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シャルル・アズナブール死去

どうも。

 

 

また、大きな人物がなくなってしまいましたね。

 

 

 

フランスのシャンソン界の大物、シャルル・アズナブールが亡くなってしまいましたね。94歳でした。体調を壊しながらも、わりと最近、というか今年ですね。日本公演もしていただけに残念です。僕の友人がそのライブに行って、感動を語ってもいただけに残念です。

 

 

彼と言えば、もう、あまりにもレパートリーがありすぎて、大変ではあるんですが、有名なものといえば

 

 

 

シャンソンの代表曲になってますね。この「La Boheme」とか

 

 

 

1974年に、全英でも1位を記録し、のちにエルヴィス・コステロがカバーして大ヒットさせた、この「She」ですね。これが名刺代わりの代表曲です。

 

 

また、映画ファン的にはこれも逃せません。

 

 

 

フランスのヌーヴェルヴァーグをゴダールと共に牽引した監督、フランソワ・トリュフォーの初期の傑作「ピアニストを撃て」。これに主演したことでも知られています。僕、この映画はアズナブールのことを知る前に見た作品で、後で知ってビックリのパターンでしたね。あと、この映画のタイトルをもじって、「ピアニストを撃つな」というアルバムを作ったのはエルトン・ジョンでした。

 

 

 改めてご冥福をお祈りします。

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 20:59
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追悼・アレサ・フランクリン この12曲で振り返る

どうも。

 

 

マドンナの特集の途中ですが、これはどうしても伝えておかなくてはならないことです。

 

 

 

アレサ・フランクリンが亡くなってしまいました。数日前まで重篤状態が伝えられていたので覚悟はしていないといけないなと思っていたのですが、残念なことに帰らぬ人となってしまいました。癌での闘病もだいぶ長きにわたっていましたからね。なので、わかってはいるんですけど、やっぱり悲しいですよね・・。

 

 

 おそらく、もう日本でもかなりの話題になっているのではないかと思うのですが、アレサというのは「レディ・ソウル」「クイーン・オブ・ソウル」と呼ばれていただけあって、もう、「歌の上手い女性」の代名詞みたいなところがあります。実際、「20世紀最高のシンガー」みたいな企画が組まれると、彼女、必ず5本指には入りましたからね。1位取ることも珍しくなかったですね。

 

 

 あと、彼女の場合、その歌唱力が単に「技術的に上手い」というだけにとどまらず、「女性の声」「黒人の声」「社会の声」として、単なる「歌声」という次元を超えて機能したところもすごいことです。

 

 そんな彼女ですが、もう、とにかく歌声聴いてもらうことが最大の理解だと思うので、12曲、ここで選んで次々と紹介したいと思います。

 

 まず僕が彼女を知ったのは、この曲でしたね。

 

 

 

この2曲ですね。1985年のことです。上の「Freeway Of Love」が彼女の、この当時でおよそ10年ちょっとぶりに全米トップ10、最高位3位だったかな。上がる大ヒットになったんですね。その時に「なんか過去にすごい功績があった人」ということはわかりました。

 

 で、ちょうど同じタイミングで彼女はユーリズミックの「Be Yourself Tonight」というアルバムで、この「Sisters Are Doin It For Themselves」をアニー・レノックスとデュエットします。これは、女性たちに自分の力で立ち上がることを呼びかけた力強いフェミニズム・アンセムとして一部話題になりましたけど、この時点だと、「なぜアレサの力がこの曲で必要だったのか」までは、高校1年生にはまだ分からなかったかな。

 

 面白いことに、このタイミングでアレサが復活する予兆も、それに伴う60sのソウル・リバイバルの機運もあったんですよね。82年の終わりくらいから、フィル・コリンズとかホール&オーツがモータウン調のヒット曲を飛ばし始めて、84年にはティナ・ターナーがカムバック・ヒット。で、スティーヴィー・ワンダーも「心の愛」から「ウィ・アー・ザ・ワールド」で大活躍でしょ。85年に入っても、前年の射殺されてしまったマーヴィン・ゲイへの追悼曲が2曲も連続してヒット。で、アレサに、この後、ジェイムス・ブラウンの復活まで、連鎖反応で立て続けに起こったんですよね。あれは今から考えても不思議な現象でしたね。

 

 で、アレサはこの後、ジョージ・マイケルとのデュエット曲を全米1位、エルトン・ジョンとのデュエット曲も全米トップ10に入れ、80sいっぱいまではヒットメイカーとして活躍します。

 

 

 ただ、この時点ではまだ、「昔の彼女を聞いてみたい」とまでは思っていませんでしたね。そういう風に思うようになったのは90年代の頭ですね。やっぱりスパイク・リーの映画、とりわけ「マルコムX」を見たときに、「マルコムXとキング牧師が生きた時代のソウル・ミュージックを聞いてみたいな」と思うようになって。その頃、ヒップホップのリリックがプロテスト色濃くなっていたし、80sの頃にベスト盤で聞いたスティーヴィーの70sの曲は好きだったし、ちらっと聞いたスライ&ザ。ファミリー・ストーンのファンクはすごくカッコいいと思ったし。

 

・・と思ううちに、買ってみたのがこれでしたね。

 

 

この「30 Greatest Hits」。これは彼女が黄金期を過ごしたアトランティック・レコーズでの、1967年から74年までのヒット曲を集めたベスト盤ですが、もう悪いことは言いません。

 

アレサに初心者として入るならば、間違いなくこれがベストです!

 

これは僕はもう、何度となく、繰り返して聴きましたね。これでソウル・ミュージックの大事なレガシーの一部を学んだようなものです。

 

 

 

アレサは1967年から60sにヒットを連発し、たちまち「ソウルの女王」になるわけですけど、そこには強い社会的な意義が含まれていました。

 

最初のヒットは一番上の「Respect」なんですけど、これはパッと聴きはだらしない夫に向かっての妻の怒り爆発みたいな曲に聞こえるんですが、「私が欲しいのは敬意ってヤツよ!」との一節。これはかなりの社会的フレーズになりました。1967年と言ったら「サマー・オブ・ラブ」で、いわゆるベトナム戦争に反対したカウンター・カルチャーが開花する年なんですけど、全く同じタイミングでウーマン・リヴも、公民権施行後の黒人の「ブラック・パワー」のムーヴメントも活性化していくわけです。そこで「敬意を払ってよ!」というのは、それは「女性に対して」とも、「黒人社会に」とでも解釈できたわけです。

 

 

 「Do Right Woman」も、「愛して欲しいなら当然と思わず、あなたがそれなりの行動をとってよ」というかなりフェミニスティックな主張が込められているし、のちに映画「ブルース・ブラザーズ」の有名なシーンにも使われた「Think」は「考えてもみてよ。あなたひどいことしたでしょ。私なんかに構わないで自由になったら」っていう、だらしない男に喧嘩売った曲なんですけど、これも「女性や黒人にひどいことをした人へのリベンジ・ソング」とも取れる。この当時の彼女のヒット曲って、そういう深読みがすごくそそられるんですよね。それと全く同じことは男でオーティス・レディングに感じられるんですが、二人とも、ゴスペル通過した黒人でないとできないパワフルな歌い方でそれをやるもんだから、やはり当時、かなりのインパクトあったんじゃないかと思います。

 

 

 

 

こうして黒人や女性たちにとっての「ソウル・クイーン」となったアレサですが、彼女は同時に白人の音楽とうまく融和することもできた人でもあります。その代表が、この「I Say A Little Prayer」ですね。これはバート・バカラックが彼の曲を専門に歌っていたディオンヌ・ワーウィックに提供した曲ですが、アレサのカバーの方が、小洒落感が勢い強くなりがちだったバカラックの曲世界に、これまでになかったような熱いエモーションを注ぎ込んでいますね。

 

 

 彼女は60年代末期から70sの初頭にかけて、ビートルズ、ザ・バンド、サイモンとガーファンクルなど、白人のロック、フォーク系の曲を積極的にカバーし、ここではそれまでブラック・ミュージックに興味のなかった白人のロック・リスナーまで唸らせます。

 

 

 

そして、実はこの時期が僕がアレサで一番好きだったりするんですが、70sの前半、アレサは実はシンガーソングライターみたいな時期がありました。彼女、実はソングライターとしても優秀な人で、この「Call Me」とか「Day Dreaming」というのは、彼女が単独で書いた曲なんですよね。この当時のシンガーソングライターみたいですごくいいんですよ。あんまりその側面、語られないんですけど、今日のオーガニック系のR&Bにも通じるテイストあります。

 

 それから、そのシンガーソングライター的な部分を継承して、スティーヴィー・ワンダーやカーティス・メイフィールドといった、この時代屈指のクリエイターの曲も彼女は見事に歌いこなします。スティーヴィーのヤツは、70s最後の彼女のトップ10ヒット。下のカーティスの「Something He Can Feel」は「隠れ名曲」の位置付けだったんですけど、1992年にアン・ヴォーグがカバー・ヒットさせて有名になっています。

 

 

 

で、一時期売れない時期が続いて、冒頭で述べたように80sに復活するんですけど、本音を言ってしまうと、その時期のナラダ・マイケル・ウォルデンのプロデュースした彼女の曲、僕はあんまり好きじゃないんです。なんかちょっと毒気のないポップな感じがして。そこのところはちょっと残念だったかな。ユーリズミックスのあの曲は好きなんですけど、あとのヒットはなあ。

 

 それでいうなら、1998年にローリン・ヒルのプロデュースで出たこの曲はよかったですね。後期の彼女の曲の中ではこれがベストです。これ、もう少し売れて欲しかったんですけどね。この時点で57歳だったんですけど、素晴らしい歌声ですよね。

 

 

そして近年の伝説といえば、これですね。これは2015年、ケネディ・センターで行われたキャロル・キングのミュージカルでアレサが披露した、彼女の代表曲でもありますフェミニズム・アンセム「(You Make Me Feel Like A)Natural Woman」を披露した時ですね。この時、アレサ、もう闘病してたはずで、年齢も73になっていたんですけど、これは信じられないパワーですよね。鑑賞していた当時のオバマ大統領が思わず感涙にむせんでしまったことでも非常に有名です。こういうことを可能にしてしまう歌声の魅力というのがアレサにはあったものです。

 

 今後、彼女のように歌えるシンガーというのは長い目で見れば出てくるとは思います。ただ、それがこんな風に時とケミストリーを起こして「時代の声」としてケミストリーを起こせるような存在というのは、そんなに簡単には生まれないような気がしています。

 

 僕も残念ながら生でその歌声を聞くことはなかったので非常に惜しいのですが、楽曲や動画を通して得た感動はせめて伝えていけたらなとは思っています。RIP

 

 

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 10:39
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ミロシュ・フォアマン死去 「カッコーの巣の上で」「アマデウス」生んだチェコの才人監督

どうも。

 

 

今日はこの訃報を語らないわけにはいきません。

 

 

ミロシュ・フォアマン監督が亡くなってしまいましたね。85歳でした。

 

僕がまだ子供から大人になるくらいにかけて、ミロシュ・フォアマンと言ったら大物でしたね。やはり

 

 

 

「カッコーの巣の上で」と

 

 

 

「アマデウス」を監督した人ですから!

 

 

オスカーの作品賞に2回輝き、しかもそれがオールタイム・ベスト映画みたいな企画で確実に上位に入る作品になっている。文句なしに実力派の監督ですよ。

 

 

 僕もこの監督は、よく主題としがちなところの、「”狂人”と思われがちな人の本当のところ」を描くのが名人級にうまかったのですごく好感を抱いていたものです。

 

 

 僕の場合は、これもありましたしね。

 

 

 

アメリカのポルノ雑誌王の波乱万丈の人生を「ナチュラル・ボーン・キラー」で注目を浴びた後のウディ・ハレルソンで描いた「ラリー・フリント」

 

 

 

70年代の伝説の破天荒コメディアン、アンディ・カウフマンの一生をジム・キャリーの主演で迫った「マン・オン・ザ・ムーン」。この主題そのものが90年代のオルタナティヴ・カルチャー的でカッコよかったんですよね。ラリー・フリントもこれも両方ともに主人公の相手役がコートニー・ラヴで、この映画に至ってはタイトル曲を始め、REMが音楽重要な役割も果たしましたしね。「ああ、この人の、人間の狂気性の主題って、90sのオルタナにも通じるところがあるのか」と思って、当時、すごく嬉しく感じながら見たものです。

 

 

 この人は、キャリアの割に作品数はそれほど多くなかったりする、あるいはちゃんと紹介された作品の数が少なかったりするからなんですが、その理由の一つが、彼が東欧の出身でハリウッド進出が遅い年齢だったからなんですね。この人、出身自体は東欧のチェコで、30代後半の60年代いっぱいくらいまではチェコで映画を作っていました。

 

 

 で、後で僕が映画史を掘り下げる作業を覚えた頃、2000年代の終わり頃ですね、その時に知ったんですが、フォアマンは60年代、

 

 

「チェコ・ヌーヴェルヴァーグを牽引する映画界のホープ!として見られていました!

 

 

 

一つがこの「ブロンドの恋」という映画

 

 

もう一つがこの「Fireman's Ball」という映画。のちのイメージと違って、すっごく60sのオシャレ・モードが強いコメディなんですよね。後者は共産圏での社会風刺もキツくて、そのせいで上映禁止にもなったようですけど。

 

 

チェコという国は、東ヨーロッパの中でも最もトンがった国だったみたいで、60sの若者カルチャーもかなり西欧にキャッチアップしてたみたいですね。何せ

 

 

 

日本でものちに渋谷系クラシックにもなった66年の映画「ひなぎく」が作られているくらいですからね。これはフォアマン作ではないんですが、共産圏の国において、ここまでエッジの強い、フランスのヌーヴェルヴァーグ的な映画が作られていたんだなと思うと、「ああ、スピリットがロックだなあ」と思って興味を抱かずには入られません。

 

 

実は僕、これがキッカケで、「この国は絶対に60年代にロックシーンがあったはず!」と思って色々調べたんですよ。そしたら、実際にそうで、この国とハンガリー。オーランドにはかなり規模の大きいシーンが存在しています。

 

 

 ちなみに、この当時のポーランド・ヌーヴェルヴァーグから出てきた監督がロマン・ポランスキーだったりもします。

 

 

 フォアマン監督の死は残念ですが、これをキッカケに、彼が生涯に残した映画がしっかり評価されることを願っています。

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 14:12
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ノーキー・エドワーズ死去 日本へのエレキギターの伝道師

どうも。

 

 

 

ヴェンチャーズのノーキー・エドワーズが亡くなってしまいましたね。これ、日本の音楽リスナーにとっては非常に大きなニュースだと思いますね。

 

 

 

1965年に来日公演を行って、日本に一大エレキブームを巻き起こします。日本でエレキギターといえば、まずはヴェンチャーズ。僕はこの時代、生まれてもなかったのですが、伝聞ではさすがに何度も聞いてきた話です。

 

 

このエレキギターが「公序良俗を乱す」というので日本では大きな社会問題になったと言います。不思議なことに、ファッションとかではなく「大きな音」が社会の敵扱いされた、というわけです。これ、アメリカの50sのロックンロールとはまた全く異なる歴史なんですよね。アメリカの場合、エルヴィスが出てきた時は「黒人の音楽を白人がやるなんて」という意味で、不良なり、悪魔なりの扱いをされたわけです。日本の場合、そうしたロカビリーはカントリー&ウェスタンの一種として入ってきて、そこまでの社会的批判を浴びてないんですね。その当時の和製のロカビリー・シンガーなんて、紅白歌合戦にも平気で出てれますしね。

 

 

 ところがエレキギターはそうはいかなかった。この後に出てきたGSなんかも、NHKでは出入り禁止になったと言いますしね。

 

 

 

 映像資料が保管されていないのが本当に残念ですが、こういう風に「勝ち抜きエレキ合戦」というテレビ番組までできて、大ブームになってますしね。もう、この当時、世の中的にはビートルズもストーンズも存在していて、もう日本でもビートルズはそれなりに人気もあったと聞いていますけれど、この当時、ことエレキギターに関して言えばヴェンチャーズだったといいますよね。

 

 

 

そして、これは世界的なヒット曲です。「急がば回れ」。映像自体も1960年のこれは「アメリカン・バンド・スタンド」ですね。

 

 

 

これもお馴染みです。「10番街の殺人」。

 

 

この「ダイアモンドヘッド」も非常にお馴染みです。

 

ノーキーはヴェンチャーズのリードギタリストで、まさに上の映像の数々では彼が主役なわけですが、1968年頃に一回脱退します。で、レコーディングに関してはよくわからないのですが、

 

 

 

メンバーの風貌もすっかり変わってますね。1968年、テレビドラマ「ハワイ・ファイヴO」の主題歌を手掛け、これが当時で言うところの久々の大ヒットとなります。

 

 

 

そして日本では、これもノーキーが絡んでるかどうかよくわからないのですが、ヴェンチャーズ名義で、渚ゆう子の「京都慕情」の作曲をし、大ヒットしています。曲調そのものは演歌なんですが、ヴェンチャーズ特有のマイナー・メロディが好まれていた、ということなのでしょうか。

 

 

ノーキー本人は元はカントリーの出身のアーティストで、その後はこんな風にスティール・ギターでも達人的な腕前を見せていました。なんとなく思うんですけど、日本の場合、ギターが文化がハワイアンやカントリーから輸入が始まっているので、そのルーツを持つノーキーのヴェンチャーズの方が、ブルースにルーツを持つギタリストよりも受け入れやすかったのかな、という気はしています。

 

 

 その後もノーキーは

 

 

 

ヴェンチャーズには出たり入ったりの活動だったようですけどね。日本にも、おそらく最も来日回数の多いアーティストが彼らなんじゃないでしょうか。とにかく毎年のように来ては、公民館みたいなところでコンサートやってるイメージありましたからね。

 

 

ただ、決して「ビッグ・イン・ジャパン」だったわけではなく、このようにしっかりと「ロックの殿堂」入りしているアーティストであることも忘れてはいけません。エレキギターの伝導師のイメージとしては、クリフ・リチャードのバックも務めていたシャドウズ(ヨーロッパではこっちの方が影響力、デカいです)と並ぶ存在だったと記しておきます。RIP

 

author:沢田太陽, category:訃報, 17:48
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クランベリーズのドロレス・オリオーダン急死

どうも。

 

 

いやあ・・。これも本当にビックリというか・・・

 

 

クランベリーズのドロレス・オリオーダンが亡くなってしまいました。まだ46歳の若さだったんですよね。彼女は僕と世代が非常に近いことから1歳下なのも20数年前から知ってました。世に出てくるときが、ちょうど僕が音楽関係の仕事を始めたばかりの時でもあっただけに、「ああ、同世代が」と思わずに入られません。グランジ 〜ブリットポップ期のスターにはそういう思いを抱かずには入られませんが、彼女もその一人です。

 

 

 ドロレスのことを知ったのは、1994年の事です。前年に出したデビュー作がアイルランドから海を渡ってアメリカに届いた頃です。あの頃のアメリカはメディアがまだ若い新世代のバンドを時代の顔にしようとする気概があったものですが、クランベリーズもその中の一つでしたね。

 

 最初に知ったのはこれです。

 

 

 

 これですね。「Linger」、この時のドロレスの髪型が、「ギルバート・グレイプ」に出てた時のジュリエット・ルイスにそっくりで、すごく時代性というか、そういうの感じてましたね。この頃ちょうど、ビヨークやらPJハーヴィーやらコートニー・ラヴみたいなタイプの新しい女性アーティストがインディっぽいイメージで出てきていた時でそれがメインストリームになりかけてた時だったんですよね。

 

 

 

そのイメージはこのフェイ・ウォンの「恋する惑星」でクランベリーズの「Dreams」が印象的に使われた時も、そうしたエッジィな感じを与えていたものです。日本だと、この「Dreams」以降なのかな。巷でドロレスの声を耳にするようになったのは。

 

 

 

このウッドストック94もよく覚えてます。イメージとしては当時まだ出てきて間もない感じだったのに、もう、アメリカではかなりの支持があってオーディエンスの盛り上がりが凄いんだな、と言うのをテレビの生中継見て実感したのを覚えています。今日的にはグリーン・デイやレッチリ、NINで語られがちなウッドストック94ですが、ドロレスの姿も確実にありました。

 

 

そして、この年の10月にはすぐにセカンド・アルバムが出たんですけど、この最大のヒット曲の「Zombie」がとにかく長く売れて、さらに世界的にヒットしましたね。この時のドロレスのイメージってすごく突っ走りすぎるキャラというか。

 

 

 

 こういう風に坊主になっちゃったりね。この頃はまだ「アイルランドのシネイド・オコーナーの後継者」的なイメージもちょっと指摘されてもいましたからね。急にスポットライト当たったことでちょっと危うい雰囲気になってる時でもありましたね。

 

 

 ちょうどこの曲がヒットしている間にオーストラリアとかフランス、ドイツでも1位になったりしてるんですよね。英米よりもウケがいいくらいで。今回の死の騒ぎは南米でもすごく大きいんですけど、この時にワールドワイドな存在になってたんですよね。

 

 

 

 

そして96年、3rdアルバムも世界的にヒットしました。ただ、このアルバムが批評的にコケて、そこから間が空いたことで、快進撃がだいぶ鈍っちゃうんですよね。

 

 

 

このくらいまでギリギリ覚えてるんですが、この次のアルバムを持って1回解散します。

 

 

 その後、ドロレスも30代になってだいぶ落ち着いて

 

 

2000年代にソロやってた時はこんな感じでしたしね。

 

 

一番驚いたのは「ザ・ヴォイス」のアイルランド版で審査員やってた時ですね。この時は随分、イメージ丸くなったなと思ったものです。

 

 彼女はクランベリーズを再結成させて、ツアーも積極的にやってましたね。

 

 

 

去年には、こういう、セカンド・アルバムのジャケ写をパロったアンプラグドのアルバムも出していましたけど、これ見てもドロレス、随分落ち着いてたように見えてたんですけどねえ。

 

 

 今回、クランベリーズはレコーディングのためにロンドンに渡ってたそうなんですが、そこでの突然の死。一体何があったのか。

 

 

 やっぱり、本来なくなるべきタイミングでない時の突然の若い死というのは悔やまれますよね。しかもそれが、僕の音楽の思い出の中でいい時代のスターの一人がなくなると、やっぱり寂しいですよね。改めてご冥福をお祈りします。RIP。

 

 

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 07:13
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AC/DCの思い出と、これから

どうも。

 

 

 

 やっぱりマルコムの死はショックですね・・・。

 

 マルコムは、この写真のように、決して表に出る人ではなかったものの、後ろでしっかりと弟アンガスとブライアン・ジョンソン(と、その前のボン・スコット)を不動のポジションで支える姿というのが一番印象的でした。あの、微塵の乱れもない彼のリフの刻みの中で、フロントの2人も自由にプレイ出来てた。あのフォーメーションこそが最高でした。

 

 

 マルコム自身の魅力については昨日再掲載した投稿で描ききっているとも思うので、今日は僕がどうやってAC/DCと出会ったかの話をしましょう。

 

 キッカケは、小学校卒業する頃ですね。その当時に、「アメリカでかなりのヒットを記録したヘヴィ・メタルのバンドがやってくる」という触れ込みで、音楽雑誌でも、地方のテレビ局でも、AC/DCって何気に紹介されていました。ただ、世界に比べて、その認知が少し遅れていたのかな。何も知らない子供心にも、どこかちょっと後追いな感じはしてましたね。

 

 初めて知ったのはこの曲でした。

 

 

 この曲は、「悪魔の招待状」という、大砲のジャケ写で知られるアルバムの先行シングルでした。これ、この当時の日本のラジオでも結構かかってましたね。ビルボードでも初めて1位になってね。「わあ、すごい人気あるんだあ」と思ってました。

 

 ただ、中学になったばかりbの子供には、ギターよりブライアンのしゃがれ声の方がやっぱり気になってたし、それからやっぱり

 

 

 

これ、この当時、買って持ってました。1982年8月号のミュージック・ライフ。このように、やっぱ主役はアンガスだったんですよね。やっぱ、この格好と、あのアクションされたら、誰でもそうはなりますけどね。

 

 

で、このあとAC/DCは一回人気が低迷するんです。オリジナル・アルバムが2枚連続でコケまして、落ち目の印象まであったんですが、1988年にこれで復活します。

 

 

 

 1988年、これが当時、僕が浪人生になる直前でしたけど、ちょっとした衝撃だったんですね。この当時、友人の影響などでメタルとかもかじってたんですけど、あの頃聞いたどれとも違って、音圧で勝負するんじゃなくて、鋭角的な切れ味とテンポの鋭い速さでグイグイ決める感じがね。これが、決定的に僕の好きなロックンロールのイメージになったんですね。

 

 

 それで、この頃にちょうどCDが廉価になり始めて、CDか作品が廉価で出始めたんですね。それで僕もリアルタイム以外のものを掘り始めたんですけど、その頃に僕の心を掴んでいたのが、もう圧倒的にエロスミスとAC/DCだったんですね。エアロも「パーマネント・ヴァケーション」じゃなくて、70sを掘り下げた時に「これだよ!」と思ったし、AC/DCでも「バック・イン・ブラック」や「ハイウェイ・トゥ・ヘル」でそれを感じて。で、この2バンドと、チープ・トリックもプラスされて遡って行ってたら必然的に60sに当たって、ザ・フーとかヤードバーズも聞くようになった、という、20歳前後でしたね。

 

 

 

 そして大学2年の時に出た「レイザーズ・エッジ」というアルバムはオーヴァープロデュースで好きじゃなかったんですけど、そのアルバムのツアーのライブ盤は本当によく聴きましたね。ちょうどその頃、グランジが流行りだして、前述した音楽趣味になっていたので移行もしやすい感じになっていたんですけど、やっぱグランジ連中もリスペクトしていただけあって、AC/DCは他のメタル系のバンドみたいなダメージって一切なかったんですよ。その時思ったものです。「ああ、普遍的なもの、選んでてよかった」と。現に下の「Big Gun」なんて、サントラの他の曲、アリス・イン・チェインズとかオルタナ色の方が強かったんですけど、これがむしろ一番カッコ良いくらいの感じでしたからね。

 

 

 そして1995年にリック・ルービンのプロデュースで70sっぽい音に戻ってね。ドラムがフィル・ラッドに戻って、スネアがパスパス言ってるのがいいんです!そこで、ますます気持ち的に盛り上がって、「ちくしょう、ライブ見てえ!!」となってきたわけで、そして次にやっと

 

 

 

2001年2月19、20日、夢にまで見たAC/DCのライブが横浜アリーナで観れたわけです!!

 

2日間、両方見ましたけど、とにかく度肝抜かれましたね!だって、2万人くらいは入るアリーナで、200人のライブハウスと同じ音が鳴ってましたからね!これ、衝撃だったんですよ!あの頃、人生で一番ライブハウスに行ってた頃でしたけど、狭いライブハウスでのケイオティックでギザギザの音の質感があの広いところで感じられるなんてこと、後にも先にも、やっぱ、これだけかなあ。ジャック・ホワイトのギターにも腰抜かしてますけど、ちょっと質感違うもんね。

 

 で、2日間、選曲もMCも演奏も、全く寸分の違いもないライブやったのに、2日目の方が感動したんですよ(笑)。それもまた、すげえなあ、プロだなあ、と思っていたく感動しましてね。

 

 そして、その時に、「前の二人もやっぱりすごいんだけど、マルコムから後ろの三人のリズム・キープ、尋常じゃないね!!」と思ったわけです。全くのブレがない、メトロノーム並にリズムの狂いのない、正確でかつ、キレ味鋭いリズムですからね。やっぱり、この、底辺でこれ以上ないほどに強力に固められたグルーヴがあってこその名人芸のあれこれなんだなと、あの時に初めてAC/DCの極意がわかったような気になりましたね。

 

 

 そして2010年3月、再び日本で見たわけです。僕の行った日は14日で、ブラジルに発つ1ヶ月前ですね。このころの日付でこのブログの過去記事探ると、感想出てきますよ。

 

 で、この時にはまさか気がつくわけもないんですけど、この「ブラック・アイス」ってアルバムのツアーを持って、マルコムがAC/DCのステージに戻ってくることはありませんでした。

 

 

 

 そして2010年6月28日のスペインのビルバオでのライブのこの曲がマルコムのステージでの最後の曲となりました。僕がライブ見た3ヶ月後がそんなことになるなんて・・。なんか信じられないですけどね・・。だって、これだけの演奏聞かせられているのに・・。

 

 この後、AC/DCは2014年に「Rock Or Bust」というアルバムを出してワールドツアーもやりましたけどね。でも、もうマルコムは引退してて、後任には、以前にもマルコムが病欠したツアーの時に代役を務めた甥っ子(と言っても、年齢ほとんど変わらない)スティーヴィー・ライトが務めました。昨日再掲載した記事でも、「AC/DCくらい大物になると、ザ・フーみたいにすぐに代役を立てられる。それくらい、本当のプロならプレイできるもの」と思って応援してたんですけど、でも、フィル・ラッドが殺人未遂でバンドを追われ、ブライアンが耳の障害でツアー離脱を余儀なくされ、アクセル・ローズが代理を務める、なんて事態までありました。でも、こうなってしまうと、「もう、そこまでしてAC/DCやらなくてもいいよ・・」という寂しい気持ちにもなりました。実は「Rock Or Bust」もマルコムの不在が気になって、あんまり聞く気が起きない感じで、そこまで聞いてなかったりもsますからね・・。

 

 

 AC/DCみたいな、「ロックンロールの原点」とも言えるサウンドは伝統芸として継承はされて欲しいんです。なので、継承者が出るまでは彼らにはステージにたち続けて欲しくはあったんです。でも、いくらアンガスが健在とはいえ、それを支える人たちがここまでいないとなると・・。そう思うとさすがにねえ・・。

 

 

 

author:沢田太陽, category:訃報, 03:44
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