エレキブームを巻き起こします。日本でエレキギターといえば、まずはヴェンチャーズ。僕はこの時代、生まれてもなかったのですが、伝聞ではさすがに何度も聞いてきた話です。

 

 

このエレキギターが「公序良俗を乱す」というので日本では大きな社会問題になったと言います。不思議なことに、ファッションとかではなく「大きな音」が社会の敵扱いされた、というわけです。これ、アメリカの50sのロックンロールとはまた全く異なる歴史なんですよね。アメリカの場合、エルヴィスが出てきた時は「黒人の音楽を白人がやるなんて」という意味で、不良なり、悪魔なりの扱いをされたわけです。日本の場合、そうしたロカビリーはカントリー&ウェスタンの一種として入ってきて、そこまでの社会的批判を浴びてないんですね。その当時の和製のロカビリー・シンガーなんて、紅白歌合戦にも平気で出てれますしね。

 

 

 ところがエレキギターはそうはいかなかった。この後に出てきたGSなんかも、NHKでは出入り禁止になったと言いますしね。

 

 

 

 映像資料が保管されていないのが本当に残念ですが、こういう風に「勝ち抜きエレキ合戦」というテレビ番組までできて、大ブームになってますしね。もう、この当時、世の中的にはビートルズもストーンズも存在していて、もう日本でもビートルズはそれなりに人気もあったと聞いていますけれど、この当時、ことエレキギターに関して言えばヴェンチャーズだったといいますよね。

 

 

 

そして、これは世界的なヒット曲です。「急がば回れ」。映像自体も1960年のこれは「アメリカン・バンド・スタンド」ですね。

 

 

 

これもお馴染みです。「10番街の殺人」。

 

 

この「ダイアモンドヘッド」も非常にお馴染みです。

 

ノーキーはヴェンチャーズのリードギタリストで、まさに上の映像の数々では彼が主役なわけですが、1968年頃に一回脱退します。で、レコーディングに関してはよくわからないのですが、

 

 

 

メンバーの風貌もすっかり変わってますね。1968年、テレビドラマ「ハワイ・ファイヴO」の主題歌を手掛け、これが当時で言うところの久々の大ヒットとなります。

 

 

 

そして日本では、これもノーキーが絡んでるかどうかよくわからないのですが、ヴェンチャーズ名義で、渚ゆう子の「京都慕情」の作曲をし、大ヒットしています。曲調そのものは演歌なんですが、ヴェンチャーズ特有のマイナー・メロディが好まれていた、ということなのでしょうか。

 

 

ノーキー本人は元はカントリーの出身のアーティストで、その後はこんな風にスティール・ギターでも達人的な腕前を見せていました。なんとなく思うんですけど、日本の場合、ギターが文化がハワイアンやカントリーから輸入が始まっているので、そのルーツを持つノーキーのヴェンチャーズの方が、ブルースにルーツを持つギタリストよりも受け入れやすかったのかな、という気はしています。

 

 

 その後もノーキーは

 

 

 

ヴェンチャーズには出たり入ったりの活動だったようですけどね。日本にも、おそらく最も来日回数の多いアーティストが彼らなんじゃないでしょうか。とにかく毎年のように来ては、公民館みたいなところでコンサートやってるイメージありましたからね。

 

 

ただ、決して「ビッグ・イン・ジャパン」だったわけではなく、このようにしっかりと「ロックの殿堂」入りしているアーティストであることも忘れてはいけません。エレキギターの伝導師のイメージとしては、クリフ・リチャードのバックも務めていたシャドウズ(ヨーロッパではこっちの方が影響力、デカいです)と並ぶ存在だったと記しておきます。RIP

 

author:沢田太陽, category:訃報, 17:48
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