RSS | ATOM | SEARCH
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(終)現在のガラパゴス・アーティスト
どうも。


「平成ガラパゴス洋楽史」、10回目の今回でいよいよ最終回です。
とは言え、時間がとにかくかかってしまいましたね。当初、このタイトル通り、もっとデータ重視にして5回くらいで終える予定だったのですが、「やっぱ、この話はちゃんと分けて話した方がいいよな」とか「あっ、あれも話しておきたい」とか考えて付け加えて行ったら全部で10回まで膨れ上がってしまいました。しかも個人の体験談が長いという(苦笑)。


で、今日はラストなので、「現在、どのアーティストが日本で”ガラパゴス”で得をし、損をしてるのか」、そのことについて書こうと思います。


日本の場合、80sアーティストと様式美系メタル・アーティスト、(1)で語ったような初期J-Waveに愛されたオシャレ系アーティストは日本でかなり特殊な立ち位置を占めるに至ってはいますが、近年はそれが「オリコンのアルバム・チャートの上位に居座る」ような状態はなくなってきてるので、今回はもうその辺りはいいかな、と思って語らないことにします。


では、まず、「現在の日本のガラパゴスで得をしているアーティスト」、これから行きましょう。最初はこのアーティスト。



・バックストリート・ボーイズ


やっぱ、まずはこれでしょうね。特に2005年以降ですね。そこから4枚アルバムを出してるんですが、その間、日本では全てオリコンのトップ5に入っています。

「何言ってんだ。その4枚ならアメリカでもトップ10入ってるじゃないか」。そういう反論はあるでしょう。たしかにそうだし、ドイツやスイス、カナダでも同様の結果は出てます。ただ、アメリカでの売り上げが10〜20万枚なのに対し、日本では20〜30万枚売っています。


これに関して、「日本、ちょっとおかしいんじゃないか?」と思われるさらなる状況は、このBSBの売れ方をジャスティン・ティンバーレイクの各国でのソレと比べるとすぐわかります。基本的に、2枚目のソロ、「Futuresex/Lovesound」以降、ジャスティンのアルバムの最高位というのは大概の場合1位で、悪くともトップ3内という感じです。それはBSBがいまだにトップ10に入るようなドイツやカナダでも状況は同じです。

しかし!

日本の場合、
ジャスティンがオリコンのトップ10に入ったことは今日に至るまでありません(自己最高は11位)!


この認識の違いはさすがに驚きですね。BSBがもう10年近くヒットシングルがない一方、ジャスティンの方はアルバムを出したら世界的にチャートのトップを狙えるくらいのシングル・ヒットが毎作2〜3曲は必ずあるという状況なのに、それが全然反映されてないわけですからね、日本でだけ!



続いては、このバンドですかね。


・サム41


これも日本での人気が突出して高いですね。彼らも、2004年以降の3枚のアルバムで、オリコンで3枚連続でトップ10に入ってますが、2007年には1位にさえなっています。彼らのアルバムがそこまでのチャート・アクションを示すのは、本国のカナダ以外、他にはありません。2011年のアルバムはデビュー以来もっとも売り上げが悪く、どこの国もたいがいが20〜30位台という結果だったのに日本では7位(カナダでは9位)でしたからね。


これが異例なことは、今度はパラモアのアルバムと比較して語ることにしましょう。パラモアのアルバムは2009年の時点で英米初登場1位で、オーストラリアでも1位、カナダで3位、ドイツで7位などのチャート・アクションを誇っています。僕の住んでるブラジルでも、2010年頃はヘイリーがいろんなティーン雑誌の表紙になっていました。もう、あの時点で、サムのデリックの元妻、アブリル・ラヴィーンの人気は食いそうな勢いでした。


にもかかわらず、パラモアは日本では2009年のアルバムで19位、今年13年のアルバムで21位が最高ですよ!これじゃ、日本におけるBSBとジャスティンの関係と同じで、日本でアヴリルの人気がヘイリーに食われる瞬間というのはもしかしたらやって来ないかもしれません。


続いては、こちら行きましょう。



・アンダーワールド


この人たちの場合、イメージとしては、「批評家ウケが良さそう」な感じがあるかもしれませんが、この人たちも「ビッグ・イン・ジャパン」の印象は今となっては残念ながらぬぐえません。この人たちも2007年のアルバムがオリコンで6位、2010年のアルバムが5位と、この時期のアルバムが世界で唯一トップ10入りした国となってしまいました。本国イギリスでは2007年のが47位、10年のが26位。その他の国ではそれ以下です。そういう状況にもかかわらず、2007年のフジロックではヘッドライナーでした。


たしかに、「ボーン・スリッピー」がでた1996年には時代の寵児にはなったし、ケミカル・ブラザーズ、プロディジー、ファットボーイ・スリムと並んで「ビッグ・ビート四天王」だったこともたしかです。でも、もう既にビッグビートのブームなんて終わっていて、ポスト・パンクもニュー・レイヴもEDMもあったのになぜ?とくにクラブという世界は「新陳代謝」が必要な環境だとも思うので、もっとも「昔の名前で」という概念が本来通用しない領域のはず。そこで「実績重視」されてしまったのは、とりわけフジロックのトリの際にはなんかすごく引っかかってしまいましたね。



あと、続いてはこちらですね。

・フーバスタンク

実はこれに関しては、その実態を知ったのが、今回の特集をやるにあたってはじめてだったので、個人的に非情に驚いています。この人たちは2004年に「Reason」って曲が世界的にヒットしてそれで有名になりましたね。その時点では日本でのオリコン最高位は35位と、まずまずな順位だったわけですが、驚いたことに、2006年に出た次作が世界唯一のトップ10入り(8位)を果たしてしまいました!これはおそらく、他の国が「ラッキーな一発ヒット」くらいに思っていたところ、日本が売りに行った結果、そうなった、という感じだったのでしょうか。しかし、それよりもさらに驚いたのは、2009年のその次のアルバムではさらに6位に上がってます!もう、さすがにこの時期になると、アメリカからのヒットの状況も入ってこない(26位だったようです)し、他で入った国もオーストラリアくらい(88位)なので、ビックリですね。う〜ん、「日系人がフロントマン」という要素はここまで効果があるんでしょうかねえ。


ちなみに2011年のアルバムは日本でもさすがに18位でしたが、あとはせいぜい本国アメリカで66位を記録しただけでしたね。


では、今度は視点を変えて「その売り上げではフェスのヘッドライナーなんてとても望めないアーティスト」。困ったことに、今の日本だと、この例が増えてきています。見てみましょう!



ザ・キラーズ(オリコン最高24位)
アーケイド・ファイア(オリコン最高40位)
キングス・オブ・レオン(オリコン最高45位)
クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ
(オリコン最高66位)
ヤーヤーヤーズ(オリコン最高54位)
インターポール(オリコン最高88位)



う〜ん、キツいなあ〜。

特に上の3つに関しては、英米だけじゃなく、ドイツ、カナダ、オーストラリア、オランダ、北欧あたりでもトップ5に入ってる人気ですからね。

ここにあげた人たちの場合は、2000年代の半ばあたりから人気があって、売り上げももう、少なくとも英米ではトップ10に入るし、フェスでも、YYYsやインターポールを除けばヘッドライナーやっててもおかしくないところにある人たちばかりです。


そして今度はさらに、ここ5年くらいでフェスのヘッドライナー・クラスになった人たちの日本でのオリコン最高位、これを見てみましょう。



マムフォード&サンズ(オリコン最高97位)
フローレンス&ザ・マシーンズ(オリコン最高122位)
ブラック・キーズ(チャートイン記録なし)



いや〜、これもなかなかキツい結果ですね。


ここ5年の中だったら、ヴァンパイア・ウィークエンド(最高13位)とフェニックス(最高18位)は日本でも大丈夫な感じがあるんですけどね。


それ考えると、(9)でも書きましたけど、ジェイムス・ブレイクの(最高12位)ってすごい成績ですけどね!彼の場合は批評的に国際的に見て非常にガチなアーティストなので心配する必要は一切ないと思います。ただ、その一方、(最高13位)と、これまた驚きの結果を出しているザ・ストライプスはまだ、やや「ビッグ・イン・ジャパン」化が心配される要素は残されてはいますけどね。


・・といったところが、平成の四半世紀に見る、「日本の洋楽のガラパゴス的な独自傾向」といった感じでしょうか。


「日本独自の判断で音楽価値を育てる」こと自体が決して悪いことだとは思いません。ただ、「惰性のひいきの引き倒し」で昔からいるアーティストを押すあまり新しいアーティストの育成を妨げたり、国際的な状況をずっと無視し続けて本当にステイタスのあるものを伝え損ねて平気でいられるような感覚は、やはり大問題だと思います。


その意味で、平成になってからの方がこと海外カルチャーに関して言えば伝達の問題がネットもあるにもかかわらずさらに悪くなった感が否めないんですが、ただ、海の外には厳然とした「事実」もあるわけで、それを情報として享受しようとする人たちも決していなくはならないこと。これも忘れてはいけないことだと思います。なんとかしなくちゃね。


これでやっと、「ガラパゴス洋楽史」、終わりますが、今回のこの連載、「ガラパゴス」という名でサイドバーにカテゴリーを作っておきましたので、興味のある方は是非まとめて読んでみてください!
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 10:45
comments(6), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(9)「21世紀のインディ・ロック」もなかなか大変だった
どうも。


では、この連載「平成ガラパゴス洋楽史」も大詰めを迎えて来ましたが、今回は僕の「Hard To Explain」での活動とも一致するところの、「21世紀のインディ・ロック」について書くことにしましょう。


いわゆる、「ストロークス以降」というところからはじまるものですが、今でこそ、「ピッチフォーク」などを通して英米のインディをチェックする、という行為は、この僕の方がむしろ「過大評価なんじゃないの?」と言いたくなってしまうほどだいぶ浸透したものになってはいますが、そもそもは「あまりに誤解が多く、なんとしても擁護したいロック」であり、その気持ちがなかったらHTEも作っていません。


では、どんな風に誤解や無理解を得ていたのか。まずはそこからはじめたいと思います。


99〜2000年頃、僕は正直なところ、「オルタナティヴ・ロック」というものに失望してました。そのキッカケとなったのは、もうあれしかありません。リンプ・ビズキットのブレイクと「ウッドストック99」です。日本のリスナーの中には「リンプが流行ったあたりから洋楽聴きはじめた」という人もいるし、それがオルタナ系のメディアの中で紹介されて来たことで「なんでそこまで責められなきゃいけないの?」と思ってた人もあの当時は少なくなかったですね。でも、ですね。僕もそうだったし、英米の批評誌(NMEはこないだも皮肉った特集組んでました)でもいまだに「ニュー・メタルほどひどい流行りはなかった」みたいなことを書き続けていますが、それは無理もありません。だって、あのバンドがやったことって、カート・コベインが心底嫌ってきたことを誇張して実践してたわけだから。

(3)のとこでも「モトリー・クルーとかホワイトスネイクのミュージック・ヴィデオで見るようなDQNな成り上がり趣味」みたいなものへの反動がそもそもグランジの大元にあった、というようなことを書きましたが、リンプ・ビズキットが成功して真っ先にやったことはまさにそのグランジ勢が最も敵視していたものでした。しかも、80sのそれらのときより意図的にそれを演出してたし、しかも80sのときよりマッチョ性が強かったのでなおさら目立ったんですよね。しかも黒人をはじめとしたマイノリティの有色人種がそれをやるんだとしたら「これまで歴史の中で虐げられてきたからね」と事情を差し引いて考えることもあるんだけど、バリバリの白人で暴力的で教育受けてる感じが薄くてマッチョなわけでしょ。で、実際にフレッド・ダーストが「ウッドストック99」で客を煽ったのに歩調を合わせるように、同フェスでレイプ事件や放火騒ぎまで起こってしまった。「バンド側は被害者」かもしれないけど、そういうバカなヤツをオーディエンスとして誘発する力もあの当時の彼らには実際にあったしね。で、そういう客も含めて、人種差別とか性差別とかいかにもしそうな白人の体育会系のマッチョないじめっ子タイプが絵として想像できやすいじゃないですか。タイプとしては「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のビフとか、「ベスト・キッド」のコブラ団みたいな感じですよ(例がクラシックすぎてゴメンナサイ、笑)。カートは晩年ずっと「ハイスクールのときに自分をいじめてたようなヤツらがライブを見に来てる」と心底悩んでましたが、カートの例を差し引いたにしても、「パンクロック」という音楽が70年代からずっとやってきたリベラルなメッセージともそれって根本的に異なるわけじゃないですか。そんな自分の信じてきた信条と真反対のものを押す訳にはいかなかったのです。



しかもそれがメタルという名目でカテゴライズ(だから明確な差別化の意識を持ってアンチの人たちは”ニュー・メタル”と呼んでました)されるんならいいけど、それがグランジとかミクスチャーの要素があるというただそれだけの理由で「オルタナ」だと思って聴いてた人もいましたからね。でメディアも紹介してたしね。ビルボードのラジオ・チャートなんて2010年くらいまでそれをオルタナティヴ・フォーマットの主軸に置いてたくらいですからね。そりゃ、音楽雑誌の中にも「本来の意義」なんて考えないで形式だけで勘違いして間違うものも出てきますよね(それじゃ本来絶対いけないはずだけど)。中にはレイジとかナイン・インチ・ネールズみたいにストイックな音楽性でリンプ・ビズキットを公的に露骨に嫌う発言もしてたのに、ニュー・メタル的な立場の人に聴かれる機会が増えた人たちもいて、気の毒にも見えましたね。


僕はそれが本当にいやだったので、「代わりになるもの」を求めてました。その当時、「聴くものを急に失った 」難民みたいなリスナーは多かったものでした。USのオルタナもブリットポップも両方同時期に終わりましたからね。なので、「次に盛り上がりそうなもの」として、USのインディの一部で話題になっていたエモやポストロックに賭ける人も多かったですね。レディオヘッドの「Kid A」にその雰囲気がありましたからね。日本では、バンド界隈の人たちやそのファンの人たちの間で盛り上がってましたね。僕もそれに乗りかけたことがあります。だけど、エモは聴いてるうちに「スクリーモ」「エモ・メタル」みたいな「これも新しいニュー・メタルの一種になりそうだな」と思えるものが出てきたり、ポストロックでいうと、トータスとかモグワイとかあったんですけど、こういうものに「ロックシーンを牽引する」ことまでを期待するのは「楽曲フォーマット的に無理があるだろう」と思いました。当時、僕の知人が「ポストロックのバンド組んだんだ」とか言うんでライブを見てみたら、延々とテロテロとフュージョンの出来損ないみたいな自己満足的で退屈なものをかなり聴かされたりもしたので、それに対してウンザリした感情もなかったと言えば嘘になります。


で、僕は(8)で書いたような「雑多な洋楽全般」というものに興味を持ったことで、このブログの前身のメルマガを2001年にはじめてみたわけですけど、その当時はインディにはあまり大きな期待をしていなかったのも事実です。「そのうち共感できるロックが出てくればいいな」とは思っていたんですけど、その瞬間は意外と早くやってきたこととなりました。


ただ、それがザ・ストロークスになるとは、僕でさえ最初は思わなかったものです。団体名を彼らの曲名にちなんでつけておいてナンですが(笑)、これに関しては既に何度も公言してることでもあります。最初は「なんかヴェルヴェット・アンダーグラウンドみたいなバンドだけど、これ、そんなに新しいの?」などと思っていました。それと同時に出てきたザ・ホワイト・ストライプスに関して言えば、「とてもいいガレージ・バンドだな」と好感は持ちましたが、まだライブを見た訳ではなかったので、本当の意義までは当時わかりませんでした。


ただ2002年、その2つにザ・ハイヴスやザ・ヴァインズが加わった際に、その意味がハッキリわかってきました。この当時、もう既に「汚い」はずだったグランジ風のギターもニュー・メタルではすっかり制御された厚い音圧に変わっていました。カジュアル志向のファッションもすごくマッチョでスポーティなものに変わったり。そこに比べると、ストロークス以降のバンドは音はスカスカしてエッジが効いてるし、ファッションには文科系のオシャレな佇まいがあるし。それは60年代の昔からある本来、ロックってこういうアート志向な人がやるもんだったよな、ということをもう一度教えさせてくれるものでした。僕はやっと、「自分のいるべき場所」を見つけた気分になりました。


そしてメディアもそれを後押ししました。上記したバンドたちはNMEが押したように言われているしそれは事実なんですが、アメリカでもTIMEみたいな社会誌が「ニュー・ガレージの時代がやってきた!」と言って特集を組んだり、「THE(ザ)が着くバンドによる原点回帰が新しい」みたいな特集が組まれ、同年中にはそうしたバンドたち(Theがついた人たち多かったんだ、ホントに)が大挙して出て来るようになりました。そして、いろんなバンドにインタビューしても「ストロークスが出てきたおかげで、ロックが本来あるべきものに戻ってきた」と若手もベテランも概ね絶賛して迎えていたものです。


にもかかわらず!


当時の日本の音楽メディアの、この音楽に対する扱いというものには本当にひどいものがありました。「こんなもののどこが新しいんだ」という論調は珍しくなかったし
「NMEがまた変なもの流行らせようとしやがって。ブリット・ポップ以降、もうだまされないぞ」みたいな、考えられない反動がありました。全く信じられなかったです。パンク以降の文脈で言って、本来認められるべきではないリンプ・ビズキットみたいなニュー・メタルを咎めず、かわりに「ロックを再生させた」と評判のものを叩いてたんですから。「なんで、そんな論評が可能なの?本当にパンクとか、グランジ/オルタナの意味をこの人たちは理解してたのか?」と思って僕は悲しくなりましたね。なんで、この期に及んでグランジのときと同じ失敗を繰り返そうとするのか。ただでさえあの頃は、9/11の余波で「暴力的メッセージが強い」ということでアメリカでラップ・メタルが総じて閉め出しを受けていて、すごく攻撃しやすいタイミングでもあったのに。


このロックは、ニュー・メタルやポップ・パンク側の人たちの注目は受けなかった(ファッション違い過ぎたしね)という予想通りなことが起こったどころか、
ポストロックやエモにハマってた人たちには無視され、UKロックファンには「国籍がイギリスじゃないから」と些細なことにこだわられ。そういうとこもグランジの扱われ方によく似てました。


でも、「レトロだ」なんて言う人が多かったものですが、たとえばストロークスのサウンドにはクラブっぽいダンス・グルーヴがあり、それは同じニューヨークから台頭してきたジェイムス・マーフィー以降の「ポスト・パンクで踊る」感覚に先駆けたものでもあったし、ホワイト・ストライプスには「機材は古いままで、人間の創意工夫だけでロックを進化させる」という、「制限された中での創造性」という挑戦があったし、ジャック・ホワイトの超絶的な表現力でステージで何万人の人たちを驚かせていた。意味はしっかりあったんです。それだからこそ、この後にヤーヤーヤーズやらインターポールやらキングス・オブ・レオンがキラーズが続き、イギリスからリバティーンズやフランツ・フェルディナンドが・・と出てきたわけでもあったのです。2002〜04年は新しいバンドが出てきては、それらが新しい時代の担い手になりそうな勢いで台頭してきてたから本当に楽しかったものです。


にもかかわらず!


当時の日本の洋楽雑誌の表紙は「レディオヘッド、オアシス、レッチリ、グリーン・デイ」の表紙のローテーションを延々繰り返すだけ!完全に(7)で書いたような、日本でようやくオルタナやブリットポップに追いついたときの良い思い出にしがみつこうとするばかりでした。英米のロックシーンは、90年代前半並みに新しいシーンの主役が出て来ようとしてたのに。2004年5月、僕がHard To Explainをはじめたのは、こういう状況にあまりに我慢がいなかくなっていたからでした。


HTEをはじめた当初は、ストロークスがようやくウケはじめて、フランツが期待を持たれてデビューし、ピート・ドハーティのお騒がせネタがタブロイドを賑わせる状況があったり、まだ「耳の早い人」だけの盛り上がりではありましたがラプチャーとかLCDサウンドシステムがクラブ界隈でそれなりに盛り上がってはくれました。

ただ、
頭の痛い事態は続きましたね。まだ当時の洋楽業界は、このブームをなんとか「イギリス」となんとか結びつけようと、かなり無理のあった努力をしてましたからね。その結果、カサビアンやザ・ミュージックが「プライマル・スクリームやストーン・ローゼズに似てるから」という理由で、日本でのこの辺りのバンドでトップクラスの人気だったのは正直嫌でしたね。別に両バンドに恨みはなかったんですけど、あまりにも「比較対象への愛」を露骨に前面に出して聴かせようとする人たちには正直うんざりしてましたね。


僕のこうしたイライラが解消されたのは、おそらくアークティック・モンキーズのブームがあって、アメリカでピッチフォークが注目されはじめた2006〜07年くらいからだったような気がします。その頃になると「誰がアルバムを3枚以上出しても淘汰されなかった」の結果が出て、日本でのセールスは海外のソレとは比較にならないもののそれなりの支持を受けるようになったバンドも少なくなかったし、他のものには反応しなかったのにアークティックだけには反応できる、という人が多かった。後発組ゆえに、先人たちのエッセンスをうまく統合出来てたところは、彼らにはあったと思います。そしてピッチフォークが出てきたことによって、これまでのイギリス一辺倒のインディへの接し方がアメリカにまで広がって行った。そこは大きかったと思います。そして、知らない間に気がついたら、あれだけ猛威を振るったニュー・メタルの連中もいなくなってましたしね。


そして2008年にMGMTやヴァンパイア・ウィークエンドが台頭したあたりから、「それがアメリカのバンドだからどうのこうの」みたいな、以前に聞かれたような屁理屈めいたことも聞かれなくなりました。もしかしたら、海外のインディを聴いてる人の総数自体は減っていたりするのかもしれないけど、ネットを通じて「新しい音楽を探そう」とする人たちの熱意を、僕がHTEをはじめたときよりも強く感じることが多いのも事実です。情報の使いこなしも上手になってきてるし、その意味では、だいぶマシにはなったのかな、とは思います。


ただ。


そんな、「状況がよくなったかな」と思える今の日本のインディ・ファンですが、「ここの点はまだ弱いかな」と思えることがひとつあります。それは「インディ・ロックの、全エンタメ界での位置」が自覚できていないこと。


(8)でも書きましたが、日本の場合、映画や海外テレビの情報伝達がよその国に比べて信じられないくらい遅いので、それらに目もくれず、インディ・ロックの情報だけに集中する、ということが可能です。ぶっちゃけ、ピッチフォークとNMEや、それに類するメディアの情報だけ集めていれば、それは決して不可能じゃないし、そういう生活になれていれば、さもそれらが「権威」のように映ることもあるでしょう。

しかし!


今の世の中、それがピッチフォークであれなんであれ、欧米圏では権威でもなんでもありません。そこは忘れてはいけません。


インディのシーンが何かのムーヴメントに注目して騒いでいたとしても、それは決して大きなものではありません。今、どんなにインディで騒いだところで、マイリー・サイラスのお騒がせ報道や「Breaking Bad」の最終回ほどの話題をさらえるトピックなんてロックにはないのが現状なんだから。


これ、たとえば、「Entertainment Weekly」とか「Metacritic」とか「Gold Derby」みたいなエンタメ総合メディアとか批評アグリゲイター(いろんなメディアのレビューを合計したもの)などの情報を見てたりすると特にハッキリとわかるのですが、海外エンタメで一番強い影響力を持ってるのは映画で、そこにここ最近有料局の台頭で力をつけつつあるテレビが迫っている感じです。音楽は、セレブ・ポップスターこそ、その2つにやっと肩を並べられるくらいの力はありますが、それ以外は正直弱いと言わざるを得ません。総合エンタメ・サイトで音楽が占める位置なんて昔に比べ本当に小さくなってるんだから。


日本の熱心なファンの方の場合、「専門メディアで騒いでるもの」というのをヒップだと思って夢中になる習性が昔からあります。その「現場」で盛り上がってるものこそが本当にカッコいいものだ、と。それを僕は「間違っている」とまではいいません。


しかし、そうやってしまうから、どうしても克服できないものがどうしても1つ出てしまいます。それが「総合チャートを読めないこと。」すごく、「一点集中型」の音楽の摂取の仕方をしてしまうあまり、全体像が見えないから、たとえばビルボードみたいなヒットチャートを見る習慣がない。そういうことをしてしまうがあまり、「インディで今、本当に一般的にも一番流行っているものをゴッソリ見落としてしまうことも少なくなくなってます。」その結果、欧米のフェスで限りなくヘッドライナーに近い存在になってるようなものが欠落してるようなことも珍しくありません。「チル・ウェイヴ」や「ビーチ系インディもの」とか、欧米の音楽界全体でも一般知名度を得たブームになったかどうか微妙なシーンに対応し、ジェイムス・ブレイクみたいな決して易しくないタイプの音楽にオリコン最高位12位でこたえる音楽理解度を示す力があるのに、逆に英米だったら結構一般層まで知っていて評判だってそこまで悪い訳ではないブラック・キーズとかフローレンス&ザ・マシーンみたいなアーティストが完全に見落とされている、みたいなことが平気である。ちょっとどこかで見方変えないと、落とし穴にはまりかねない情報摂取のウィークポイントが今の日本のインディ・ロック・ファンにはあります。


でも、まあ、それでも「見当違いの屁理屈」で時代を変えつつある音楽が不当に責められたりするようなことに比べれば、それでも全然マシなったんですけどね。
 
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 13:21
comments(2), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(8)容赦のない英米の音楽界の変化
どうも。

では、残り3回のガラパゴス洋楽史、話を進めましょう。


前回は94〜97年の日本での洋楽シーンを振り返り、USオルタナやUKインディのシーンが94年以降にようやく日本でも盛り上がり、それが遂にはフジロックの開催にまでつながったことを書きました。今回はその続きの、98年からミレニアム過ぎのところくらいまでを書こうと思います。

97年頃は日本にいてすごく音楽シーンが明るく見えましたね。オルタナやUKロックは巷でも聴かれるようになったし、フェスも日本で開かれるようになったし、日本の邦楽のバンドのシーンでもオルタナの影響を受けたようなタイプのバンドが増えてタワーやHMV、CATVの音楽チャンネルや音楽雑誌ですごく盛り上がるようになったし。僕は当時NHKでそうした日本のバンドの紹介をスタジオ・ライブという形で紹介する番組のディレクターをやってましたが、「日本でもニルヴァーナがやったみたいなこと、起きないかな」なんてことを期待しながらやってました。その一方で、その年の春からクロスビートで執筆活動も会社に黙ってやるようになり、それが今日の僕へと続いて行くこととなりました。この20年くらいでもっとも僕が楽天的で無邪気だったのがこの頃かもしれません。


しかし!


残念ながら、それは長く続きませんでした!


まあ、冷静に考えたらたしかにそうなんですよね。日本が3年遅れて興味を持ちはじめた頃にはカート・コベインはこの世を去っていたわけだし、97年にはサウンドガーデンもアリス・イン・チェインズも終わっていた。90年代初頭にメジャーで契約になってたバンドも次々と解約されてましたしね。ロラパルーザも97年限りで一回終了しています。そしてヒップホップはトゥパックとビギー・スモールズが抗争で殺されて以降トーンダウン。そしてイギリスではブリット・ポップの熱狂的な盛り上がりにイギリス人が元来のシニカルさを発揮しはじめブームから3年で早くも失速したわけです。変わるのも無理はありません。


ただ、僕としては当時、「やっと追いついたとこなんだから、もう少し持ってよ」とは本音で思っていました。「シーンのいい状態」を日本でもうちょっとシェアしたかったんですけどね。


で、海外のシーンに追いついて間もなかった日本のわけです。次のシーンの動きに早速追いつけなくなってしまいました。


その「次のシーンの動きとはなにか?」ということですが、そのひとつにニュー・メタルがあることはたしかですが、これに関しては今回は語らず、次回の(9)でじっくり話します。ちなみにこのニュー・メタルですが、まだ98年当時は「オルタナティヴ・ロックの新しい流れ」の中でとらえられていたので、これに関しては比較的順調に受容されていたように思います。ただ、これが「オルタナティヴ・ロックへの反動」であったことに僕も含めて世界的に多くの人が気づいて「しまった!」と明確に思ったのは99年の夏くらいでしたが。


そのことよりもむしろこの当時「変化」が明確にわかったのはアイドルの台頭でした。


これに関しては97年に既に予兆はありました。ハンソンとバックストリート・ボーイズのブレイクした年ですね。たしかにあたりはして日本でも反応は良かったんですけど、これがひとつの大きな勢力になるとまでは当時予想もつきませんでした。


驚いたのは99年、ブリトニー・スピアーズが現象になった年ですね。これに関しては全く想定できない現象だったのでビックリしましたね。しばらく「社会の動向とシンクロしたシリアスな歌」に慣れていた僕にとっても、この純然たるアイドル・ダンス・ポップは全く頭にないものになっていたので、最初は全く反応できなかった、というのが事実です。


この当時、ブリトニーに関しては、「17歳でいきなり全米シングルNo.1」みたいな話題もしやすかったこともあったので、オリコンでもギリギリでトップ10に入るくらいの人気になりました。しかし、困ったのは彼女の周囲も含めて、アイドル・ポップ・シーンが大きく拡大してしまったことでした。さすがにここまでは日本のメディアも追いつくのに一苦労してましたね。まだ「最大のライバル」扱いを受けたクリスティーナ・アギレラはトップ40くらいにはアルバムで入ってましたけど、”ブリトニーの彼氏”でもっと話題になってもおかしくなかったはずのジャスティン・ティンバーレイク擁するインシンクはデビュー・アルバムがオリコンに入りませんでした。日本はバックストリート・ボーイズに過剰なファン心理を一点集中させてるところがあって、インシンクは”亜流”と見なされてましたからね。でも、この頃のアメリカのセレブ界の動向見てたら、どっちについた方が良いかは割と明確だったんですけどね。この判断ミスが「セレブのことをわかってるようで大事な情報が抜けてしまっている、その後の日本のセレブ・ファンの状況」を作るひとつのもとにもなってしまいました。


しかし、「99年のポップ・ミュージック界の変革」はそれだけにとどまりませんでした。こういうアイドルたちをネタにしてバッシングすることでデビューしたてのエミネムが話題をさらったのもこの時期でした。ただ、ヒップホップ・ファンには「黒人じゃない」と違和感を持たれ、かつ、「ユーモアの効いた毒舌」というリリックのテーマも理解がされがたく、彼が叩いていたアイドルの日本の知名度もいまひとつだったことでデビューして最初の2年くらいのエミネムの日本での浸透度は惨惨たるものでした。
セカンド・アルバムの「Marshall Mathars LP」を2001年に出し直しをしてプロモーションをかけ、2001年にフジロック、2003年に「8マイル」の映画公開と同時期にやった来日公演の成功で、やっと海外の人に話してもはずかしくない人気を得られたのです。このエミネムの浸透遅れは、この当時本当にイライラしたものです。


そして、この99年にアメリカでブレイクしたものにビヨンセ率いるデスティニーズ・チャイルドやジェニファー・ロペスがいました。デスチャに関しては前の年のデビューの段階で日本でもそれなりに推されていたこともあり、2ndアルバムの出だしのオリコン順位も30位台で決してひどいものではなかったんだけど、いかんせんアメリカでシングルが全米1位2曲、3位1曲の大ヒットが連発して出てしまい、いやおうなく差があいてしまいました。


そしてジェニファー・ロペスに関しては、リッキー・マーティンを筆頭とした「ラテン・ポップ・ブーム」に括る流れもありましたが、基本は「人気女優が音楽に進出」のノリの方が本質的には近かった気がします。ただ、それまでの彼女の映画での代表作が日本で浸透していたか、となるともうひとつ微妙だったので、この点でもやはりウケ方に差はどうしても出ましたね。意外と格差は開かなかった方だとは思うんですけど。


あと、この当時は、「アイドル」「ラテン・ポップ」に加え、カントリーにも人気が出て来てシャナイア・トゥウェインやフェイス・ヒル、ディキシー・チックスなんかの女性カントリーのポップでの台頭がありました。カントリーの場合は、いくら彼女たちが一般層にアピールを広げたと言っても「基本はアメリカでも中西部のローカル・ミュージック」ではあるので僕もいまだに国外では難しい音楽だと思っているのですが、案の定、日本では難しいですね。それ考えると、昨今のテイラー・スウィフトの日本での成功というのはすごいことだなと思いますが。


たしかに、「追いついた」と思った矢先に、これだけガタガタッと音楽界が変わられてしまうと追いつくのは並大抵のことではなりません。実際問題、90年代末期、洋楽の売り上げは大きく下降し「危機だ」とさえ言われはじめました。まあ、(6)で書いたような「一発屋戦略」ももはや通じなくなったし、日本だけで独自に売れていたオールド・スクールのメタルの影響力も落ちたのも原因だとも思いますが。


ただ、「だからこそやりがいがある」と僕は逆に思って、この変革に結局興味を持ちました。この当時僕は会社を辞めてフリーになってたんですが、上に書いたNHKでやってた番組のイメージがあったことで、オルタナとかUKロックの影響を受けた日本のバンドに関しての仕事が多かったんですね。フリーになった頃の一般イメージってそっちの方が圧倒的に強かった気もします。ただ、仕事をしていてそちら側の人(業界やファンの方も含みます)に洋楽に明るい人(特にコンテンポラリーな)が前よりも減ったなあ、これはなんか嫌な予感がするなあ」と思って嫌気が徐々にさしてたのと、「やっぱり自分のルーツ音楽である洋楽でこそ認められたい」という気持ちが強くなったこと、そして洋楽が「伝わりにくい」とか「元気がない」とかというときにこそ洋楽を応援したいという気持ちが強くなり2001年に入ると、完全に洋楽一本にしぼりました。


そして「ジャンルがバラバラに色々雑多にまざるからこそ、無理だと思わずに、全部まとめて紹介してみたい。そういうメディアがあってもいいじゃないか」と思い、2001年の5月に、このブログの前身となるメルマガもはじめてみたわけです。


で、実際にやってみて思ったのは「ジャンルが多岐に渡ってるので難しい」ということは意外に感じなかった、ということですね。結局のところ、どのジャンルでも一般に紹介されるのはそれの代表みたいなものではあるし、そういうものは人々にも受け入れやすいから。


それよりも改めて思ったのは、「セレブの持つ影響力の重層化」ですね。その影響力が音楽だけの次元を超えてることが多いから。同じポップスターでも、たとえばマライアとかセリーヌ・ディオンが売れてる頃って、ただ単に「歌のうまさだけで売っている」という印象が強かったんですけど、ブリトニーとかビヨンセとかJ.Loあたりになると、ファッションや私生活、映画やTV番組まで絡めて総合的に売ってるな、という印象が強くなったんですね。そういうチャンネルが豊富なスターほどやっぱり影響力があるなと。結局のところ、ジャスティン・ティンバーレイクがバックストリート・ボーイズの何倍も海外で出世したのだってそういう理由だし。なぜか日本で売り出しタイミングが大幅に遅れたコールドプレイも、クリス・マーティンの「グウィネス・パルトロウのダンナ」という話題性がなければあそこまでは広がらなかっただろうし。そう考えると音楽そのものだけに特化した洋楽の伝え方って、本当はもう古いのかな、とも、実際のところ思っています。「アメリカン・アイドル」とか「X Factor」みたいなTV番組からスターが出たり、MTVのVMAからその年の音楽界の話題をさらうニュースが生まれたり、「サタディ・ナイト・ライブ」での「デジタル・ショート」から音楽を絡めた有名なギャグまで生まれていたくらいですからね。僕が音楽だけじゃなく、興味を映画やTV番組にまで広げて今ブログで紹介してるのもそれが理由です。


そして、
日本での放送とか公開が遅れたまんまになってるから、僕のやろうとしていることが日本ではメチャクチャ難しいな、とも思います。だって、ウケた理由が音楽以外でのことというのが珍しくなくなったこのご時世で、「音楽の力」だけで正しく洋楽を伝えるのは困難だし、受け手側も他の事情を知らないで受容するのも難しくなって来る。今の日本みたいに、紙媒体しか頼るものがなくなってたのにそれがなくなり、情報がネットでの断片的な情報しかなくなったら、そりゃ、伝わるものも伝わらないですよね。それじゃ、アーティストに関する古い情報が残ったままになっていたり、新しいものが入ってこなかったりで、海外から見たら時代遅れのとんちんかんなセレブや人気アーティストが生まれてたとしても無理もないと思います。


その意味で、「海外との認識の格差問題」はますます難しくなっているような気がします。
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 02:19
comments(0), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(7)ウッドストック94、ブリットポップ、フジロック〜やっと時代が動いてくれた
どうも。


「平成ガラパゴス洋楽史」、ここまではボヤいてばかりでしたが(笑)、今回書くことはポジティヴなことです。

なぜなら

日本の洋楽が、いかにして90s前半の遅れを取り戻したか、の話だから。


時期にして94〜97年の話になりますが、この時期になると、僕自身もようやく日本に住んでて、音楽状況にイライラすることがかなり緩和されてましたね。「待った甲斐があった!」と日々充実した満足感と共に過ごせていた日々だと思います。


そのはじまりはまさに94年でした。この年ものっけからサウンドガーデンとナイン・インチ・ネールズが同じ週にアルバムを発売し、ビルボードのアルバム・チャートの1、2フィニッシュを飾るなどしてたし、ベックが超名曲「Loser」を出して「誰だコイツは!?」という衝撃を投げかけるなど、楽しみなことは多かったものです。相変わらず日本の反応は鈍かったですけどね。

ただ

4月の初旬、ものすごくショックなことが起こってしまいます。それは、

カート・コベインの自殺


これはさすがにショックでしたね。突然過ぎて涙も出ず、ただ言葉を失うだけでした。あれはたしか土曜の朝のことで、僕は朝にちょっと会社の仕事で出かけそこで訃報を知って、仕事を終えた午後からは誰とも口を聞かず1人で部屋の中でボーッとすごしたものでした。


このカートの死なんですが、音楽メディアはさすがにどこも大きく取り上げました。ただ、一般芸能メディアになると、とりあげるところとスルーするところがまちまちでした。でも、どこだったか忘れたけど、芸能欄で一面割いてたとこもあったように記憶しています。いずれにしても、そのニュースが与えたインパクトは決して小さくなかった。人はこれで「グランジが死んだ」とも言いましたが、皮肉なことに日本で「オルタナティヴな音楽」が市民権を得はじめるのはまさにこの瞬間からでした。


その決定的な瞬間が、この8月にやってきます。それが

ウッドストック94


これはもう、個人的に非情に開催発表のときから楽しみでならなかったイベントでした!日本のメディアは当初、「エアロスミスとメタリカが目玉だ」といい、ある人は「いやピーター・ゲイブリエルだ」と言いました。しかし、僕が期待したのはそういうアクトではありませんでした。僕が見たかったのはナイン・インチ・ネールズであり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズであり、ブラインド・メロン、ロリンズ・バンド、プライマス、そして、当時チャートを下の方からあがってきていたグリーン・デイという名の気になるバンドも・・。


そう、このラインナップ、それはまるで


ロラパルーザのようだったのです!


90年代のUSのオルタナ・バンドが浮上して来た背景には、91年の夏から毎年開催されていたオルタナティヴ・ロックのフェス形式全米ツアー、ロラパルーザの存在が欠かせないものでした。この当時、今みたいにyoutubeでその様子が垣間見れる訳でも、ましてやネットでチケットが買える訳でもなかった。僕は耳に入ってくる情報をただただうらやましく思うだけでした。当時の僕にとって最も憧れのライブでした。


それがこの「ウッドストック」という由緒あるロック・フェスの大部分のアクトとしてロラパルーザ系のバンドが大量にピックアップされている。これはきっと主催者の側が、ロック激動の60年代後半と90年代前半のオルタナ・カルチャーの空気感に同じような何かを感じ取ったから実現したに違いない。そう思うと、僕は非情に嬉しくなったものです。


このウッドストック94は日本でもNHKのBSでも放送されましたが、困ったことにその当時、僕の家にはBSアンテナがありませんでした。でも、こればっかりはどうしても見たい!僕は意を決して、アメリカ時間の土曜日のショウをBSが見れる環境にあった僕の大学時代の友人の家で、そして日曜日のショウは池袋のBSの入っているホテルに泊まって観ました。我ながらすごい執念だと今にしても思うんですが(笑)、その甲斐がありました。土曜夜のナイン・インチ・ネールズの豪雨の中の泥まみれ機材破壊パフォーマンスも、翌朝のグリーン・デイの客が泥を投げる中での勇姿も、いきなり巨大電球をかぶって出て来たレッチリのショウアップも全部見ました!

 カオティックな環境の中、それぞれのバンドが実に多彩に、その時代気分をそれぞれに代表する音楽を、自分たちの感性に正直に表現する。これはものすごいインパクトがありました。このとき、日本のスタジオではNHK側のアナウンサーと解説のミュージシャン・ゲストが出ていて、とにかくまあ、「今の世の中に”愛と平和のメッセージなんて”」とか、明らかにオルタナのオの字も知らなさそうな80sに活躍してたような日本のミュージシャンがエラそうに語り、新しいバンドの話なんてあまりしませんでした。


しかし!


やはりライブと言うのは、反応がダイレクトに返りやすいものです。このウッドストックが終わったあと、音楽メディアはもちろん、ファッション・メディアでもラジオでも、オルタナティヴ・ロックの代表アーティストの姿や客に触れる機械が飛躍的に増えました!


あの当時、こんな言葉がよく耳に入ってきました。「ウッドストック94を見たけど、今アメリカのバンドってあんな風になってたんだね。知らなかった、ヤバい!」。こんな風に一般メディアがようやく重い腰をあげてオルタナ系に力を入れはじめたことで、それまで圧倒的に支配的だったメタルとの立場関係もだんだん変わってきました。


==============================================================================


このようにして、94年の夏以降、急速にこれまで日本でメインストリームだとはとても言えなかったオルタナティヴなバンドに注目が集まっていくこととなるんですが、そういう運気がいいときって重なるもので、時を全く同じくして、UKインディ・ロックの一気の台頭がおこることぬなりました。


これはちょうど94年の春のことだったと思いますが、ちょうどこのときにブラーが「Girls And Boys」を出して来たんですけど、これはものすごく刺激的でしたね。「あっ、やっとイギリスから、僕が中学校のときに夢中になったMTVニュー・ウェイヴみたいなポップさを持った今のクールなバンドが出て来たんだな」と思いましたね。(2)でも述べましたが、その数年前からUKインディ・ロックは活気をもって盛り上がって来てましたが、大衆的な説得力の点でブラーは完全に1枚、2枚上手でしたね。オリコンでもアルバム「パークライフ」が当時のUKバンドとしては異例の13位まで上がることになります。

そして、その年の夏の終わりくらいだったかな、そのブラーの最大のライバル・バンド、オアシスが出て来ることになりますが、僕がはじめてデビュー曲の「Supersonic」を聴いたとき、「なんて華のある、スケールの大きなロックバンドが出て来たんだろう!」と思いましたね!

UKのバンドからしばらく聴かれなかったドッシリとした重厚感があったし、刹那的なブギーやらしたらふてぶてしいカッコ良さがあり、バラードやらせたらいつまでも耳の奥で響いて行くような感傷的で哀愁味溢れたギター・フレーズがある。そうした総合的な良さがありながらも、80sのバンドみたいな仰々しさはなく、それをタイトな編成と風貌の佇まいで聴かせることも出来る。僕はすぐに飛びついて初来日公演となった渋谷クアトロのライブも行きましたが、そのときもチケットはすぐに売り切れで、会場付近には「チケット買います」のボードを持った人が多数いましたね。これ、おそらく、90年代に入ってはじめて海外との時差ズレのないロックバンドの登場の瞬間だったんじゃなかったかな。


あとで調べたら、オアシスのデビュー・アルバムって、オリコンで初登場30位台だったようなんですが、盛り上がりの実感としてはそんなもんじゃなかったですね。期待感は引き続いて行くことになりました。


そして、このブラーとオアシスの登場によって、UKバンドが日本でも急激にドドドッと聴かれていくことになります。プライマル・スクリームの「Rocks」は一大アンセムになったし、レディオヘッドの伝説的な2ndアルバム「ザ・ベンズ」からは何曲もの名曲が生まれたし、他にも本国UKほどの国民感情の揺さぶりこそなかったもののパルプも象徴的に出て来たし、スーパーグラスやエラスティカといったニューカマーも出て来た。日本だけ局部的に受けた印象もあったもののメンズウェアとかブー・ラドリーなんかもかなりの人気だった。そして、こうした世代よりも上ではあったものの、この世代のバンドの精神的な影響源だったストーン・ローゼズもこの時期に遅ればせの2ndアルバムを出し、この世代の子供時代のヒーローだったポール・ウェラーもソロで復活を強くアピールします。


そんな感じでUKロックが急激に層の厚さと人気の高さを獲得していきましたが、そんな矢先の95年秋、シーンの新しい主役、ブラーとオアシスが人気に火をつけてわずか1年のタイミングで近い時期にアルバムを出しました。本国イギリスでは、この立役者の2バンドの対決を煽り、それは音楽界を超えてタブロイド・レベルでの騒ぎにも発展しましたが、これに日本も乗ることになります。その結果、オリコンでブラーが5位、オアシスが8位の好成績を収めました!


イギリスからはさらに良いことが続きました。クラブ・シーンからはマッシヴ・アタックやポーティスヘッドのようなトリップホップも台頭したし、ケミカル・ブラザーズ、プロディジー、アンダーワールド、ファットボーイ・スリムの「ビッグビート四天王」も出て来て日本でもオリコンでトップ10に入るような人気を博しました。

また、ロックとは対局にあるようなポップの領域でもスパイス・ガールズが世界的な成功を収めました。そして映画でも「トレインスポッティング」をはじめとしたイギリス映画が徐々に注目をあびはじめます。ファッション界ではアレクサンダー・マックイーンが時の人となり、サッカーではプレミア・リーグが成功し世界でも屈指の人気リーグにもなった。


さすがにこれだけの文化的な事情が重なってしまうと



現在の30代半ば〜後半の世代にイギリスへの憧れを強く抱く日本人が多かったという事実も無理もありません。


こうした、おそらくはスウィンギング・ロンドンとイングランドのW杯制覇で湧いた1966年以来の盛り上がりと称する人もいましたが、「カルチャー総合」という意味ではそうでしょうね。こういう盛り上がりを、「こんなの結局、トニー・ブレアがぶちあげた人気取りの政策だ」みたいなことを斜に構えて言う向きも決して少なくないんですが、ただ、ブリットッポップもクール・ブリタニカもなかったら、イギリスのロックどころかカルチャーに世界が注目することもなかったし、ロックの文化も若いファン層がつかめずにもっとマイナーでアンダーグラウンドに追いやられたものになっていたでしょう。


それに、そういう醒めた態度を取ることって「俺はそういうものがブームになる前から知ってたさ」ということを誇示したがっているようにしか僕には見えません。まあ、そういうカッコつけたタイプが少なくないのも、「イギリス文化のファン」らしい行動ではあるんですけどね。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


そして、このイギリス勢の急激な台頭と同時に、他の国の音楽も変わってきました。

オアシスとブラーがオリコンでトップ10に入る天気を見せた直後、グリーン・デイやオフスプリングのようなポップ・パンク勢もオリコンTop10入りするほどの結果を残しました。


また、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが台頭したあたりからラウドなロックへの注目度も急にあがり、これまでのオールドスクールなメタルに代わって人気を獲得して行くことにもなります。


そしてファッション誌が
ビースティ・ボーイズに注目をはじめたことで95年の来日時から人気が急上昇。レーベルのグランド・ロイヤルが一大オシャレ・ブランド化して行くことにもなります。


また、日本との作風の絡みもあったことで、ウィーザーのセカンド・アルバムが本国以上の成功を収め、それが逆に世界的に先見の明があったことも後に証明されました。


・・などなど、そうしたことが重なった結果


97年7月、日本でも大型ロック・フェスティバル、フジロックが開催できるようになりました!

今から考えても、あの年のフジのラインナップはすごいものがありました。なにせレッチリにレイジにフー・ファイターズに、中止になった2日目にもグリーン・デイ、プロディジー、ベック、ウィーザーがいたわけでしょ?のちにヘッドライナー・クラスになった名前がそれだけ含まれてたと考えたら、ものすごいことです!これは、もう既に15年近くの歴史を持つ日本のロック・フェス史でも屈指の豪華ラインナップだと思います。


そしてこの年以降、毎年、90年代以降のロックの感覚で、日本で洋楽ロックのフェスを開催することが可能になった。日本で「オルタナ以降のロックが定着した決定的なトドメ」というのは結局はこの「フェス文化の定着」ということだったのではないのかな、という気もします。


また、これとちょうど同じ頃くらいから、こういうオルタナ・バンドたちと音楽的に共通点のある日本のバンドも一般市民権を得はじめたことで、相乗効果になって盛り上がったのも大きかったと思います。


・・と、こういう感じで、グランジやヒップホップの吸収の遅れで生じていた日本洋楽界のガラパゴス状態はこれで解消された


かのように見えました。


しかし!!


残念ながらそんな風に順調にはことが運びませんでした。連載はまだまだ続いていくことになりました。
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 13:09
comments(0), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(6)空しい一発屋ヒットの時代
どうも。

「平成ガラパゴス洋楽史」、今回語るのは「オルタナ」とか「UK」とか「ヒップホップ」といったシーンでは全くなく、日本独自で流行った奇妙な音楽

一発屋


これについてお話ししましょう。

もしかして、これをお読みの方には「この人はどうしてこんなに”放送”にこだわるんだろう」と思ってる方もいらっしゃるかもしれません。それは僕が元々そっちの出身だということもあるかもしれませんが、少なくとも平成最初の10年は、放送媒体が洋楽をはやらせるためのひとつの指針だったものです。やはり当時、今みたいにネットもない時代でしたからね。誰かが口コミで話題を広めたくても、それがなかなか出来ない時代だったし、音源を聴こうにも軽く試し聴きすることもできず、もう直接CDを買うか、放送に頼るかの、どちらかしかなかったんですね。


で、僕がこれまで書いて来たような、オルタナティヴ・ロックやヒップホップの日本でのリスナーはこの放送媒体のせいで、多大な損を強いられてきたわけです。それは

本っ当にくだらない曲ばかり、やたらかけてたから!


これまでもずっと語って来たように、僕は90sの前半の音楽って、心の底から尊敬してるんですね。と言うのは、オルタナにせよ、ブリットポップにせよ、ヒップホップにせよ、向う20年のポップ・ミュージックの大きな基準値として定義する存在になりえたのだから。僕は「一点にとどまってしまうと進化はなくなってしまう」という考えの持ち主なので90sで止まるなんてことも決してしたいとは思わないんですが、あの頃にこうした音楽がシーンの現在と未来において果たした役割に関しては疑いようもなく評価しています。80sのときは曲を聴いてて楽しかった時代だけど、それが「基準値」としてシーンに残るようなことまでは残念ながらなかったですしね。それ考えると、本当に立派だったんです。


にもかかわらず!


あの頃の日本の放送媒体は、そうした「本当に育てるべき音楽」を不当に無視し、瞬間のインパクトだけで安易にかせげる曲に洋楽を賭けようとした。


まあ、放送媒体というよりは、当時の日本のレコード会社の方針だった、ということでもあるんですけどね。で、困ったことにこの路線が当たってしまったんですよ!具体的な売り上げ枚数までは知りませんが、ミリオン行ったものなんかもあったんじゃなかったかな。


この当時の「日本独自の一発ヒット」がオリコンでどんなものだったか。例をあげてみましょう。


リセット・メレンデス  '94 アルバム「トゥルー・トゥ・ライフ」3位
シャンプー '94 アルバム「ウィ・アー・シャンプー」8位ほか、もう2枚トップ10
スキャットマン・ジョン '95 アルバム「スキャットマンズ・ワールド」2位
ミー&マイ  '96  アルバム「ドゥビ・ドゥビ」6位 
 



まあ、書いてて自分で恥ずかしくなってきちゃいましたけどね(笑)。ただ、こういう思わぬヒットが出て来たことで、洋楽が”表面的に”日本であたかも盛り上がってたように言われてたものです。


シャンプーはそこでも書いたようにアルバムが3枚トップ10に入っただけじゃなく、シングルでもオリコンTop100が3枚生まれてます。スキャットマン・ジョンもシングルで4曲オリコンTop100が生まれてましたね。


この当時はこれに加えて(1)で話したスウィング・アウト・シスターもシングル、アルバムで共にトップ10に入るヒットがでてたし、Mr.ビッグが96年の頭に出したアルバムなんて1位(英米チャートインせず)ですよ!


この次の(7)で書く予定のことですが、95〜96年に関しては日本での洋楽シーンの状況もクオリティ的にかなり持ち直していたのですが、もっと長いこと確実に売れる本物のアーティストを育てることより、将来が見えないアーティストを短期に売ることに頭が言ってしまっていたことはやっぱり否めないですね。こういうヒットが出ているあいだは、「まだ日本の洋楽界も目覚めてないんだな」とじれったく思ってましたね。


ただ、この当時の”ビッグ・イン・ジャパン”と言われてたもので個人的に唯一良いと思ってたのもありました。それがカーディガンズですね。スウェディッシュ・ポップのサウンドは当時のブリットポップとの親和性も良かったし、彼ら自体、「カーニヴァル」の頃はまだでも「Lovefool」の頃にはイギリスで2位、アメリカでもオンエアで1位(当時シングル発売してたら公式に1位にもなれていた)くらい流行って、結果的に「ビッグ・イン・ジャパン」は返上しましたしね。プロデューサーのトーレ・ヨハンソンは2000年代にはフランツ・フェルディナンドの1stアルバムもプロデュースして力量のあるところも見せたし。


と、言うことで、
”シーン”と呼ばれるところで確実に盛り上がってる音楽の存在がちゃんとあったのに、それを避けて通ろうとしたがために短命の空虚な状況を生み出してしまったのは本当に問題でした。


ただ、
このような非常に困った状況は、実はアメリカでも同様でした。かの国でもたとえばバスケ・アンセムの「Whoop!There It Is」(93)だとか「マカレナ」(96)みたいな謎のヒットは多く見られたものでした。(4)で話したようにロック勢がシングル発売をやめてチャートに入りにくくなり、ヒップホップをリリックの関係上入れたがらなかった状況もあり、ビルボードもなんとか無理矢理ヒットの欲しい時代だったものです。それが故に、マライア・キャリーとかセリーヌ・ディオン、ボーイズIIメンのような人畜無害なバラードが必要以上に全米チャートの長きにわたって1位になってたりしたのもこの時期でしたね。


こうした「一発ヒット主体の無駄な抵抗」は、世界的にもう少ししたら落ち着きましたが、言い換えれば、
それだけ90sの前半のシーンで起こった変革というのは、流行音楽を大衆に送り届ける側にさえひきつけを起こさせるくらいに鮮烈だった、ということも出来たのかもしれません。
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 11:43
comments(0), trackbacks(0), - -
データで見る「平成ガラパゴス洋楽史」(5)最高の時代に「ビッグ・イン・アメリカ」だったR&B/ヒップホップ
どうも。
 
 
「平成ガラパゴス洋楽史」、(4)まで行ってやっとグランジが終わったとこです。想像したよりも思い切り時間がかかっております。
 
 
そして今日話をするところも基本は90年代半ばまでのお話です。それはなにか。
 
 
R&B/ヒップホップ
 
 
これも本国アメリカからはかなり日本では遅れて受容しました。
 
 
日本だと、このジャンルの名前を世間一般に耳にするようになったのって、おそらく98年とか99年とか、ほとんどミレニアム目前のことだったような気がします。ただ、これが、ことアメリカで巨大になっていたのは1990年代前半のことです。
 
 
ただ、これに関しては、多少日本に関しても肩を持つ気でいます。なぜなら
 
 
受容が遅れたのはなにも日本だけじゃなく、ヨーロッパとか他の国でも同様だったから。
 
 
つまり、R&B/ヒップホップがアメリカで最大の影響力を持つ音楽に上り詰めた90年代前半という時代、それはビッグ・イン・アメリカに過ぎなかったのです。
 
 
だけの、皮肉にも
 
 
その時代のR&B/ヒップホップこそが最も面白かった!
 
 
そのことは確証持って断言できますね。
 
 
それは何も僕だけが言っていることではありません。実際にwikipediaでもそれは言われていることです。wikiのカテゴリーに「ゴールデン・エイジ・オブ・ヒップホップ」という言葉があります。それは英語、日本語をはじめ何か国語にもわたって訳されているものなのですが、それによると、ヒップホップの黄金期は「ランDMCのブレイクからG-ファンクの隆盛まで」。つまり1986〜1993年くらいまで、ということになります。
 
 
黒人社会間でのヒップホップをめぐる空気感までは、残念ながらその現場にいたわけではないのでややわかりかねるところはあるんですが、そのおしまいの方は僕はちょっとだけ伸ばしますね。96年までは面白かったと僕は思ってます。それがなぜかは後述します。
 
 
そして、R&B自体が本当に力を持って来だしたのが92年頃のことだったと思います。「それまでだってブラック・ミュージックは強かったじゃないか」。もしかしたら、そのようにお考えの方もいらっしゃるかもしれません。たしかに、80年代にもマイケル・ジャクソン、プリンス、ライオネル・リッチー、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストンとビッグなアーティストがいたことはたしかです。しかし、80年代のブラック・ミュージックの問題は、こういうヒットするアーティストの人数が限られていたことです。
 
 
マイケル・ジャクソンはご存知の通り、白人化しました。「肌の病気」とのことでしたが、音楽的にも白人の好みとの折衷路線を続けていたことも同様でしたね。ライオネル・リッチーはバラッディアーだったのでカントリーとの共演路線をとってリスナーを広げていました。プリンスはロックとの融合ですね。本人自身も「イタリア人とのハーフ」と自身の出自を偽っていました(このことは当時の日本の音楽雑誌でも紹介されてたし、ネルソン・ジョージというアメリカのジャーナリストが書いた「リズム&ブルースの死」という本でも明記されています)。そしてホイットニー・ヒューストンも「ゴスペルで鍛えた歌唱力」との触れ込みではあったものの、流行る曲はアダルト・コンテンポラリーによった、ブロードウェイ・ミュージカルのような趣味のものだった。つまり限られたスーパースターが白人趣味に寄らないと売れない時代だった。黒人っぽいストリート感覚が一般でウケにくい時代で、そういう曲はブラック・ミュージックのチャートで流行っても総合チャートで100位にさえ入らない、なんていう、今のチャートでは全く考えられないようなことが珍しくなく起こってました。その一例が初期のヒップホップの名曲、グランドマスター・フラッシュの「The Message」という曲。これなんかは1982年、100万枚の売り上げを記録したのに、ビルボードのシングル総合チャートで最高位52位です。当時のアメリカが一体どういう世の中だったか、ということは、これで垣間見えるかと思います。
 
 
チャート同様に、黒人社会全体も似たようなものでした。


80年代にもなると、公民権施行から20年が経過したわけで、その間には成功して億万長者になる人も少なくなかった。だが、そうした成功者はごく一部で、一方で黒人間の貧富の差は広がっていくばかりで、成功した人は人で白人社会に溶け込もうとおとなしく振る舞おうとした・・という感じだったと、この当時はよく耳にしたものです。


で、80年代後半になってジャネット・ジャクソンがジャム&ルイスのプロデュースで当たってボビー・ブラウンがLA&ベイビーフェイスのバックアップで当たって、さらにテディ・ライリーがニュー・ジャック・スイングで当てた。このプロデューサー3組は、当時の黒人のストリートの雰囲気を上手く表していると称され、「黒人らしい」ファンキーさというのはこのときにかなり表現されるようになった、と思われていました。僕もちょうどこのくらいからブラック・ミュージックに興味を持ちました。僕の場合、洋楽の聴きはじめのころにホール&オーツとかワム!とかソウルフルなものを自然と聴いていたのでその素養はあったのですが、黒人のアーティストを正面から聴くようになったのはこのくらいからでしたね。でも、今から振り返ると、このあたりも、「移行期」な感じに聞こえますね、今となっては。まだこの当時のブラック・ミュージックは「ブラコン(ブラック・コンテンポラリー)」と言われてましたが、ブラコンに顕著だったアーバンな感じとストリート指向の、まだこのときはその中間という感じでしたね。で、日本でもディスコ時代にブラック・ミュージックにそれなりの支持があったので、このあたりの感覚は日本でもウケは決して悪くなかったですよ。ジャネットもボビー・ブラウンもオリコンで普通にトップ10に入ってましたからね。


しかし!


これがこと、ヒップホップ・カルチャーに影響を受けたブラック・ミュージックとなると、勝手がだいぶかわったんです。90年10月から、ビルボードの「ブラック・コンテンポラリー・チャート」は「R&Bチャート」と呼称を変えることになったのですが、それからほどなくしてR&Bがブラコンと違う側面というのが色濃くなってきます。それはとりもなおさずヒップホップからの影響でした。


僕がそれを強く感じたのはメアリーJブライジとTLCの存在でした。両者とも、ファッション、サウンドともにヒップホップのカルチャーから出てきたと言っても過言ではない感じでした。すごくザラッとした官職があったんですよね。アーバンっぽくきれいには流れない何かがあったというか。ふたつとも92年くらいに出てきたんですが、僕はそこのところが気になってました。特にTLCに関しては、カッコからして「こりゃ、黒人の同世代くらいの子、絶対に好きだろうな」と思って気になりましたね。デビュー・アルバムの頃はまだアメリカでも「アーティスト性としては様子見でシングルのみヒット」みたいなところがありましたが、出る曲出る曲あまりにも良いので、3枚目のシングルの「What About Your Friend」が売れた時点でアルバムを買って、かなり愛聴しました。メアリーとTLCはこの当時日本でも若いR&Bの固定ファンにもそれなりに人気はあったと思うんですけど、ただ
94年発表の「最高傑作」のほまれ高い2ndアルバムはともにオリコンで当初トップ100にも入りませんでした。


TLCなんて、そのアルバムからの3枚目のシングルの「Waterfalls」が全米で10週くらい1位になってやっと動いて、オリコン80位くらいなものだったんですよ!ええ、このときも御多分に洩れず怒りましたよ(笑)。「マライアとかボーイズIIメンみたいな安全パイみたいな曲かけるんじゃなくて、もっとカッコいいのあるんだから、そっちをかけろよ!」と、不当に低い扱いをされるTLCとメアリー、あとジョデシィとかもそうですね。非常にくやしいな、と思っていました。


で、ヒップホップに話を移しましょう。僕の場合、ランDMCは最初あまりにも今までと違う存在が登場したことで理解できなかったんですが、ビースティ・ボーイズの「(You Gotta) Fight  For Your Right (To Party!)」と聴いたときに軽く衝撃を覚えて「ラップ(80年代当時はこう呼んでました)ってこんなにカッコいいんだ!」と目からウロコが落ちてました。その後もチャート見てて、たとえばLLクールJなんてカッコいいと思っててアルバムなんかも借りたりもしてたのですが、しかし、チャート中心の情報収集では90年代初頭まではまだ限界があったんですね。この当時からたとえばエリックB&ラキムとかパブリック・エネミーとかデラ・ソウルとか名前は聞いたことはあったし、興味はあったんですけど、「巷で曲を聴いたことのないものを聴くのはリスクがいるなあ〜」と思って手が出なかったんですね。かと言ってMCハマーはあまりにもダンス・オリエンテッドすぎるのはわかっていたので「あれでヒップホップを聴いている、と言ったらはずかしいんだろうな、きっと」という予感はしていました。


で、91年2月にアメリカ旅行した際にアイス・キューブとアイスTが出演した「ニュー・ジャック・シティ」というギャングスター映画が流行ってるのを見たり、その後のビルボードのチャートでパブリック・エネミーやNWAが初登場でトップ5に入るのを見たりして、「なんか危険な雰囲気の、本物っぽいヒップホップが流行ってきてるのかなあ」という気分は感じていました。


そして92年5月、僕にとってすごく決定的な事件が起こりました。それがロス暴動でした。これは、黒人青年が警察からいわれのない暴力を受け、その暴力の不当さが全米規模で報道されてかねてから話題を呼んでいた事件の裁判で、誰もが予想しなかった無罪判決が出たことでLAの黒人コミュニティが怒り、日夜暴動が続いた、というものでした。これは日本でも連日ニュースでも報じられたのですが、この「荒れるアメリカ」に、僕はグランジやオルタナから垣間見れるものと同質の空気を感じたんですね。

そして、この事件の報道の際に一種のスポークスマンとしてやたら登場してきたのがスパイク・リーでした。「ドゥ・ザ・ライト・シング」でロス暴動を数年前に予見したと話題となり、この半年後に60年代の戦う黒人指導者マルコムXの伝記映画を作ったことで彼は一躍ときのひととなっていました。僕はこの当時、テレ朝で深夜に放送されてた「CNNヘッドライン」やTBSでピーター・バラカンさんがやってた報道番組「CBSドキュメント」を流し見ではありましたが習慣的にアメリカの社会問題は目や耳に入ってきてて、スパイク・リーの姿は頭から離れなくなっていました。


そんなときちょうど僕の住んでた横浜の関内のミニシアターで「スパイク・リー」特集をやることになって、このときに彼の映画を「マルコムX」の予習がてらに片っ端から見たんですけど、こんなに時代と格闘した映画を見たのは人生でこれがはじめてでした。(3)で僕は、「グランジが自分の人生にはじめて語りかけてきた音楽だった」と書きましたが、映画ではこの人でしたね。しかもこれで音楽ももれなく着いて来た。僕は「ドゥ・ザ・ライト・シング」のオープニングでかかっていた「Fight The Power」にヤラれ、以後パブリック・エネミーのカタログをさかのぼって全部買いました。


そして僕は、とにかくその時点までの「ヒップホップのレジェンド」というものを片っ端から買い集めました。この当時流行っていたドクター・ドレーをはじめとしたGファンクやウータン・クランはもちろんのこと、デラ・ソウル、トライブ・コールド・クエスト、エリックB&ラキム、EPMD、スリック・リック、もちろんさかのぼってランDMCやグランドマスター・フラッシュまでなんでも聴きましたね。その作業は僕にとって、サブポップとかSSTのような80〜90sのUSインディのバック・カタログを洗い出すくらい必須のことでした。


あと、当時のヒップホップが人種差別への怒りを訴えたプロテスト的なものが多かったことから、「こういうものの源ってなんだろう」と思って、それを調べた結果、スライ&ザ・ファミリー・ストーンとか、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールド、ドニー・ハザウェイ、アイズリー・ブラザーズあたりの作品をあさりましたね。当時このあたりはサンプリング・ソースとしても使われていたので余計に入りやすかったんですよね。温故知新が知的に出来たのも、この当時のヒップホップの良さでもありました。


この当時のヒップホップの良さって、一方でBoast(「俺こそナンバーワン」という俺自慢)の力強い魅力(ヒップホップの場合、”マッチョ”と呼ばれようがここのアイデンティティがデカいので、ここが非ヒップホップ・ファンから否定されるのは正直好きじゃない)の魅力がありながらも、クリエイターたちが「俺たちは当代最高の音楽を作ってる」自負が感じられ、競い合うようにして面白い音楽を作り合ってたような感じがあったんですよね。「アイツがこうしたら、俺はこうだ」みたいなね。そこはしっかり再評価もされてほしいんだけどな。


このあたりで、日本の洋楽シーンも「ヒップホップをなんとか捕まえよう」として、アレステッド・デヴェロップメントあたりを売ろうとして、それなりに日本でも成功を収めます。ただ、本国アメリカで「一発屋」の扱いになり日本で94年に出た2ndアルバムがさっぱり売れず、以後、皮肉にもビッグ・イン・ジャパンとなってしまったのは意外な展開でしたが。音楽性もリリックのメッセージも聴くべきものはあったものの、ストリートっぽさから乖離したチョイスだったのと、アーバン的なウケを期待し過ぎちゃったのが裏目に出てしまったんでしょうかね。アメリカでの当時の支持で言うとドクター・ドレーとかウータンあたりの方が圧倒的に影響力ありましたしね。


ただ、95〜96年から、それがおかしな方向に行くことになります。それが”ビギー・スモールズ”ことノトーリアスBIGとトゥパックによる”東西対決”と呼ばれるヤツですね。ビギーはNASと並ぶ、あの当時に出て来たラッパーの中で屈指のスキルとストーリーテリングを持ったラッパーだったし、トゥパックは”うまい”とまでは言えなかったものの、良くも悪くも繊細で正直な、まるでドラマの主人公みたいなキャラクターで強いシンパシーを集める愛らしさとカリスマ性があった。この2人の登場で、95年ぐらいにヒップホップのセールスもグンとはねあがるわけなんですけどね。ただ、これが日本では、ドクター・ドレーとかウータンが流行ったとき同様、アメリカとは天と地ぐらいの差があった。この2人の人気はやがて2人でディスりあいの対立を生み、96年に頂点に達するんですが、その瞬間、96年9月にトゥパック、97年3月にビギーがなくなってしまいます。皮肉なことにヒップホップが世界的な注目を集め出すのは、この2人の死の後からでした。


ここからあとって、ラッパーはトゥパックの露骨なコピーが増えるは、リリックからは危険性がなくなる(しょうがないけど)は、プロデューサーは一曲一曲のインパクト勝負になりすぎてアルバム1枚まかせられる体力がなくなるは、そしてなにより創造性よりもあまりにビジネスが先行した作りになってきたし。ぶっちゃけ、ここから先はジェイZとかフージーズ(ローリン・ヒル)、ミッシー・エリオット、アウトキャスト、ネプチューンズ、アウトキャスト、エミネム、カニエ・ウェストといった圧倒的に秀でた実力とわかる人たちとそうじゃない人たちの乖離がR&B/ヒップホップで激しくなってしまった。もう、僕はこの当たりになると、限られたリリース以外は全くこのジャンルに興味を持たなくなってしまいましたね。「ぶっちゃけ例外除きゃ思い切り過大評価なのに、なんでここまで売れてるんだよ」と不思議でしょうがなかったですからね。でも、本当に評価されるべきものが売れなかった時代を知らず、いきなり水増しされて売れたものを聴いて知ったリスナーにはそれが伝わらない。その意味で90年代末期や2000年代に「R&B/ヒップホップはロックなんかより全然クリエイティヴだ」などとトンチンカンなことを言う連中をロック側から見つけたりすると、胡散臭くて仕方なかったですね。


その後、R&B/ヒップホップをめぐる状況は日本でもかなり改善されてきたと思うし、本場アメリカのソレでも、ここ最近のウィークエンドとかオッドフューチャー系とかドレイクみたいなオルタナティヴでインディな感じのヒップホップが出て来たことで「90s前半までにあったクリエイティヴな空気が戻ってきつつあるんだな」と感じられて、それはそれで面白くあります。「日本人もしっかりブラック・ミュージックを理解出来てるじゃん」と最近は思います。ただ、だからこそ、90s代半ばくらいに「ラップは日本人の感性にあわない」とか言って、くっだらない一発屋とか当てに行ってた当時の洋楽業界がちょっと腹立たしいです。


次回はそのあたりについて語りましょう。
 
author:沢田太陽, category:ガラパゴス, 14:35
comments(1), trackbacks(0), - -